第4話 遠きに光るは高原の風 ―六百十八番島にて―
巡航船は六百十八番島に停泊している。
船の損傷を修繕するのに少しばかり時間を要していた。三日程度はこの港で足止めだ。暇を持て余した隊員たちは好きに過ごしている。周辺を観光する者、市場を覗く者、娯楽に興じる者。それぞれが思いがけない自由時間に羽を伸ばしていた。
そんな中、巡航船の手摺りに寄りかかって海面に釣り糸を垂らしているのはイーシュ隊員だ。傍で大鷲のウィルゼスカが静かに釣果を見守っている。鼻歌はイーシュ隊員の故郷の旋律だった。
「イーシュさん」
名前を呼ばれたイーシュ隊員が振り返る。アルロア隊員が少し気まずそうに立っていた。同じ巡航船の乗組員とはいっても所属する隊の異なるイーシュ隊員とアルロア隊員にはそれほど交流があるわけではない。出身も違えば、年齢も違う。アルロア隊員はウィルゼスカのことを少し苦手なのだと思っていたが、珍しいこともあるものだとイーシュ隊員は返事をした。
「どうした、アルロア隊員」
「あー、その……」
自分から話し掛けておきながらアルロア隊員はまごついていた。
「釣ってみるか?」
「えっ、いえ、遠慮しておくッス」
そう言いながらもアルロア隊員はイーシュ隊員の隣に立った。それから何を言うわけでもなく海を見ていたアルロア隊員だったが、意を決したようにようやく口を開いた。
「イーシュさんは戦うのが怖くないんスか?」
海賊との交戦で何か思うところがあったらしい。イーシュ隊員は横目でアルロア隊員を見た。初めての戦闘で心が乱れるのは新人によくある話だ。
「俺は戦闘員ではないんだが」
「だからイーシュさんに聞いたんスよ。ゼーラ隊も、バルツィ隊も、戦闘員は戦うために生まれたような人ッスから……」
なるほど、とイーシュ隊員は思った。メルケ副隊長やペイサー副隊長は戦闘員の中でも少々特殊だ。アルロア隊員にとっては参考にならないだろう。イーシュ隊員はアルロア隊員の悩みに付き合うことにした。
「俺だって戦うのは怖いさ」
「でも、イーシュさんは弓の名手ッス。相手の攻撃の届かない距離を保てば安全じゃないッスか?」
「そうだなぁ、確かに剣と比べれば俺の立ち位置は安全だと言えるだろう。特にこの辺りは白兵戦が基本だからな、遠距離の射撃手は生存に有利かもしれない」
釣り糸が引いた。イーシュ隊員が引き上げると小振りな魚が釣れた。釣り針から外した魚をウィルゼスカに差し出す。ウィルゼスカは魚を突きながら食べた。
「だが、そう簡単に死なないのは、俺もアルロア隊員も同じだろう?」
円環の恩恵は円環の外に出ても暫くの間は持続する。円環で過ごした歳月の分だけ体内に加護が蓄積される。その蓄えを少しずつ消費しながら巡航隊は旅を続ける。帰路の今は円環者の完全な不死性は薄れつつあるが、それでも円環の外の人間より頑丈であることに違いは無い。
「そうッスけど……でも、怪我すると痛いし、頭を槍で貫かれたら死ぬッスよ」
アルロア隊員はペイサー副隊長の一撃を思い出したようだった。ペイサー副隊長の戦う姿を目にした新人たちは海賊と同じように恐れを抱いて戦意を喪失してしまう。戦闘員の中でもあれほど苛烈な者は少ないから希有な経験が出来たと喜んでも良いものだが、それでもなお、ペイサー副隊長の印象は強すぎる。
仕方の無いことだとは思いながらも、イーシュ隊員はそれを仕方が無いという一言で片付けるわけにはいかなかった。後続の者たちを育てるのも大切な役割だ。
「あんたは自分が傷付くのを恐れているんだな」
「それって当然のことッスよね?」
「もちろん、真っ当なことさ。これからも変わらずにその思いを抱き続けておくと良いよ」
だが、とイーシュ隊員は言葉を続けながら空いた手でウィルゼスカを撫でた。
「いつか、自分の命よりも大切に思えるものが出来るだろうから、その時のために憶えておくと良い。誰かを喪いたくないと強く願った瞬間が、始まりだと俺は思う」
「始まり? 始まりって何が始まるんスか?」
「何だろうな、どう表現したものか……どうにか言葉を尽くすならば、限界を超える、そういった感覚だな」
「成長するってことッスか?」
「さて、あれを成長と呼ぶべきかどうか……。もっと本能的な覚醒に近いんじゃないだろうか。円環で過ごす時間が長くなると、満たされることに慣れすぎて欲が薄れていくと言われている。これは種を残そうとする生殖の本能や、危険に立ち向かう勇敢さ、より良いものを勝ち取ろうとする闘争心といったものも含まれる。だが、永遠が当たり前ではない円環の外では、生き延びようとする生存本能が呼び覚まされる。あ、これはバルツィ隊長の受け売りだ」
「イーシュさんにも覚醒する瞬間があったッスか?」
「今日のアルロア隊員は質問攻めだな」
そう笑いながらもイーシュ隊員は答えた。
「俺の場合は、少し違うのかもしれない。どれほど円環で過ごしても、故郷で生きた日々はそう容易く消え去ってくれるものじゃないからな」
「イーシュさんの故郷って、どんな場所ッスか?」
「俺は天翔る高原の民だよ」
「初めて聞いた言葉ッス」
アルロア隊員は首を傾げた。
「俺の出身は南東海域の四百十四番、かつては高原と呼ばれた場所だ。円環が出現するまでは、標高の高い場所に平らな大地が広がっていて、そういった土地を高原と呼んでいたんだ。俺たちの先祖は昔からそこで馬に乗り、鳥と共に狩りをして生きてきた。円環の出現で大半が海に沈んでも、標高の高さが幸いして草原はまだ残っている。アルロア隊員は狩猟が野蛮な風習だと習っただろう?」
「な、習ったッス……」
決まりが悪そうにアルロア隊員が返事をする。永遠が約束された円環では、狩猟のように不確実な行為は野蛮であるとされる。絶対ではない物事に費やす時間も労力も無駄で、愚か者のすることだと蔑まれている。加えて円環では、傷が癒えることを利用して、囲いの中で逃げ惑う動物を何度も殺しては生き返らせて再び殺すという残忍な行為が富裕層の間で密かに行われているとか、そういった噂がまことしやかに囁かれている。
円環で生まれ育ったアルロア隊員にとっては、狩猟生活というものは劣等な生き方だ。イーシュ隊員はそのことを非難するつもりはなかった。円環の常識では、それが正しいのだから。
「狩りは獲物に恵まれる時もあれば、何日も不猟が続く時もある。季節や天候に大きく左右されるし、当然、狩りの途中で怪我をすることだって珍しくはない。そんな危険な生き方は無意味だと見做す円環の言い分も俺は理解しているよ。俺の常識とは違うから共感はしないだけだ」
釣り糸がまた引いた。先ほどよりも大きな魚が釣れた。ウィルゼスカは喜んで啄んでいた。
「アルロア隊員は、生きるということはどういうことだと思う?」
今度はイーシュ隊員がアルロア隊員に質問する番だった。
「え、えーっと……」
アルロア隊員は言葉に詰まる。
「何でも良いよ、思ったことをそのまま口にしてくれ」
「え、生きるってことは、息を吸って吐く、とか」
「ああ、死人は呼吸しないな。他には?」
「心臓が動いている、とか。あ、食事をする?」
「動物も植物も栄養は必要だよな」
「それから、えーっと……」
アルロア隊員は唸り、恨めしそうにイーシュ隊員を見た。
「イーシュさん、意地悪な顔をしているッス」
「そうか?」
アルロア隊員に指摘されたイーシュ隊員は笑った。
「円環育ちの話は面白いと思っていただけだよ。俺のような人間には無いものを持っている。あんたにとって生きるということは、平穏無事であることなんだな」
「そりゃあ、平和が一番ッスよ」
「ペイサー副隊長はさ、約された永遠が生を渇望させると言っていたよ。生きているという実感は、常に死と隣り合わせ。戦うことでペイサー副隊長は生きていると感じられるんだ。だからペイサー副隊長にとって生きるということは、戦うことなのかもしれない」
「く、狂っているッスよ……」
血の海で笑うペイサー副隊長を思い出して、アルロア隊員の顔が引き攣った。でもさ、とイーシュ隊員が言う。
「俺はペイサー副隊長の言うこと、分かるよ」
「え、イーシュさんも同じってことッスか? 相談相手を間違えたかも……」
「ペイサー副隊長の言い分が理解出来るというだけで、俺も同じだとは言っていない。だが、望む答えが欲しいなら、ティゼルに聞けば良いさ。何でも歓迎、何でも肯定してくれるぞ」
「お、オレは別に、自分の望んだ答えが欲しいわけじゃないッスよ。ただ、何と言うか、考える手助けが欲しかったというか……いや、自分でも何を望んでいるのかもう分からないッスよ」
はぁ、とアルロア隊員の口から溜息が漏れる。欄干に肘をついて前屈みになる。海はどこまでも青く、広く、清らかに輝いている。その悠然とした感じが今はどうにも恨めしい。
「自分の頭の中でぐるぐるしているのが分かるッス。何のために巡航隊に志願したんだろうとか、このまま海賊に怯えて航海を続けるんだろうとか。オレは、何かを成し遂げられるはずだと思っていたはずなのに、今は自分が何をしたいのかも見失って、オレはもう迷子ッス」
「そうかぁ、迷子かぁ」
イーシュ隊員は間延びした声で相槌を打った。
「良いんじゃないのか、色々と考えを巡らせるには、時間は十分にあるだろう。それに巡航船には自分以外の人間が十七人も乗っているんだから、少なくとも十七通りの考えが返ってくるんだ。良いじゃないか、たくさん悩めば良いし、たくさん話せば良い」
「話して、それでどうなるッスか?」
「あんたの探している手掛かりや答えが見付かるかなんて約束は出来ないが、見えるようになる景色はあると思う」
「景色って、考え方のことッスか? 物事の捉え方とか」
「そのままの意味だよ。俺たちは今、こうして海を眺めているけれど、俺とアルロア隊員の見ているものが同じとは限らないだろう?」
「海は海ッスよ」
「いや、俺はこの海なんか見ていないよ。俺が見ているのは、かつて高原と呼ばれた大地に迫る海だ。草原が閉じ込められた緑の海だ。俺はこの海の中に、故郷の海を見ていたんだよ」
イーシュ隊員の言葉にアルロア隊員は海の中に生い茂る草を想像してみた。かつては広い土地で揺れていた草が、今は水に浸かっている。不思議な光景だ。だが、目の前にある海は、高原のある南東海域の海ではない。ここは南西の海だ。イーシュ隊員の目にはこの海が映っているはずだとアルロア隊員は思った。
「うーん、それ、ちょっと屁理屈ではないッスか?」
「そうは言ったって、俺の海を想像しただろう?」
「まぁ、そうッスね」
「想像の中であんたは俺の海という新しい景色を手に入れた。俺と話さなければ知らなかった景色だ、想像することも無かったかもしれない」
「それは、確かに……海の中に草原があるなんて聞いたこと無かったッスから」
「でも、今は知っている。だから今、あんたは考えることが出来る。想像を巡らせることが出来る。それは探している答えじゃないかもしれないが、少なくとも、長い航海の暇潰しにはなるだろう」
「たったそれだけッスか?」
「それだけさ、十分だろう」
イーシュ隊員は目を伏せて笑った。
あ。
その横顔を見て、アルロア隊員は、あっと思った。それは過去に心惹かれている横顔だった。
「……懐かしんでいるッスか」
「俺が? そうだなぁ、今は遠き故郷の高原を懐かしく思っているよ」
「懐かしむ……」
アルロア隊員が口の中で何度か小さく繰り返す。懐かしむという実感がアルロア隊員にはまだ無かった。故郷の円環には永遠があって、大きく形を変えることも、消えて無くなることも、辿り着けない土地になることもない。永遠が約束された場所に抱くべき懐かしさをアルロア隊員は知らなかった。
過去の、今は失われたものや、もう手の届かないものに対する、離れがたいほどの胸を締め付ける想いなんて、アルロア隊員には知り得ない幻想なのだ。
「イーシュさんのこと、懐かしく思う時が来るッスかね」
「はは、そうだと良いな。いつかは巡航隊の配置も換わって別の船に乗るだろう。どこかの海で俺のことを懐かしんでくれるか?」
「きっと憶えていると思うッス。たぶん、今日のこととか、忘れないッス。いつもじゃないけど、時々、思い出すと思うッス。たとえば星見番の夜とか、ふっと思い出す気がするッス」
「そうか、それは良いな。それなら俺もアルロア隊員のことを時折思い出すようにするよ。道が分かれる頃にはきっと、アルロア隊員も随分と頼もしくなっているだろうから、どんな姿のアルロア隊員を思い返すのか、今のうちから楽しみだな」
イーシュ隊員はアルロア隊員と顔を見合わせて少し驚いた顔をした。
「あんたの瞳は、空の青なんだな。知らなかったよ」
「オレの自慢なんスよ。グヴェイン隊長ほどじゃないッスけど、これはこれで綺麗でしょう? イーシュさんは明るい茶色、ウィルゼスカの胸の羽根と同じ色ッスね」
「高原の民はだいたいこんな感じだったよ。橙色を含んだ茶色の髪と、明るい茶色の瞳、少し濃い肌の色。それが高原出身の特徴だ」
「そういえば、イーシュさんみたいな外見の人は、円環ではあんまり見掛けないッスね。というかイーシュさんしか知らないかも」
「そりゃそうさ」
イーシュ隊員はまた少し目を伏せて笑った。
「ほとんどが島に残ったからな。俺のように円環へ渡ったのは、ほんの一握りだ。だが、一緒に島を出た連中のその後の消息は知らないんだ。彼らも今はどこで何をしているやら。海の上の生活も、食べ物に困らない生活も、馬で駆け回っていた人間にはどちらも合わないらしい」
「それじゃどうしてイーシュさんは円環へ?」
「もう七十年近く前の話だぜ、そう鮮明に憶えているわけがない。だが、そうだな」
イーシュ隊員は言葉を探すように空を仰ぎ、それから答えた。
「懐かしく感じたかったから、かな」
「故郷の高原を懐かしみたかった……? だから永遠が欲しかったんスか?」
「永遠なんて必要無かった、ああ、永遠が欲しかったわけじゃない。円環に行きたかったわけでも、永遠の命が欲しかったわけでもない。俺はただ、自分の世界を手放したかった」
「……すみません、いまひとつ分からないッス」
「高原の暮らしは俺の理想だった。今でもあの日々を忘れられない。だが、離れがたかったからこそ、離れなければならないと思った。俺は、そうだな、俺は傷付きたかったんだと思う」
「わざわざ苦しい思いをしたかったんスか?」
理解出来ない様子でアルロア隊員は首を捻った。
「円環の外には永遠が無い。狩猟生活なんて、いつ死ぬか分からない危険な暮らしだ。だから、ペイサー副隊長と同じように、生きている実感というのは高原で暮らしていた時代の俺にもあったんだと思う。だが、それが当然のことになれば、やはり感覚が麻痺してしまう。確かに今日も生きているのに、何の不足も無いのに、それでも満たされなくなる。あの日、島に巡航船がやって来た時、新しい世界に踏み出したいと強く思った。その願望は、確かに鮮やかだったんだ」
イーシュ隊員の答えに、アルロア隊員は首を傾げながら頷いた。
「なんとなく、なんとなぁく、分かった気がするッス」
「俺だってまだ言葉に出来ないんだから、そんなものだろう」
「イーシュさんは島を出て円環者になったこと、その……後悔、していないッスか? 家族や友達と離れ離れになったんスよね」
アルロア隊員は少し聞きづらそうに尋ねたが、イーシュ隊員はあっさりと答えた。
「あるさ、後悔なんて幾らでもある。だが、だからこそ、これ以上新しい後悔が増えないように生きたいと思っている。もう仲間を喪いたくないからどれほど怖くても戦うし、円環への希望を失ってほしくないから巡航する。自分も他人も、後悔してほしくない」
「後悔しないために戦うってことッスか」
「ああ、そうだな。今のこの自分はかつての自分が本当に願ったことだと、あの日の選択を後悔しないために、あの日の自分を救うために、俺はこれからも巡航する」
魚の群れが巡航船の近くを通過した。水面に近付くと鱗がキラキラと光った。
「そうだ、アルロア隊員。弓矢の練習をしてみるか?」
イーシュ隊員はアルロア隊員を誘った。
「え、良いんスか」
「どうせまだ出港しないんだから」
そう言ってイーシュ隊員は釣り具を片付けて、弓矢の準備をした。ウィルゼスカは船に残していく。甲板の反対側で隊員たちと談笑していたゼーラ隊長に声を掛けた。
「ゼーラ隊長。アルロア隊員を少し借りますね」
「ええ、構いませんけれど、何をするのですか?」
「弓矢の練習をしてみようかと思って」
「えっ!」
イーシュ隊員の答えに声を上げたのはペイサー副隊長だった。
「海賊が襲ってきたわけでもないのにイーシュ隊員の弓が間近で見られるね。羨ましいね。あたしも行きたいね」
「え、ペイサー副隊長に見られるのは、ちょっと……」
アルロア隊員が首を振る。ペイサー副隊長は肩を竦めた。
「それなら仕方が無いね、今回は我慢するね。上達したら見せてほしいね」
「頑張るッス」
期待の眼差しを向けるペイサー副隊長から目を逸らしつつアルロア隊員は小さな声で返事をした。ゼーラ隊長が笑う。
「アルロア隊員、高原の民ほど弓矢を自在に操る者たちは他には居ないよ。高原の民の瞳にただひたすら感服してくると良い」
ゼーラ隊長とペイサー副隊長に見送られて、イーシュ隊員とアルロア隊員は下船した。
港を抜けると砂浜があった。砂浜の波打ち際と反対側には枯れ草の草むらが広がっていた。他には誰も居ない砂浜は弓矢の練習には丁度良い場所だった。イーシュ隊員は予備の弓をアルロア隊員に渡した。
「矢を番えて、弓を引いて、矢を放つ。これが流れだな。利き手は右か? それなら基本の構えは、こう」
イーシュ隊員は右利きのアルロア隊員と鏡合わせになるように構えて手本を見せる。アルロア隊員はイーシュ隊員の手元をよく見ながら構えた。
「狙いはいつ定めるんスか」
「え? あぁ、そうだな……。弓を引いた後に狙いを定めると良いよ」
「どうして今、考えたんスか」
「矢を番える時には狙いが定まっているから、あまり気にしたことが無かった。だが、初心者はそういうわけにいかないだろう、弓を引いて、しっかりと狙いを定めてから放つのが良いよ」
イーシュ隊員は矢を放った。空気を引き裂いて飛んだ矢は岩の上で休んでいた海鳥に突き刺さった。驚いた群れが飛び立つ。
「ちなみに、イーシュ隊員の利き腕はどっちなんスか?」
「昔は右だったが、今は両利きだな」
さらりとイーシュ隊員が答えたので、アルロア隊員は引き攣った笑いを浮かべた。
「何か失礼なことを考えただろう?」
「えっと、気持ち悪いとか思っていないッス」
「こっちは生まれて立ち上がるより先に弓に触れているんだぜ、どれだけ練習してきたと思っているんだ」
心外だな、とイーシュ隊員は言ったが、口の端が笑っていた。
「笑うとこッスか」
「いや、グヴェイン隊長にも同じことを言われたよ」
「グヴェイン隊長もイーシュさんに弓矢を教わったんスか」
「ああ、そうだよ。もう随分と昔の話だな、懐かしい」
そう言ったイーシュ隊員の表情を見てアルロア隊員は首を傾げた。
「懐かしいって言いながら、懐かしい顔じゃないんスね」
「懐かしい顔?」
イーシュ隊員も首を傾げた。
「高原の話をする時のイーシュさんは、懐かしんでいる顔をしていたッス。すごく綺麗な顔だったッス、良い表情だなぁって思ったんスよ。」
「待ってくれ、急に褒めるな、反応に困る」
動揺した様子のイーシュ隊員は片手で顔を覆った。アルロア隊員は早口で続ける。
「オレには懐かしいって感覚が分からなくて、でも、そういうのは別に要らないかなって思っていたんス。だって、永遠は無くならないから。けど、イーシュさんの横顔を見ていたら、イーシュさんの感じる懐かしさってものをオレも分かりたいなぁって思うようになったんスよ」
「……若さって怖い」
「口では懐かしいって言っても、それはたぶん、もう届かないものに対する懐かしさと、まだここにあるけど変わったものに対する懐かしさの少なくとも二種類があると思うんスよね。で、イーシュさんが懐かしい顔をするのは、故郷の話。もう手放してしまったものに対する愛しさなんスよね」
「アルロア隊員」
「イーシュさんが島を出た理由、その感覚がオレも今は端っこだけでも触れられそうな気がするッス。あー、なんか嬉しいッス。ワクワクするッスね。オレはまだこれから先、もっとたくさんの知らないことを知るようになるんスよね。それが、景色が見えるってことッスよね」
「蛇」
そう言うやいなやイーシュ隊員はアルロア隊員の背後から腕を回して抱え込むように、そのままアルロア隊員が番えていた矢を放った。矢は枯れ草の草むらの中で今にもアルロア隊員に飛び掛かろうとしていた蛇の眉間に命中した。
「ふはぁ……」
解放されたアルロア隊員が言葉にならない声を出した。力の抜けたアルロア隊員が落とした弓をイーシュ隊員が拾い上げる。
「怪我は?」
「無いッス、でも腕が痛いッス。弓矢ってこんなに強い力を使うものなんスね」
「あ、すまない」
「これくらい平気ッスよ。オレたちは頑丈なんスから。ていうか、イーシュさん、他人の腕を借りても当てられるんスね。怖……」
「この距離だったからな。何より、アルロア隊員が日頃から真面目に鍛錬していたおかげだ。矢を引くにも筋力が必要だ」
イーシュ隊員はアルロア隊員の背を叩いた。
「迷っているうちは、色々なことに挑戦してみると良い。弓でも大砲でも槍でも剣でも、興味が湧いたらすぐに試してみて、合わないと思ったら別のものを試せば良いだけなんだから」
「何かひとつをずっとやり続けなくても構わないんスか?」
「その道を究めるのは、これだと感じることに出会えてからでも良いんだよ。手応えがあったとか、憧れが出来たとか、面白い理由が無いと続かないだろ。選択肢があるうちは、目移りするのが当然だぜ」
「イーシュさんは?」
アルロア隊員が尋ねる。
「イーシュさんは、どんな選択肢があったんスか?」
その問いにイーシュ隊員は少しだけ驚いた顔をした。それから困ったように笑った。
「俺に選択肢は無かったよ。高原では誰もが弓矢を使う。馬を駆り、鳥を連れ、弓を引く。それが高原の民だ」
「馬はどうしたんスか?」
「どれほど可愛がっていたとしても、馬を連れてくるわけにはいかないだろ。海は狭すぎる」
「悲しくなかったんスか?」
「泣いたよ、当然。巡航船の中で、大人の男があまりにボロボロ泣くものだから、巡航隊もどうしたものか困り果てていたらしい。今でこそ笑い話に出来るが、その時はどんな慰めも届かないくらいに悲しかったし寂しかった」
「でも、船を下りて高原に戻ろうとは思わなかったんスよね」
「だって、戻ってもみろよ。あの別離は一体何だったんだって話だろ。覚悟を決めて別れたんだ、俺も、ゼルアティスも。臆病者だと俺が笑いものにされるのは別に構わなかった。だが、ゼルアティスの決心まで無意味にしたくはなかった」
「ゼルアティスっていうんスね、馬の名前」
「ああ、ゼルアティスは良い馬だったよ。いつだって静かに寄り添ってくれた。高原を駆ける時には白い鬣がキラキラと綺麗に靡いていた。今でもまだ夢に見る。夢から醒めて、ああ全部夢だったんだと、悲しみで始まる日もある。もう七十年近く前に別れて以来なのにな」
イーシュ隊員は俯いた。翳った横顔も、確かに懐かしむ表情をしていたが、高原の話をする時とは異なる表情だった。こういう懐かしさもあるのだとアルロア隊員は好奇心が満たされる感覚を得たが、同時に、どうしようもなく胸の奥が苦しくなった。
海は狭すぎるとイーシュ隊員は言った。どこまでも果てなく広がるこの大海が狭すぎると、イーシュ隊員はそう言ったのだ。見ている景色が違う。
「イーシュ」
背後から名前を呼ばれてイーシュ隊員は振り返った。アルロア隊員も一緒に振り返る。港の方から砂浜に降りる岩場の途中にグヴェイン隊長が立っていた。
「グヴェイン隊長、集合時間ですか」
「いいや。この砂浜には蛇が出るから気を付けるようにと地元の自警団からの伝言を持ってきただけだ。噛まれて死ぬことは無いが、かなり腫れるそうだから。円環者でも痒みは三日続くらしい」
「あぁ、だから誰も居ないんですね、ここ」
そう言いながらイーシュ隊員は蛇の死骸を拾い上げた。ひぃっとアルロア隊員が小さな悲鳴を上げた。
「相変わらずの腕前だな」
「アルロア隊員の腕を借りたんですよ」
「びっくりしたッスからね! 聞いてくださいッス、グヴェイン隊長!」
アルロア隊員がグヴェイン隊長に向かって駆け出したので、イーシュ隊員は先ほど射抜いた海鳥を回収することにした。
「海鳥を狩ったので、食べられそうならガルムガッドに調理してもらいましょう」
「イーシュさんってば後ろからオレの腕を掴んで、こう、グッと引いたと思ったらパッと離して」
蛇を仕留めた経緯をアルロア隊員が大袈裟な身振り手振りでグヴェイン隊長に伝える。
「イーシュの眼が変わるのを見たか?」
グヴェイン隊長はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべてアルロア隊員に尋ねた。アルロア隊員は首を振った。
「矢を放つ時、あの茶色の瞳は僅か一瞬、緑色に光る。少し青がかった明るい緑だ。円環の出現後に高原の民の間で確認されるようになった特徴らしいから、白極と同じように円環の出現によって生まれた特徴というのは、まだ他にもあるのかもしれない。あの緑はイーシュの故郷の海の色だというから、機会があれば一度、見せてもらうと良い。ほんの一瞬だから、見逃さないように、よく見てごらん」
アルロア隊員は振り返ってイーシュ隊員を見た。イーシュ隊員は海鳥を片手に持って砂浜を歩いていた。ゼーラ隊長が言っていた高原の民の瞳というのは、獲物を狙い定めるという意味だけではなかったらしい。
「イーシュさんは、高原の話をする時に懐かしい顔をするんスよ。その海の色を閉じ込めているって知ったら、イーシュさん、喜ぶだろうなぁ……」
「きっと泣いてしまうんじゃないだろうか」
「どうしてッスか?」
「四百十四番島はかつての呼称だ。今は九百二十一番島、茫漠の荒野と呼ばれている」
「……え?」
予想していなかった答えにアルロア隊員はグヴェイン隊長を見た。南東海域に九百二十一番島があるということはアルロア隊員も学んでいた。だが、それが四百十四番島だったとは習っていなかった。戸惑いを隠せないアルロア隊員とは対照的に、グヴェイン隊長の顔には何の感情も表れていなかった。
「当時の巡航船は一度の出港で複数の島々を巡っていたんだ。今よりも円環の外で暮らす人口がずっと多かった時代だから、一度の巡航で出来るだけ多くの希望者を連れ帰る必要があった。そうして、島々を巡った巡航船が四百十四番島に疫病をもたらした。人間も、動物も、植物も、巡航船が持ち込んだ複数の疫病によって、瞬く間に全滅した。二年後、次の巡航船が四百十四番島を訪れた時、そこには埋葬もされていない亡骸ばかりが枯れ果てた草原に眠っていたと聞く」
アルロア隊員は言葉を失った。ようやく絞り出した声は震えていた。
「それ……イーシュさんも知っているんスか……?」
「当然、巡航隊からの報告は真っ先にイーシュや他の高原の民に伝えられ、多くの高原の民は円環を去ったのだと聞いている。おそらくは故郷に向かったのだろう。四百十四番島はすぐに番号が改められて巡航の航路から外された。周辺の島々から船に乗れば渡れるかもしれないが、疫病で滅んだ島なんて誰も船を出したがらないだろう。彼らが故郷に辿り着けたかどうか、結末は聞いていない。以降、巡航船は円環から一定以上離れた海域における一度の巡航先を厳密に調整している」
草の香り、吹き抜ける風、青い空。馬を駆り、鳥を連れ、弓を引く高原の暮らし。思いを馳せては翳る懐かしさ。遙か遠くに過ぎた愛おしき故郷。そのすべてが夢だったのだと思い知らされる。
もしかすると、イーシュ隊員は高原から連れ出されたのかもしれない。あるいは、生き延びろと託されたのかもしれない。何も知らずに故郷を発つことと、知った上で去ることのどちらのほうが苦しかっただろうか。どちらだって苦しいに決まっている。
アルロア隊員は鼻の奥がツンと痛むのを感じた。視界が滲む。
「そんなの、あんまりッスよぉ……」
鼻を啜りながらアルロア隊員が呟く。当然、忘れられるはずもないだろう。今でもまだ夢に見るだろう。絶望しながら目覚める朝もあるだろう。そして幾つもの後悔が背を押す時もあるだろう。
「もし、イーシュの緑の瞳を見る機会に恵まれたら、どうかその色をずっと憶えていてやってくれないか」
「……この目で見られたら、オレ、絶対に忘れないッス。イーシュさんの分まで憶えておくッス」
アルロア隊員は袖で目元を拭った。砂浜を戻ってくるイーシュ隊員に大きく手を振る。グヴェイン隊長も真似をする。
「イーシュさぁん! 今日はオレの分の肉も食べて良いッスからねー!」
イーシュ隊員は一瞬キョトンとしたが、すぐに笑った。
鯨の亡霊 七町藍路 @nanamachi
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