十影さんの振り子は動かない

小谷杏子

十影さんの振り子は動かない

 呆然ぼうぜんとした。

 そして、無意識に言葉を発した。「やめろ」「危ない」そう言った方が、この状況に合っているのに、夜の線路で寝転ぶ彼女に向かって、僕はこう叫んだ。

「好きです!」

 もうすぐ電車がくる。カンカンカンと警告の音が鳴り響く。赤いランプが点滅する中、僕は無我夢中で彼女の元へ走った。

 すくい上げるように、お姫様抱っこしながら線路の外へ出る。瞬間、背後で電車が轟々と音を立てて走り去っていく。

 彼女は腕の中でキョトンとこちらを見ていた。

 透き通るような白い肌に、こぼれそうなほど見開かれた大きな目、薄い唇は血色が悪い。そこからなぜか余裕たっぷりの微笑みを生み出して、彼女は言った。

「私のこと、好きなの?」

「はい」

 僕の即答に、彼女はそっけなく「ふーん」と笑った。

「物好きだねぇ。自殺止めるために告白してくる人なんて初めて見たよ」

「僕も自殺しようとしている人に告白したのは初めてです」

 そんなシチュエーション、そうそうないだろと思っていると、彼女は自分の行動を棚に上げて言った。

「頭どうかしてるんじゃない? 君、同じ学校だったっけ?」

「はい。同じ学校。環境工学部の一年、夏越なつごえ逸矢いつやです。十影とかげ咲季さきさん」

 僕は少しだけ冷静になり、彼女を地面におろした。腕が限界だった。

「私の名前、知ってるんだね」

「講義のとき、何度か隣に座りましたよ」

「そうなんだ。へぇー。覚えてない」

 十影さんのあっけらかんとした言いように、僕はため息を落とした。

 まぁ、過度な期待はしていない。話したこともなかったし。

 なんとも言えない虚脱感を覚えていると、十影さんはふらりと足を踏み出した。

 手入れが行き届いたショートヘアー。その毛先をなびかせながら、ゆったりと遮断機の元へ戻っていく。

 僕は不安になって、彼女の腕を再びつかんだ。

「待ってください」

「あ、もう大丈夫。次の電車まで待つのもダルいし、遺書を回収するだけだから」

 そう言って、雑草の中に潜めていた白い封筒を取った。確かにそこには「遺書」とある。

 十影さんは不敵に笑い、遺書で僕の頬を軽く叩いた。

「なんで死にたくなったか分かる?」

「さぁ……でも、人間を二十年やってたら死にたくなることもあるでしょうし」

 僕はズレた眼鏡を元に戻しながら言う。すると、彼女は不満そうに唇をとがらせた。

「平凡な回答だね」

「不合格ですか?」

「落第だよ」

 僕は困り、首筋を掻いた。では、主観的な意見を述べさせてもらおう。

「正直に言えば、死にたくなる理由が僕には分かりません。だって君はきれいだし。友達もたくさんいるし、お金もあるし、優秀です。非の打ち所がない」

 淡々と言うと、彼女は次第に頬をゆるめて笑った。

「私のこと、よく見ているね」

「好きなので」

「うーん。もうちょっと恥じらいながら言ってよ。つまんないな」

「つまんないやつですから、僕は」

 自虐ではなく本心からそう思う。こんな風に口ではおどけていても、表情は一切動かない。

 十影さんはオーバーサイズのシャツを揺らし、僕から距離を取った。そして、クスクスと魅力たっぷりに笑って言う。

「夏越くんって、私のストーカー?」

「………」

 厳密に言えば違う。が、この的確とも言える指摘に言葉が詰まる。

 なるほど。これは確かに「ストーカー」という立ち位置がしっくりくる。

 僕は少し時間を空けて手をポンと打った。すると、十影さんは呆れるように目を細めた。

「何その『今、初めて気がつきました』みたいな反応は」

「ストーカーしているつもりじゃなかったんです。今も僕はバイト帰りで、偶然君を見つけただけで。好きだから、つい気になって追いかけました」

「あっははははっ! そうなんだー。ウケる」

 まったく要領を得ず、弁解とも言えない僕の言葉に、彼女は屈託くったくなく笑った。

「そっかそっか。あー、でも自殺を止めてくれた人にストーカー呼ばわりはよくなかったね。ごめんなさい」

「いいです。十影さんが無事ならそれで……」

「そんなに好きならさぁ──私と付き合ってみる?」

 十影さんは僕の言葉にかぶせて、サラリとそう言った。

「は?」

 僕は素直に思考停止した。


 中性的な顔立ち。儚げなまつ毛。華奢きゃしゃ。オーバーサイズのシャツとジーンズ。全体的に水色。それが十影さんを構成している要素である。

 いつも決まった友達と一緒にいて、とくに仲の良さそうな男女のグループのちょうど右隣にいるような子であり、どうも彼らと引き立て合っているようなバランスを保っている。

「なるほど。つかさとひょうは目立つもんね。あの二人、付き合ってるんだよ」

 帰り道、僕たちはお互いの話をした。つかさというのは、十影さんといつでもどこでも一緒にいる可愛いふんわりとした女子であり、彪はその彼氏である。

「知ってます。動画配信で最近人気の二人ですよね?」

「そうそう、ゲームしてるだけの動画を上げてて、これが結構人気みたい。まぁ、身内だけのサークルみたいなもんだけど。楽しそうにやってるよ」

「十影さんはやらないんですか?」

「やらない。楽しみ方が分からないから」

 そう言う彼女の口元は少しだけねていた。そして、勘のいい僕はすぐに気がついた。

「もしかして……つかささんに嫉妬してます?」

 核心をついたかもしれないと、すぐさま思う。

 十影さんは目を細めて僕を睨んだ。そして、目をそらす。

「……さて、どうでしょう」

「そので分かりました。彪くんのことが好きなんですよね? それで、一緒にいるのがつらい、みたいな……そんな失恋ごときで死ぬことないのに」

「夏越くん、それは失礼だよ」

「すみません」

 僕は素直に謝った。十影さんは唇をとがらせ、ププッと噴き出した。

「って言うか、なんで夏越くんは敬語なの? かしこまって話されると、やりづらいんですけど」

 彼女は僕の口調を真似るように言った。これに対し、今度は僕が不機嫌になる。

「……クセです」

 まぁ、厳密に言えば違うのだが。

「夏越くんって、地元こっちなんだっけ?」

「……違います」

「あ、ってことは方言隠してるんだ。そうでしょ? ふふっ、可愛い」

「違います」

 どうやら彼女も勘が鋭いらしい。僕は心の中で頭を抱えた。

 そんなこちらの羞恥に構わず、十影さんは平坦なトーンで言った。

「さっきの自殺未遂、誰にも言わないでね?」

「あ、はい。それはもう。間違いなく誰にも言いませんし、言えませんし、言う相手もいません」

「そんな寂しいこと言わないの」

 先ほどの自分の行いを棚に上げて、彼女は軽く僕をしかる。

「……本当に失恋が原因で死ぬつもりだったんですか?」

 人気のない歩道で、僕の声はかなり低く不気味に浮き上がった。

 これに、十影さんはあっけらかんと振り返りながら言った。

「うん。そうだよ?」

「そんな、軽々しく……」

 しかし、言葉が続かない。

 正直に言うと、「命を大事に」だなんて薄ら寒いきれいごとを投げるのは違和感があった。僕だって、たまに「死」を切望することがある。

 将来に希望がなく、借金してまで学校に通って、アルバイトで食いつないで、それでも明日を生きていけるのか分からないから。僕らの世代はすでに絶滅危惧種みたいなものだから。

 まぁ、幸せそうな人が死を選ぶのは間違っていると思いたいが、そう言い切れないのが今だ。幸せそうに見えるのは単なる側面でしかなく、みんなきっと自分の世界を終わらせたい衝動を持っているのだろう。

「……そりゃあね、今目の前にある恋が手に入らないから、それに気がついたから、死にたくもなるよね」

 十影さんはおどけて言った。だから僕は言葉に詰まり、唸った。

 困る。返答に困る。無責任に「死なないで」と言えたらどんなにいいだろう。

「──付き合うって話ですが」

「ん?」

「十影さんは、無理して僕に付き合うってことになりますよね。それとも、彪くんに見せつけるため? あてつけのために僕を利用するんですか? 具体的な目的がよく分かりません」

「あー」

 彼女は思案げに唸った。

 その時間はごくわずかで、すっと目の前に回り込んでくる。そして、僕の頬を手でなでた。ひんやりとした冷たさに驚く。まばたきする間もなく彼女の薄い唇が迫ってきた。

 真夜中の路上。

 拒否できるはずもなく、無意識に迎えにいってしばらくそのままで──頭の中は空白だった。

 計ればごくわずかだが、それでも窒息しそうなほど長引く濃厚な時間が流れる。

「……全部だよ」

 やがて、彼女が言った。そこでようやく、この冷たいキスが終わったことに気がついた。

 頭の中がぼやける。濡れた唇を舐めて、彼女を見る。

「全部?」

「そう。具体的な目的っていうやつ。今、夏越くんが言ったの全部」

「あぁ……なるほど……」

 僕は曖昧に返事した。

 彼女は手のひらで唇を拭った。そして余韻に浸るでもなく、やはり平坦なトーンで続ける。

「それでも私のこと、好きでいられる?」

「はい」

 僕は間髪を容れずに答えた。対し、彼女は苦笑いした。

「即答だね……それじゃあ、よろしくね。夏越くん」

 こうして僕らは秘密を共有し、恋人になった。


 ***


 翌日、講義を終えて構内を歩いていた。昼食をとるため、コンビニへ行く。

 十影さんと恋人──実感がない。まず、どう振る舞えばいいのか分からない。

 だが、現実は夢のように甘やかではなく、ひんやりしている。

 僕の頭は基本的に冷静だった。彼女の自殺未遂について、もう少し真剣に考えるべきだ。僕を利用して生きようとしている十影さんの本音を知りたい。

 そう考えていたら、ポケットに入れていた携帯端末が震えた。表示は、十影咲季。

「はい」

 電話に出る。

『あ、もしもし。夏越くん。今から研究棟に来てくれる? 課題、手伝って』

 さっそく十影さんからの呼び出しだ。拒否する気はなく、即答を返す。

 さながら僕は彼氏というより飼い犬である。


 コンビニで適当に飲料水とおにぎりとおやつを買い、研究棟の中へ向かった。

 実験室と研究室が並ぶひっそりとした廊下を通り、指定された部屋へ。

 奥へ行けば行くほど古びていく棟内は、普段あまり使われないから男女がこそこそと会うにはうってつけだった。うわさでは、教授と学生の隠れ家だとか。

 そんな嫌らしい実験室の片隅で、彼女はを揺らして遊んでいた。

 古い木材の匂いが鼻の奥をくすぐる。

「せっかくのデートなのに、なんだか味気なくてごめんねー」

「そうですね。まさか、こんなところで会うとは」

「付き合ってること、堂々と宣言してもいいんだけどね……夏越くんが困るんじゃないかなーって思って。だから、ここで密会」

 彼女は楽しげに笑った。別にそんなこと、君が気にしなくていいのに。

「十影さんのお願いなら、なんだって聞きますよ」

「ふふっ。優しいんだね」

「そりゃ、好きな女の子にはベタベタに優しくします」

「わーお、夏越くんも冗談言うんだねぇ」

 彼女はケラケラと笑った。僕は愛想笑いもできずに、ただただ困る。

「で、課題って? 嘘ですよね」

「あ、バレたー? そだよー。夏越くんがぼやぼやしてるから、こうして恋人タイムを作ったわけ」

 十影さんは優雅に微笑んだ。そこに昨日の儚さは微塵みじんもない。

「とは言え、具体的にどうしたらいいんでしょう?」

 僕は真剣に聞いた。室内での飲食は禁止なので、昼飯はしばらくお預けだ。

 十影さんは「うーん」と思案げに振り子を揺らした。球体が右へ左へと揺れていく。

「手を繋ぐ?」

「お姫様抱っこして、キスまでして、いまさら手を繋ぐんですか?」

「それもそうね」

「別に無理して恋人にならなくていいんですよ。ふりだけすればいいのに」

「あら。だって夏越くんには協力してもらわないと。でなきゃ私、死んじゃうよ?」

 十影さんは微笑を湛えて言った。僕はやはり言葉に詰まった。

 困る僕を笑うように、彼女はいたずらめいた目で言った。

「お願いがあるの。夏越くん。私に恋を教えて?」

「………」

 かわいいのに、かわいくない。そう思う。

「順番がめちゃくちゃですよ……そもそも、昨日のキスはなんだったんですか?」

「味見かな。あるいは口止め料」

 とんでもない発言に、僕は分不相応にも傷ついた。彼女の一言一言に感情が振り回されている。

「傷ついた?」

 十影さんが興味深そうに訊く。

「傷つきました」

「じゃあ、慰めてあげる」

 彼女は怪しげに微笑み、手招きする。完全に遊ばれている。

 僕は心が刺々しくなり、彼女の目の前に立った。手を伸ばして、十影さんの繊細な手をなでるように触る。ほどくように指を絡めて、繋ぐ。

 すると、彼女は僕を引き寄せた。バランスを崩した僕は彼女の胸に顔をうずめるしかなくなった。

 鼓動が聞こえる。そして、ひんやりと冷たい。

 彼女は僕の髪の毛を触って言った。

「夏越くん」

「はい」

「ドキドキしてる?」

「はい」

「ほんとかなー?」

 十影さんは僕の頭の上で笑った。そこには昨日のキスのような軽さがあって、彼女の温度と同じように冷ややかだ。

「十影さん」

「なぁに?」

「あんまりからかわないでください。僕、本気にしますよ」

「うん。いいよー?」

「本当に?」

「うん。なんなら襲ってもいいよ?」

「………」

 返答に困ることを言うな。

「ごめんごめん。でも、本当にいいよ。夏越くんが私を好きでいてくれるなら、なんでもしていいから」

「………」

 その言い方じゃ、十影さんは僕のことを好きになってくれないみたいじゃないか。

 欲深い何かが全身に回る。一度、味わったらもう元に戻れない。

 あぁ、嫌だな。まるで獣みたいで気持ち悪い。でも──ずっと、こうしていたい。

 心がどんどん傾き、首元に頬をすり寄せてみても彼女は平然としていた。

 大きく動いていた振り子が次第に低速していくまで、僕はずっとそのまま彼女を離しはしなかった。


 ***


 つかささんと彪くんにバレたのはその翌日だった。

 しかし、彼らはすぐに僕を受け入れた。気を使って「一緒に帰りなよ」とか「夏越くんもおいでよ」とか言ってくれる。しかし、僕はやんわりと断った。

 一方で十影さんもいつもの調子だった。僕を彼らに突き出すでもなく、輪に入れようともしない。

「夏越くん、誘わなくていいの?」という声は意外にも彪くんから聴こえてきた。

 話によれば、十影さんは彪くんが好きだった。でも、その恋は叶わなかった。そして自殺を決めた。そんな彼女の巨大な感情を、まるで知らない彪くんとつかささんに苛立ちさえ覚える。

 しかし、十影さんは十影さんでいつも通りなのだ。

 不自然──そう考え始めた頃、僕はふいにつかささんから話かけられた。一人で廊下を歩いているときに、彼女は僕を手招きされては無視できるはずもなく。

「ねぇ、夏越くん。本当に咲季のこと、好き?」

「え? はい」

「うわ、マジで即答だ……」

 つかささんは目をまんまるにして驚いた。どうやら、確かめるために話しかけてきたようだ。

 すると、十影さんがトイレから出てくるのが見え、つかささんは神妙な顔で早口に言った。

「あの子には気をつけてね。多分、誰でもいいんだと思う」

「えっ?」

 突然の言葉に思考停止する。どういう意味だ……?

「なんの話ー?」

 十影さんが割って入ってくる。つかささんもにこやかに「なんでもなーい」と笑って返した。女子という生き物の恐ろしさを地味に感じた瞬間である。

 それから僕は、つかささんの言葉を脳内で無限ループさせ、柄にもなく思いつめた。

 十影さんのどこがどう好きなのかはうまく説明できないが、いつの間にか彼女を目で追いかけていた。劇的なきっかけはない。強いて言えば、本能的に求めている。

 でも、いつか彼女が誰かのものになって、僕の目の届かないところへ行ってしまったら僕はとてつもない後悔をすると思う。気持ちを伝えたら良かったと思うだろう。

 遊ばれている自覚はある。彼女が誰かへ乗り換える前に、たくさん伝えないとダメだ。

「──十影さん」

 恋人になって十日。すでに一緒に帰るほどに親密だが、心の距離は一向に縮まる気配がない。

「十影さん。好きです」

「うん。知ってる」

 彼女はそっけなく返した。ちなみに、このやりとりは毎回交わされている。ここで僕はいつも黙るのだが、今日は違った。

「僕は真剣です」

「具体的にどこが好きなの?」

「全部が好きです。具体的にどこがって言い切れません。本能的に好きです」

「それが分かんないから聞いてるのに」

 十影さんは呆れたように言った。チラリと顔色をうかがうと、彼女は光のない瞳で真っ直ぐ前を見ていた。それはなんだか、死にたそうな顔だと思った。

「愛しています」

 さっきよりも強い言葉をかけた。自分でも無責任だと思った。それは彼女も思ったのか、眉をひそめてこちらをじっと見上げてきた。

「愛……か」

 十影さんが自嘲的に呟く。

「愛ってなんなの?」

 その質問に、僕は戸惑った。同時に、違和感を覚えた。

「……表現、ですかね?」

 そんなに深く愛について考えたことはないので自信なく答えると、十影さんは真面目に唸った。

「表現ね……でも、分かりにくい。夏越くんは表情豊かじゃないからなおさらだね」

 やっぱり伝わらない。でもそれは、彼女だけじゃない。家族や友達にも僕のすべては伝わらない。だから、諦める。そして、急に自分の孤独感に気がつく。

 僕の表情が動かなくなったのは、果たしていつからだったろうか。

「感情も数値化できたら安心できるのにな」

 十影さんはふざけるように言った。

 確かに、僕は表情豊かじゃないから伝わりにくいかもしれない。

 だが、彼女の案も突拍子ないものだ。言葉や触れ合いよりも、数字しか信じてないような──

「数値化できたら、僕の気持ちを理解してくれますか?」

 堪らず訊く。すると、彼女は明るげな笑顔で答えた。

「んー、保証はできないなぁ。私、人を好きになることができないから」

 その言葉に、僕は繋いでいた手をこわばらせた。

 この微妙な加減に気づいた十影さんは立ち止まり、僕の顔を覗き込んできた。

「動揺してる?」

「してます」

「だよね。いつも無表情な夏越くんがアホみたいにびっくりしてる──つかさから何か言われたよね? 私のこと」

 やっぱりあの場面を見られていた。そして、気づかれていた。

 女子は怖い生き物だ。しかし、僕は十影さんという生き物について得体のしれなさを感じ、怯えていた。

 正直に答える。

「……多分、誰でもいいんだと思うって、言われました」

「あははっ。うん、そうなの。私、別に彪のこと好きじゃない」

 彼女は渇いた笑いを宙に投げた。化けの皮が剥がれたみたいに、すべてを晒すように不気味じみていて、でも抱きしめたくなりそうなほど脆い。

 僕はゆっくりと質問した。

「彪くんのことが好きで、つかささんに嫉妬していたというのは嘘ですか?」

「ていうか、それを言い出したのは夏越くんだからね。私はその話に乗っかっただけだよ」

 確かに──そうだ。僕が勝手に勘違いしたことを彼女が肯定しただけのこと。痛い勘違いだった。

「……夏越くんはさ、普通にいい人だよね。普通に正しく人を好きになれる。あったかい家庭に生まれて育ったんだろうね」

 横から聞こえる彼女の声は羨むような響きがある。

 僕はチラリと彼女を見た。逆光の中、その目はまた死にたそうに翳っている。

「私もね、普通に恋愛できると思ってた。普通に、彼のことを好きだと思っていた」

「………」

「初めての夜だった。そこで気がついた。あ、私、こういうことがしたかったわけじゃないって。最後まで終わっても何も感情が動かなくて。必要性を感じなかったし、ただただ気持ち悪かった」

「………」

「だから、次はつかさと付き合ってみた。もしかしたら、女の子とならうまくいくのかもしれないって思って。それでも動かなかった。まぁ、実験は失敗だったよね」

 十影さんは大きなため息を漏らした。

「私の『好き』はね、薄いの。付き合いやすいから付き合ってる、みたいな。別に、体の関係だけが愛じゃないかもしれないけどさ、心と体がアンバランスで、気持ち悪くて。求められても返せないし。私は満たされないし。だったらもう、いっそ──」

 死んでしまえばいいと思った。そういうことなんだろう。

 僕はふと冷静に考えた。確かに「失恋」かもしれない。つかささんと彪くんに抱いていたものが「恋」ではなかった。「恋」だと思っていたら違った。そう考えてみれば、確かに彼女は「失恋」したのかもしれない。

「──愛着が持てない。つまり、誰にも執着できない。それは確かに孤独です。死にたくもなります」

 聞いたことがある。

 幼少期の家庭環境が原因で成人した時に困る人。愛情を知らない人。人間に対し恋愛感情を持てない人。その中のどれかだと断定する気はないが、当てはまる要素があることは否めない。

 彼女の振り子はどこにも動かない。それが結論だ。

「そうだね……振り返ってみたら確かに私は大事にできないタイプだった。誰に対しても、自分に対してもそうで。多分、これから先、私はいろんな人を傷つける」

 悲観的な彼女の横で、僕はあのキスを思い出していた。あまりにも冷たくて、余韻もない。その意味が分かって、僕はゆるゆると手をおろした。

 理性はなく、でもどこか冷静でいて、頭の中が冴えている。

「それでもいいです」

 それはおそらく場にそぐわない一言だった。僕の言葉に、十影さんは首をかしげる。

 僕は不思議と安堵していた。

 横で不安そうにする十影さんを慰めてやりたくなり、堪らず抱き寄せた。

「……夏越くん」

「はい」

「こんなことしても、私は……」

「いいですよ、それでも。君は誰も好きにならない。それでいいです」

 僕のものにはならない。でも、誰のものにもならない。だったら、このままでいい。このままがいい。だって僕は、愛されたいわけではない。

 彼女は嫌がることはなく、無抵抗にじっとしていた。そして、静かにつぶやいた。

「本当なら、ここで夏越くんのことを好きになるんだろうけど、でもやっぱりダメだよ。心が、動かない」

 だんだんとしおれていく声に切なくなる。思わず強く抱きしめるも、彼女にはこの気持ちが届かない。

「人を好きになれないからって、そんな理由で死なないでください」

「生物としては欠陥品だよ。種を残す気がないんだから。そういう個体は生きのびることができない」

 突然に研究者らしい口ぶりをする。

 僕は彼女の思考が読めたような気がし、思わず噴き出した。

 十影さんはキョトンとした目で僕を見上げた。

「夏越くんが笑った……意味が分からない」

「君が愛しいから笑いました」

 十影さんは不服そうに「ふーん?」と言った。対して、僕は調子よく返す。

「じゃあ、こうしましょう」

 彼女から少し離れ、同じ目線になる。

「僕のために生きててください。君が死んだら、僕が困ります」

「夏越くんのために生きる……? それ、私になんのメリットがあるの?」

「死ななくて済みます」

「そんなの延命に過ぎないでしょ」

 意地になって言う十影さんに、僕はまたおかしくなってしまい、笑った。

「でも私、何十年も死ぬまでこのままなのは嫌だよ。だったら、さっさと終わらせた方が──」

「自分のために生きていたくないなら、僕のために生きてください。君は僕を笑わせることができる唯一の人なんです」

 きっぱり言い放つと、彼女は遠慮がちに目を伏せた。僕の胸に顔をうずめる。

「……でもいいの? 私は夏越くんに何も返せないよ。ただ生きてるだけで、愛情を求められても返せない。それでも私のこと、好きでいられる?」

「はい」

「ふふっ……即答だね」

 僕の答えに彼女は噴き出した。そして、鼻をすする。

「……分かった。そこまで言うなら、死なないであげる」

 十影さんは目をうるませて笑った。安堵の笑顔だ。この笑顔は絶対に守らなければならない。

 こうして僕は、動かない彼女を生涯かけて片想いしようと決めた。

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