第398話 【外伝7】浅輪春奈
朝4時を過ぎると、外はもう明るかった。
昨年の全日本選手権で、北海道に行った時もそうだったと、冬希は思い出していた。緯度が高いと、そうなるのだろうか。
冬希が寝袋から這い出すと、すでに作業用のつなぎに着替えた天野がカーテンを開けて振り返った。
「行きましょう」
冬希は、一人だけクラブハウスのソファに寝ている裕理を起こす。
これから、馬に餌をやるという、大切な仕事があるのだ。
フランクフルトで無事に回収された3人は、春奈を乗せてきたくれた馬運車で、彼女の留学先である、ボンという街にある厩舎で、寝泊まりすることが許された。
馬運車を運転していたマルティナは豪快な女性で、見ず知らずの男3人に、厩舎の手伝いをする代わりに、食事と寝床を提供してくれた。
ニュルブルクリンクの自動車用サーキットで行われる自転車ロードレースの開催日は次の土曜日であり、ほぼ1週間、なんの身寄りもない国で、生きていかなければならないところだったのだ。
春奈に発見されなければ、どうなっていたんだろうかと、冬希は思う。
「こいつはヘイキューブがスコップ3杯」
冬希が読み上げ、裕理がリアカーいっぱいに積まれたブロック状の草の塊を各馬房の鉄製の桶に入れた。
「ペレットが1杯」
天野が手桶を大きな紙製の袋に突っ込み、一杯分掬うと同じ鉄製の桶に入れた。
馬は、ふんふんと鼻息を鳴らすと、鼻を器用に使い、裕理の入れたヘイキューブと呼ばれる餌を飼い桶から描き出すと、天野の入れたペレットだけを食べ始めた。
「こいつ、せっかく俺がやった餌を!」
ヘイキューブは、馬房のウッドチップの上に散乱している。
「散らかったやつも、後でちゃんと食べるらしいですよ」
「なんか納得いかねぇな、冬希」
「急ぎましょう」
天野が言った。
馬房の馬たちはみんな声をあげて、馬房の中で落ち着くなく動き回っている。
「なんか、急かされているみたいだな」
「見たいじゃなく、実際に急かされているんですよ」
3人の手際は、お世辞にも良いとは言えない。
腹を空かせた馬たちによる、明らかな抗議の声だった。
坂東輝幸、郷田隆将が、フランスの露崎隆弘のアパートに同居している状況は、すっと変わっていなかった。
3人は、WCI認定のレースに出場しつつ、勝ちやすいレースで賞金を稼ぐということを継続して続けていた。
欧州では、驚くほど自転車ロードレースが多く行われていた。
その中でも、坂東が徹底して自分たちの脚質に合ったレースを厳選していた。
「冬希たちは、腰を落ち着ける場所を見つけ、レースまでそこに留まるそうだ」
「そうか」
坂東は、タブレットからほとんど視線を動かさずに郷田に応えた。
「言葉も通じぬ見知らぬ土地で、なんの当てもなく放り出されたのだ。少々可哀想な気もするが」
「いい経験をした、と言うべきだろう。自転車に乗るのが得意なだけでは、人間として成長しているということには繋がらんからな。実際に困った状況にならなければ、胆力はつかんさ」
「そうかもしれないな」
郷田自身、母親の死という悲しみに直面することで、自分の中で変わった部分について気が付いていた。まだ完全に乗り越えたとは言い難いが、強くなったと言える部分は確かにあった。
「郷田、露崎。ニュルブルクリンクのレースに出るチームを確認するぞ」
「おい坂東。出場する殆どの選手は、クラブチームの所属だ。プロチームやコンチネンタルチーム所属の選手もいるが、休み明けで調整目的で出ているような奴らばかりだ」
調べる必要があるのか、露崎が首を傾げた。
「坂東が考えているのは、別のことではないのか」
「郷田、確かにそうだ」
「露崎、坂東が調べろと言っているのは、クラブチームの方だ」
「どういうことだ、郷田」
「冬希の年齢では、まだプロ契約は結べない」
露崎は、一瞬言葉を失った。
「レースの結果次第では、青山を獲りに行こうとするチームが出てくるということか、郷田」
「極論すれば、そういうことだ」
「確かに青山は、それなりに走れる男ではあるが、そんなことがありうるのか」
「それなりに、などと言っているようでは、お前の目は節穴だ、露崎」
坂東がタブレットを置きながら言った。
「なっ……!?」
「郷田、プロチームやコンチネンタルチームのデベロップメントチーム的な役割をしているクラブチームを洗い出すぞ」
「わかった」
住居を提供してくれている家主に対しての、坂東の容赦ない一言に苦笑しながら、郷田はデスクトップPCの置かれているパソコンデスクに向かった。
夕方の騎乗を終え、馬の手入れを終えた春奈は、放牧場で馬糞拾いをしている冬希の元へ向かった。
春奈がドイツに来て驚いたのは、馬を動かす時間の短さだった。
毎日のように乗ると、馬はすぐに痩せるのだという。
この厩舎の馬は、どれもぷりぷりしていた。
どうしてなのかマルティナに聞いたことがあったが、
「その方が可愛いでしょ」
ということだった。
それが本当の理由だとは思えなかったが、そういうものだと思うことにした。
冬希は、集めた馬糞を手押し一輪車に乗せて集積場所に下ろした後だった。
「おつかれさま」
「ああ、お疲れ様」
冬希は、自然体で接してくれる。
春奈の方が、むしろどう接して良いかわからないぐらいだった。
冬希に話しかけるのも、この時間帯にしている。
「すごい綺麗に掃除してるね」
「これもトレーニングだと思ってね。手伝いしてたら、自転車に乗る時間もないし」
「馬房掃除も上手だよ。お馬さんたちもすごい喜んで、馬房に戻ったらすぐゴロンしてるもん」
「してるしてる。あれはちょっと嬉しいんだよね」
相変わらず優しい表情だ。
この人は、他人を傷つけることなど言わないんだろうな、と春奈は思う。
冬希の活躍は、春奈も知っていた。
冬希が活躍するほど、自分も頑張らなければ、と思うことが出来た。
「いつも、こんなにハードな作業をしてるんだね。すごいよ」
「ここに研修に来る女の子たちは、みんな最初は体力不足が課題になるんだって。でも私は大丈夫だったみたい。冬希くんとずっと自転車に乗ってたからかな」
力こぶを作ってみせた。
腕の太さは、そんなに変わっていない。余計な部分に筋肉がつきすぎると、手綱で馬の口を邪魔してしまうことになる。
「ドイツ語も話せるんだもんなぁ。すごいよ。俺は日本語も怪しいのに」
「ははっ、マルティナから馬学の本を渡されたりするんだけど、大体英語かドイツ語だから、調べているうちに自然と」
3ヶ月ぐらいで、簡単な会話ぐらいはできるようになった。マルティナ曰く、発音がとても綺麗らしい。
今は、動画サイトでドイツ語の学習コンテンツなどもあり、実地で練習できる分、効率がいいのかもしれない。
「レースは明後日だね」
「こっちに来て全然乗ってないから、ぶっつけ本番だけど、まあ楽しんでぐるりと回ってくるよ」
「ニュルブルクリンクまでは、マルティナがまた馬運車で乗せて行ってくれるってことだけど、帰りは直接ケルンボン空港まで乗せて行ってくれるんだって」
「ありがたい!」
マルティナは基本的に世話焼きだが、それでもかなりのサービスだ。
裕理は英語もドイツ語も話せないが、なぜかマルティナと気が合うらしく、なんとなくの雰囲気で、驚くほど正確に意思の疎通ができているという点については、春奈も驚くほどだった。
「私は、この子達の世話があるから行けないけど、がんばってね」
「そう言われると、頑張らないといけないなぁ」
遠くで、叫ぶ声が聞こえた。日本語だ。
「あ、夕飼いの時間だ。行ってくる」
「うん、ランちゃんの馬房は気をつけてね」
「了解」
冬希は、長靴をブカブカとさせながら走り去っていく。
真理のことについて、話題にも出さないのは、彼が気を遣っているのか、自然なことなのかわからない。
もしかしたら両方なのかも知れない。
ただ、春奈は思う。
3人で過ごした時間は、本当に楽しかった。
ずっと夢だった欧州への馬術留学を躊躇するほどに。
「ほんとうに、楽しかったんだよ。冬希くん」
もうすぐ日本へ帰ってしまう。
不恰好な走り方で去っていく冬希の後ろ姿に、春奈は聞こえないような声で、そっと語りかけた。
今回、発端はトラブルだったかも知れない。
だが、会えてよかった。
嬉しかった。
春奈は心の底からそう思った。
好きな女の子と同じ高校に行くために自転車競技を始めたら光速スプリンターと呼ばれるようになっていました 中原圭一郎 @m_7changer
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