掌編・赤と緑
柊圭介
幸福の儀式
「おや、もうそろそろだな」
そう言いながらピエールはソファに腰かけてテレビをつけた。今日は十二月三十一日。時刻は夜の十一時半になろうとしている。もうすぐ凱旋門を背景にカウントダウンのショーイベントが始まる時間だ。
ソファに陣取った兄を横目に、ジャンは台所へ行くとポットに湯を沸かした。棚の奥から赤いふたと緑のふたがついたインスタント食品を取り出す。この日のために日本食材店で買っておいた、とっておきの品だ。
日本では大晦日にこれを食べるという決まりがあることは、
沸き立った湯をそれぞれのカップに注ぎ、再度ふたをする。それから期待と喜びにうわずりそうな声を抑えてリビングにいる兄を呼んだ。
「ピエール、ちょっとこっちに来てごらん」
「なんだよ、これからショーが始まるってのに……なんだこれ?」
台所に入ってきたピエールは、二つ並んだ物体を見て訝しげな顔をした。
「日本のカップ麺だよ」
「ラーメンか?」
「いや、違うよ。Sobaっていうんだ」
ピエールはジャンと違い、日本通ではない。ゆえに日本の食べ物といえばラーメンと寿司ぐらいしか知らない。
「年越しにこれを食べると幸福になるらしいんだ。だから兄さんと一緒にと思って」
それを聞いてピエールは目を丸くした。
「さっきデザート食べたのに、また食うのか?」
「サプライズにとっておいたんだ」
「むしろ先に言ってくれよ。りんごタルト食い過ぎてもう入らねえよ」
「そんなこと言わないで。これは特別なんだ。儀式みたいなものだよ。これを食べないと年を越せないんだ。頼むから一緒に食べようよ、ねえ」
ピエールはため息をついた。ジャンは言い出したらきかない。仕方ない。弟のためにその儀式とやらにつきあってやるか。
しかし、ここに一つ疑問がある。
「この赤と緑はどう違うんだ?」
「えっ?」
「この二つはさ、どう違うんだよ」
痛いところを突かれた、とジャンは思った。スーパーでSobaという棚に並んでいたから両方買っただけで、彼も違いを知らないのである。
「えっと……ガルニチュールじゃないかな」
「ガルニチュール?」
「ふたの写真を見てごらんよ。中に入ってるものが違うだろ」
「それだけかな。おかしいぜ。こっちは五分、こっちは三分って書いてある」
「ああ、じゃきっと麺の太さが違うんだよ」
「あやしいなあ……」
そうする間にジャンがセットしておいた三分のタイマーが鳴った。ジャンはタイマーをもう二分追加すると、そわそわしながら緑色のカップのふたを開けた。いい感じに膨らんでいる麺を見て、ほっと安堵のため息をもらす。
「ほらね、Sobaだよ。きっともうひとつは太麺なんじゃないかな」
「そうか、じゃおれはこれがいいな。パスタでも太い麺は苦手なんだ」
言いながらピエールはカップから立ち昇る湯気を嗅いだ。
「こりゃなんの匂いだい?」
「魚のブイヨンだよ」
「ラーメンと何が違うんだ?」
「ラーメンは鶏とか豚のブイヨンだろ。日本食はやっぱり魚のブイヨンが伝統だからね」
「へえ、そうなんだ」
ピエールは感心している。僕は兄の知らないことを知っている。もう子どもの頃の僕ではない。
日本通としての誇りを取り戻したところでタイマーがもう一度鳴った。ジャンは赤い方のふたを開け──固まった。
「あれ? これは白いぜ。白いSobaなのか?」
一緒に覗き込んだピエールが不思議そうな顔をした。
ジャンは動揺を隠すことができなかった。彼はおのれの過ちに気づいていた。そう、忘れていたのだ。日本の麺にはもうひとつ、Udonがあるということを。なんと迂闊なんだろう!
「僕が悪かった。しっかりパッケージを見なかった僕の責任だ。Sobaは兄さんに譲るよ。僕はUdonでいい」
「何を言ってるのかよく分からないけど、この中にガルニチュールを入れればいいんだな」
「そうだね、トッピングみたいなもんだ」
二人はそれぞれのカップにそれぞれ割り当てられた具材を入れようとした。しかしプラスチックの小袋を破ったピエールがまたもや訝しげな顔をした。
「ジャン、このかたまりは一体なんなんだ?」
「それはTempuraだよ」
「Tempura?」
「ああ、正確にはKakiagéというんだ。ほら、この赤いのはエビだよ」
「で、これは何で出来てる?」
「それは小麦粉と水を混ぜたものを油で揚げたもので……」
そう答えると途端にピエールが眉間に皺を寄せた。
「炭水化物を揚げたもの? 糖分と油のかたまりじゃないか」
彼はズボンの上に乗っかった腹をさすりながら首を振った。
「残念だけどこれを食べるわけにはいかない。ドクターに糖分と油っぽいものは禁止されてるんだ」
さっきりんごタルトをしこたま食っておいて何を言ってるんだ、とジャンは心の中で毒づいた。
「だからこれはお前にやるよ、ほら」
と、ピエールはかき揚げをジャンのカップの中に放り込んだ。
「あっ! 勝手なことしないでよ!」
みるみるうちにかき揚げはジュクジュクとブイヨンの中に溶けていく。ジャンはムッとした。彼は兄のこういうところが嫌いだ。ひとの許可もなく勝手に行動する。昔からそうだ。
「じゃとりあえず食ってみようぜ」
引き出しからスプーンとフォークを取り出すと、ピエールは茶色いブイヨンの中へスプーンを沈めた。ジャンはそれを見てあわてて止めに入った。
「ダメだよ兄さん! スプーンとフォークだなんて邪道だよ! 今日ぐらいは箸を使ってよ」
ピエールはうんざりした顔で弟を見た。
「勘弁してくれよ、おれは箸が苦手なんだ。家でぐらい好きな道具で食わせろよ」
「でもフォークでそばを食べるなんて正しくない。そんなの日本文化に対する冒涜だ!」
「大袈裟だな。じゃお前の言う正しい食べ方ってのを見せてみろ」
「いいとも。こうするんだ」
ジャンは備品の割りばしを器用に持つと、カップの端に口をつけ、ふうふう息を吹きかけながらブイヨンを口にした。それから湯気の立つうどんをすくいあげ、なるべく音を立てるようにしてジュルっとすすり込んだ。
「熱ッ! 熱ッ!」
「ほら言わんこっちゃない。やけどするぞ」
「でも美味い! 兄さんもやってごらん。美味いよ!」
「そんな気持ち悪い音を立てるなんておれはいやだ。だいたいお前にだってできやしないじゃないか。無理して日本人の真似しようとするな」
それを聞いてジャンはカチンときた。
「日本の麺ってのはこうやって音を立てて食べなきゃいけないんだ。僕がどれぐらい練習してきたか兄さんには分からないんだよ」
「おれはスプーンがないと飲めないし、家でぐらいフォークで食いたい。それが嫌ならお前ひとりで儀式をやれ」
兄にこう言われては譲るしかない。ジャンは肩をすくめると、音を控えめにうどんをすすり始めた。ピエールもゆっくりとブイヨンを口へ運ぶ。
「美味いな、これ」
「だろう?」
「魚のブイヨンってのも悪くないな」
「僕のブイヨンもTempuraが溶けてまろやかだよ」
「あ、それはおれ要らない。……ていうかさ、その茶色いやつは何だい?」
うどんの中の四角い物体を指してピエールが尋ねる。
「ああ、これは豆腐を揚げたものだよ」
「また揚げ物か」
「だけどこれは煮てあるから油っぽくないよ」
「ほお、じゃちょっと味見していい?」
言うが早いかピエールはフォークを突っ込み油揚げをかっさらった。まただ。どうして兄はこう勝手なのだろう。ジャンは憤ったが、どうせこの甘辛の味付けは兄の味覚には合わないはずだ。すぐ返してくるに違いない。
しかし。
「美味いな、これ。気に入ったわ」
フォークに突き刺した油揚げをかじったピエールが嬉しそうに笑いかける。
「ちょうどいいだろ、とりかえっこで」
ジャンはもう何も言わなかった。
それからしばらく二人は黙って箸とフォークを動かした。
「ところで、さっきから気になってんだけどさ、」
「なに?」
「これ、なんて書いてあるんだ?」
ピエールが指したのは赤と緑のふたのおもてに書いてある文字である。ひらがなには心得のあるジャンは得意げに答えた。
「これは……き・つ・ね。こっちは、た・ぬ・き、だね」
「どういう意味?」
「えーと……確か、きつねは狐で、たぬきは……アライ……グマ?」
「は? なんでSobaがアライグマなんだ?」
「違うよ、こっちはUdonだよ。これは狐で兄さんのがアライグマだ」
「だからなんで動物の名前なんだ?」
「知らないよ。チャーミングだからだろ」
「意味が分からん」
実際ジャンにも理由は分からなかった。ただ、兄がアライグマを食べているのがなんだか無性に似合う気がした。もっとも、具を取り替えた時点で赤いたぬきと緑のきつねになったことは彼らには知る由もない。
「ふう。食った食った」
結局ブイヨンまで全部飲み干した二人は満足そうに腹をさする。
「美味かった。腹がパンパンだ。来年は本気でダイエットだな」
「それだけ食っといてよく言うよ」
「うるさい」
ピエールがバツの悪そうな顔で弟を睨んだ、その時である。
リビングから盛大なテレビの音声が聞こえてきた。
「しまった! カウントダウン忘れてた!」
二人はバタバタとリビングへ駆け込んだ。テレビの画面にはちょうど「新年おめでとう!」の文字が華々しく映っているところだった。人々の歓声とともに、凱旋門の裏から大きな花火がいくつも打ち上げられている。
「おめでとう」
兄弟は満面の笑みでお互いの頬へ祝いのキスを交わした。
「ショーは見逃したけど、Sobaが美味かったからよしとするか」
「よかった。じゃあ今年の暮れも食べよう!」
「そうだな」
嬉々とした弟の顔を見てピエールは思う。この調子じゃ毎年食べることになりそうだ……。
彼は苦笑しながら小さくこうつけ加えた。
「ただし、これからはデザートの前にしてくれよ」
了
掌編・赤と緑 柊圭介 @labelleforet
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