第3話 荒波の守護者たち ―南西第二航路―
円環との交易が盛んな西方海域は様々な船が行き交っている。その中には勿論、交易船を狙う海賊船の姿もあり、隣接する南西海域も西方海域に近付くにつれて、海賊船が増える。
「アルロア隊員、二時の方角をご覧。あれが海賊船だ」
ゼーラ隊長がティーカップを片手にそう言った。
「げっ、海賊船」
甲板に寝転がっていたアルロア隊員は慌てて起き上がると望遠鏡で二時の方角を見た。武装した船がこちらに向かっている。アルロア隊員の隣でリッサ隊員も双眼鏡を覗いている。
「狙いは物資でしょうか、それとも移住者でしょうか」
「巡航船を狙ってくるということは、狙いは移住者だろう」
「でも移住者は第二中継港で移住船に引き継いだばかりッスよ」
「見た目では分からないからな」
ゼーラ隊長はそう言って笑うと、操舵室に顔を出した。
「バルツィ隊長、海賊ですよ」
「ああ、こちらも捕捉しているよ。人狩りかねぇ。海賊たちも懲りないなぁ」
バルツィ隊長がカラカラと笑うと、伝声管に向かった。
「メルケ、メルケ、海賊だ」
伝声管の向こうは何やら騒がしかった。
「こちらもペイサー副隊長を出しましょうか?」
「まずはうちの副隊長が相手をするよ。ペイサー副隊長は星見番だろう、乗り込まれた時の切り札に取っておきな」
「若手隊員に砲撃を見学させても良いですか」
「勿論構わないが、巻き込まれないようにな」
ゼーラ隊長は甲板に戻るとアルロア隊員とリッサ隊員を呼んだ。
「操舵部隊のメルケ副隊長は砲撃の名手だ。学ぶことも多いだろう。傍でよく見せてもらいなさい」
メルケ副隊長は船内からすぐに出てきた。二十代前半の溌剌とした女性隊員だ。
「メルケ、ただいま馳せ参じました! 海賊はどちらに!」
よく通る声でメルケ副隊長は敬礼した。三つ編みにした黒くて長い後ろ髪の先までがきっちりと整えられている。
「二時の方角だ、メルケ副隊長。私たちも手伝おう。リッサ隊員、アルロア隊員。砲弾の準備を」
ゼーラ隊長はメルケ副隊長と一緒に大砲の準備に取りかかった。甲板の砲台は普段は床下に収納している。ハンドルを回して砲台を上げる。グヴェイン隊のユーユ隊員とエリシェ隊員も加わって、戦闘準備を整える。
「良いお天気、穏やかな波、風も緩やか! 絶好の戦闘日和です!」
メルケ副隊長は生き生きとして望遠鏡を覗き、砲撃の目標を定める。
「あ、撃ってきました!」
海賊船からの砲弾は巡航隊まで届かなかった。
「迎撃します!」
心臓まで響く轟音と共に、砲弾は撃ち出された。メルケ副隊長の撃った砲弾は海賊船の側面に命中した。海賊船から煙が上がる。
「もう一発……!」
追撃しようとするメルケ副隊長の手をゼーラ隊長が止めた。
「赤旗だ」
ゼーラ隊長の言うとおり、海賊船は赤旗を掲げ、徐々に遠ざかっていく。赤旗は降伏を意味する。たとえ相手が海賊船であっても、赤旗を掲げた船にそれ以上の攻撃を加えることは推奨されない。
「うわぁ、一発で撃退ッスか」
アルロア隊員が拍子抜けしたように望遠鏡を覗いて呟く。
「メルケ副隊長の腕は砲弾の無駄が無くて良い」
ゼーラ隊長は使わなかった砲弾を元の場所に戻すよう指示を出した。砲台は少し冷ましてから格納した。その頃には海賊船の姿も小さな粒になっていた。メルケ副隊長は大きく頷くと操舵室に駆け込んだ。
「ご覧いただけましたか! バルツィ隊長!」
黒い三つ編みが犬の尻尾のように揺れ動く。
「おー、ちゃんと見ていたよ」
「メルケは一発で海賊船を退散させました!」
「うんうん、よくやった、ご苦労。メルケなら必ず成し遂げてくれるとアタシは信じていたよ」
バルツィ隊長がメルケ副隊長を労うと、メルケ副隊長は飛び跳ねた。喜びの余り操舵室で側転をする。そして甲板へと駆け出していった。
「メルケ副隊長は相変わらずですね」
ゼーラ隊長がバルツィ隊長の分もティーカップを持って操舵室に入ってきた。
「ゼーラ隊にはああいった隊員が居ないからな。グヴェイン隊は全員が隊長を可愛がりたいみたいだし」
「む、私の隊だって、ちゃんと私のことを慕ってくれていますよ。バルツィ隊長だって、勿論、メルケ副隊長以外の皆さんから慕われています」
「円環の外まで一緒に来るくらいだから、少しくらいは人望があると思いたいよ」
ところで、とティーカップを受け取ったバルツィ隊長が海賊船の逃げた方を見遣る。
「さっきの海賊船、仲間を連れて報復に来るだろう」
「おや、何故です?」
「第二中継港で聞いたんだ。近頃は西方海域から南西海域へ海賊の行動範囲が広がっているらしい。あの海賊船は外装からして西方海域で造船されたものだろう」
「そうでしたか」
「西方海域の海賊は五隻ほどで編成するのが一般的だ。この船の装備じゃメルケでも全部を沈めることは無理だろう」
「ではこちらに乗り込ませて白兵戦に持ち込みますか」
「ああ、そうなるだろうな。早ければ明日の朝にでも現れるだろう」
バルツィ隊長の予想は当たった。翌朝、水平線に昇る太陽と共に海賊船団が姿を見せた。
「総員、配置に付け!」
ゼーラ隊長の声が甲板に響く。バルツィ隊、ゼーラ隊、グヴェイン隊、三部隊全員が戦闘態勢に入っている。ゼーラ隊長はアルロア隊員に声を掛けた。サーベルを握るアルロア隊員の手に力が込められている。
「アルロア隊員、深呼吸を。戦闘訓練を思い出せ。訓練通りに動き、戦闘員が自由に動ける舞台を用意しよう」
「でも、隊長……怖いッスよ」
アルロア隊員は弱音を吐いた。無理も無い。若手のアルロア隊員にとってはこれが初めての実戦だ。訓練を重ねてきたとはいっても、ここは円環の外。航海が続いている巡航隊に宿る恩恵は薄まっている。
「うん、うん。分かるねぇ、怖いねぇ」
そう言ってアルロア隊員の肩を叩いたのはペイサー副隊長だった。ペイサー副隊長は髪をひとつに束ねていた。濃茶色の髪の耳の後ろだけを青く染めているのがよく分かる。
「怖くてもうダメだと思ったら、あたしを呼ぶと良いね。水平線の向こうからでも駆け付けるね」
ペイサー副隊長は笑った。捲り上げた袖の下からすらりと伸びる腕は褐色で、その手には槍が握られている。穂先が大きな刃になっている槍は西方海域ではよく使われている武器だ。
「それがあたしの仕事ね」
「頼りにしているよ、ペイサー副隊長」
ゼーラ隊長の言葉にペイサー副隊長は槍をクルクルと器用に回した。そこへグヴェイン隊長が声を掛けた。
「ゼーラ隊長、ちょっと良いかな」
ゼーラ隊長はグヴェイン隊長に連れられて操舵室に入った。バルツィ隊長と航海士のオリガン隊員が海図を広げて唸っている。
「アタシたちの現在位置は、ここ」
バルツィ隊長は海図の一点を指差した。巡航船は普段と同じ航路を辿っている。周囲にはあまり島が無い海域だ。オリガン隊員が航路の少し先を指でなぞる。
「この一帯で嵐が発生しそうなの。嵐を避けるには引き返すしかないけれど、それだと海賊に真正面からぶつかることになるわ」
「だが海賊船団が想定よりも多い。応援要請は出したが、西方海域ほどの警備船には期待出来ない。嵐までには片付けられないだろう。だが嵐に突入すれば甲板での白兵戦は厳しい」
「進路の変更は? こちらの進路であれば、島々が点在しています」
ゼーラ隊長が北東方向を指で叩いたが、その案を却下したのはグヴェイン隊長だった。
「駄目だ。九百七番島がある、猛獣の島だ。万が一にも漂着したら命は無い」
九百七番島は肉食の猛獣が多く生息する島だ。かつて上陸した調査隊員たちはひとり残らず食い尽くされたために、居住不可能として九百番台が振られた島だ。円環の残滓を得て凶暴化した猛獣たちは巡航隊の戦闘能力では到底敵わない。
「嵐さえ抜ければ六百十八番島だ。あの島なら寄港可能だ」
「ああ、嵐さえ抜ければ、ね。ゼーラ隊長の意見は?」
「私は……」
ゼーラ隊長は窓際に立って甲板を見下ろした。
「私の隊のリッサ隊員とアルロア隊員は戦闘に不慣れです。嵐の中での交戦では役に立たないでしょう。かといって嵐を迂回する航路を辿った場合の船の消耗を考えると、迂回は非常に非効率的です。バルツィ隊長、嵐を利用しましょう」
ゼーラ隊長は長い金髪をひとつに束ね、器用に丸くまとめた。腰から下げた二本のナイフがゼーラ隊長の武器だ。
「決まりだな、船から振り落とされるんじゃないよ」
バルツィ隊長はニヤリと口角を上げた。
「よし、始めようか。オリガン隊員は風を読んで。グヴェイン隊長、行こう。君が甲板に出ると君の隊の士気が上がる」
「ぼくのところの隊員たちはみんな、ぼくに対して過保護だからな」
グヴェイン隊長は台に置いてあった矢立てを背負って甲板に出た。
「ユーユ! ゼーラ隊長を援護しろ! ティゼル、エリシェ! メルケ副隊長の援護だ!」
朝焼けの空の下にグヴェイン隊長の声が響き渡る。グヴェイン隊の戦闘員であるユーユ隊員がゼーラ隊長に付く。ティゼル副隊長とエリシェ隊員はメルケ副隊長の砲撃を支援する。
「イーシュ! 嵐が来る、ウィルゼスカを戻せ!」
グヴェイン隊長の指示にイーシュ隊員は空を仰いで鷹笛を吹いた。高原出身のイーシュ隊員は大鷲を連れている。大鷲のウィルゼスカは大空を悠々と飛んで巡航船に付いてくる。すぐに大きな翼で舞い戻るだろう。グヴェイン隊が配置を換える。
「ペイサー副隊長、ぼくの隊員たちをうまく使ってくれ」
動植物の調査に当たるグヴェイン隊には対人専門の戦闘員が配属されていない。ペイサー副隊長はグヴェイン隊長の額に交差させた指を当てた。それはペイサー副隊長の故郷に伝わる帰還のまじないだった。
「誰も海に還したりしないね」
海賊船団が近付いている。海賊たちの慌ただしい様子が肉眼でも確認出来る。砲台が頭を上げる。
「間もなく射程距離です!」
隊員たちに緊張が走る。こちらの砲撃が届くということは、海賊の砲撃もまたこちらに届くということだ。
「第二砲台、射撃用意!」
メルケ副隊長が第二砲台のティゼル副隊長とエリシェ隊員に指示を出す。第二砲台の砲撃より先に海賊船団が砲弾を発射した。
「冷静に! あの仰角では被弾しません! 第二砲台、先頭の船より後方を狙いますよ!」
海賊の砲撃に臆すること無くメルケ副隊長は砲台の指揮を執る。メルケ副隊長の読み通り、砲弾は巡航船に届かず海に落ちた。
「行きます、撃て!」
メルケ副隊長の合図で第二砲台が火を噴いた。砲弾は空中に弧を描いて海賊船団を目掛けて飛んだ。しかし、船には着弾せず、船団の中程の海に落ちて水柱が立つ。
「は、外しました!」
「構いません、こちらの射程を見せ付けるための一弾です! 第一砲台、続きますよ!」
第一砲台も砲撃を開始する。砲撃は幾つか命中したが、海賊船団は止まらない。
「射撃手、火矢を用意!」
その声にグヴェイン隊長とイーシュ隊員が火矢を番える。発射の号令に合わせて二本の火矢が虚空を引き裂いて飛んだ。海賊船から火が上がる。
「流石、イーシュ隊員は目が違うね」
ペイサー副隊長がイーシュ隊員の横で感嘆の声を漏らした。
しかし、海賊船の数が多く、砲撃部隊だけでは対処しきれない。巡航船の攻撃を突破した数隻の海賊船が接近してくる。
「ここからはあたしたちの出番ね」
船を寄せて海賊たちが巡航船に乗り込んできた。
「ようこそね!」
先陣を切った海賊の首が宙を舞った。ペイサー副隊長が振るう槍の切っ先は、僅かな躊躇も無く海賊の首を刎ね落とした。休む暇も無く、次の海賊に斬りかかる。腕、胴、脚。鮮やかな血を撒き散らしながら、ペイサー副隊長は海賊たちを次々と海へ葬っていく。
「隊長、残りの矢は」
物陰で息を潜めているグヴェイン隊長の足下にイーシュ隊員が転がり込んできた。
「心許ない」
「俺も、同じく。第二中継港で補充出来なかったのが痛いですね」
「そろそろ砲撃も終わりだ。接近戦になる」
グヴェイン隊長は矢を番えた。放たれた矢は海賊の瞳に突き刺さった。
「ペイサー副隊長は相変わらずだな」
「味方で良かったと心底感謝しますよ」
ペイサー副隊長が笑いながら槍を振り回している。あの大立ち回りに付いていける者は誰もいない。
「何がペイサー副隊長をああいうふうにしまったのだろうね」
「それは円環でしょう」
イーシュ隊員が矢を放った。その矢は今にもリッサ隊員に剣を振り下ろそうとしていた海賊の腕を貫いた。すかさずゼーラ隊長が追撃する。
「約された永遠が生を渇望させる。命が最も輝く瞬間は死の間際ね、ペイサー副隊長がそう言っていましたよ」
「死と隣り合わせの日々が幸福に感じるのか。なるほど、生きている実感が欲しいのだろう」
海賊を薙ぎ倒していくペイサー副隊長は、心の底から喜びを感じているように見える。血の海に立ってなお、満面の笑みを浮かべている。狂ったような、それでいて、救われたような、不思議な笑みだった。
「天職ですかね」
イーシュ隊員の言葉に、これほど不幸な天職があるものか、とグヴェイン隊長は肩を竦めた。
ゼーラ隊長のナイフが弾き飛ばされて床に突き刺さった。体勢を崩したゼーラ隊長だったが、間髪入れずにユーユ隊員がゼーラ隊長を援護する。
「向こうにも射撃手がいるようだ」
「珍しいですね」
西方海域は白兵戦が主流だ。西方海域に近い南西海域も同じく白兵戦が基本となる。この辺りに出没する海賊であれば射撃手は居ないことのほうが多い。
「ああ、見付けました」
交戦中の無秩序からイーシュ隊員は双眼鏡も使わずに肉眼で海賊の射撃手を見付け出した。イーシュ隊員の矢は射撃手の心臓を貫いた。
「射撃手だ、射撃手が居るぞ!」
海賊の怒声がグヴェイン隊長たちのところにも届いた。ふたりは咄嗟に身を隠す。
「隊長、火矢は残っていますか」
「一本だけ」
グヴェイン隊長はイーシュ隊員に火矢を渡した。手際よく着火し、イーシュ隊員は火矢を番えた。
「狙えるか?」
その問い掛けに答えるよりも先にイーシュ隊員は物陰から飛び出し、すぐさま火矢を放った。狙いを定める時間さえもが惜しいわけではない。すでに狙いは定められているのだ。火矢は一直線に飛んだ。誰にもその軌道を妨げることなど出来なかった。
大きな爆発音が轟いた。衝撃に波が立ち、船が揺れる。イーシュ隊員は海賊船の火薬庫を射抜いたらしい。空を焦がすような炎が上がる。
「おっと、流石に見付かった」
飛び出したイーシュ隊員に向かって海賊たちが剣を振り上げて襲い掛かる。イーシュ隊員の応戦の隙間を縫うようにグヴェイン隊長の矢が海賊の身体に刺さる。
「ガキだ! 子供が居るぞ!」
しまった、とイーシュ隊員は咄嗟に海賊の胸から矢を引き抜いて番えた。しかし、矢は放たれない。鏃の先で、グヴェイン隊長が海賊に拘束されていた。細い首に鋭い刃が突き付けられる。
人狩りは子供から狙う。円環者の特徴である二十代前後の容姿を避けるためだ。闇市では子供が高値で取引される。暇を持て余した富裕層は、攫われた子供を自分好みに育て上げることを娯楽のひとつとしていた。円環者でありながら十代半ばという幼さを残した外見のグヴェイン隊長が、人狩りから真っ先に狙われる。
だが、そんなことくらい、分かりきっているのだ。
「武器を床に置け。逆らえばこのガキがどうなるか分かっているよな」
海賊が下卑た笑みでイーシュ隊員に言う。イーシュ隊員は海賊の指示に従って弓を床に置いた。
「……お前たちこそ」
ゆっくりと顔を上げたイーシュ隊員は、不敵に笑っていた。
「そのひとを人質に取るとどうなるか、分かっているよなぁ」
突如として黒い影が海賊に襲い掛かった。それは空から舞い降りた一羽の大鷲だった。ウィルゼスカの鋭い爪が海賊の顔に食い込む。思いも寄らない襲撃に、海賊はグヴェイン隊長を捕らえていた手を離した。グヴェイン隊長は甲板を転がったが、すぐに体勢を立て直した。海賊が暴れるほどウィルゼスカの爪が皮膚に深く食い込む。
「良い子だ、ウィルゼスカ!」
ウィルゼスカは誇らしげに甲高く鳴いた。隙を突いたイーシュ隊員はウィルゼスカと共に海賊たちを片付ける。
その頃、ゼーラ隊長は苦戦を強いられていた。
「キリが無い」
ゼーラ隊長の息が上がる。ユーユ隊員は不機嫌そうに海賊の腹を蹴った。
「乗り込まれているのを食い止めなければ」
ユーユ隊員はペイサー副隊長が居る方向を見た。体力の限界というものが無いのか。ペイサー副隊長は変わらない調子で海賊たちを切り刻んでいく。向こうはペイサー副隊長に任せておけば乗り込まれることは無いだろうし、他の隊員たちも無事だろう。問題は、やはり、こちら側だ。
海賊船から巡航船へと乗り移ってくる海賊たちを止められない。負けていないだけで優勢ではない。若手隊員たちの疲労が心配だ。そろそろ決定的な打撃を与えられなければ堪えきれない。
その時、船が大きく傾いた。甲板の全員が、巡航隊も海賊も皆、体勢を崩した。ゼーラ隊長は足を滑らせたアルロア隊員を捕まえ、海賊は蹴り飛ばした。船が速い。
嵐だ。嵐の領域に入ったのだ。
「しっかり掴まれ!」
ゼーラ隊長はアルロア隊員を掴んで離さなかった。隊員たちの無事を確認する。リッサ隊員たちはメルケ副隊長の元で無事だ。誰も海に落とされていないか。うねり上げる海に船が弾むように揺れる。ゼーラ隊長は甲板を見渡した。
「隊長!」
喧噪の中で、ゼーラ隊長はイーシュ隊員の声を聞いた。少年の華奢な身体が宙に浮いた。グヴェイン隊長が傾いた甲板を海へと滑る。掴まるものが無い。その細い腕を捕らえたのは、イーシュ隊員ではなく海賊だった。海賊は笑う。戦利品として申し分ない。左右で異なる瞳の色も、時が過ぎれば分かる髪色も、闇市に持ち込めば誰もが喉から手が出るほど欲しがるだろう。白極海域は今や伝説の海、そこで暮らす人々もまた幻だ。
だが、渡すわけにはいかない。
「ペイサー!」
ゼーラ隊長は叫んだ。その名を呼べば駆け付ける。それが水平線の向こうでも、嵐の只中であっても。
空から脳天を貫く一撃。まるで稲妻だとゼーラ隊長は息を呑んだ。一撃で絶命した海賊は血飛沫を上げながら力無く崩れ落ちた。ペイサー副隊長はグヴェイン隊長をしっかりと抱えていた。
「グヴェイン隊長、もう大丈夫ね」
ペイサー副隊長は高らかに笑った。
「本当に軽いね、あたしこのまま戦えるね」
そう言うとペイサー副隊長は片手でグヴェイン隊長を抱え、もう片方の手で槍を操った。傾く甲板を駆け上がり、海賊たちを一掃していく。船が飛ぶように揺れても、ペイサー副隊長にとっては好都合だった。勢いを付けて斬りかかる。荒波さえもペイサー副隊長にとってはただの跳躍と同じだった。
「楽しそうッスね、副隊長……」
げんなりとした様子のアルロア隊員の言葉にゼーラ隊長は目を細めた。
「戦うときが、彼女にとっては最も自分らしくいられる時間だということらしい」
「そういうもんスかね」
「そういう場所が、ペイサー副隊長の生きてきた世界だ」
ゼーラ隊長とアルロア隊員はペイサー副隊長を見詰めた。もう誰にも止められない。甲板はペイサー副隊長のための舞台だった。海賊たちはペイサー副隊長の暴力的なまでの強さに圧倒されて戦意を喪失していた。命乞いも聞き入れられない。無慈悲に平等な力だった。海賊たちは荒波に揺れる甲板を覚束ない足取りで海賊船へ逃げ帰っていく。海賊船もまた嵐に飲み込まれて混乱していた。
「メルケ! やっちまうね!」
ペイサー副隊長がメルケ副隊長の名前を呼んだ。メルケ副隊長は砲台に立っていた。
「ええ、お土産です!」
メルケ副隊長は砲弾を撃ち込んだ。まさかこの嵐の中でまだ砲撃され、さらには砲撃が当たるとは思いも寄らなかったのだろう。海賊たちはもはや対抗する術を持たなかった。荒波に揉まれながら遠ざかっていく。メルケ副隊長の追撃によって舵を失った船は渦潮に引き摺り込まれていく。
荒れ狂う海でペイサー副隊長は高らかな声で笑っていた。この混沌こそが生きる場所だとでも言うように、満ち足りた顔で笑っていた。
巡航船はやがて嵐を抜けた。
六百十八番島はこの辺りでは最も大きな島で、港には停泊する交易船の姿もある。
「新鮮な生肉!」
一目散に下船したイーシュ隊員が港に開かれた市場へ駆けていく。生肉は腕に止まるウィルゼスカの褒美だ。長い船上生活ではなかなか手に入らない食料だ。巡航隊の食事を預かるガルムガッド隊員がイーシュ隊員を追う。隊員たちも次々と後に続く。バルツィ隊長は停泊手続きに赴き、整備士のふたりは嵐の損傷を調べる。
グヴェイン隊長は甲板の手摺りの隙間から海へと脚を投げ出して座っていた。
「気落ちすることない」
ゼーラ隊長がグヴェイン隊長の隣に並んで手摺りに肘を突いた。
「君の外見は円環の定めだ。何度狙われようとも君には僅かな責任も無い」
「それは君が大人だから言えることだよ。それにぼくは落ち込んでいたわけじゃない。空想していただけだ」
ぼくは、とグヴェイン隊長は水面を眺めた。
「これより先の自分を知らない。若返っていたのなら、ぼくだって大人の自分を知ることが出来たけれど、残念ながら、ぼくにとって今のこの姿が、知り得る中で最も年を取った姿だ。だから、時々夢想するんだ。大人になれていたら、ぼくはどんな姿だっただろうか、と」
グヴェイン隊長の声は静かだったが、沈んではいなかった。どうにもならないことに思いを巡らせて、けれども絶望しているわけではない。ゼーラ隊長は広がる海を見遣った。
「ぼくはもう両親の顔も思い出せない。だから、ぼくが想像するときはいつも、この船のみんなのことだ。イーシュ隊員のように力強く弓を引けるだろうか、ティゼル副隊長のように速く走れるだろうか、ゼーラ隊長のように心強く振る舞えるだろうか」
そう言うとグヴェイン隊長はゼーラ隊長を見上げた。視線に気が付いたゼーラ隊長もグヴェイン隊長を見る。
「そのままで良いなどという言葉は君にとって何の意味も持たないのだろうけれど、言わせてほしい、グヴェイン隊長。君は今でも十分に魅力的だよ」
グヴェイン隊長は俯いた。ゼーラ隊長はグヴェイン隊長を見下ろした。頭から爪先まで、どこを取っても儚い幼さを残したままでいる。まるで呪いだ。変わるなと、運命を縛り付ける円環の呪いだ。
「ああ、まるでぼくだけ大きな鯨の群れに迷い込んだイルカみたいだ」
水面に反射した太陽の光にグヴェイン隊長は眩しげな顔で目を細めた。
「私は鯨もイルカも好きだよ、勿論、シャチも」
海は嵐が嘘のように穏やかさを取り戻していた。物資の補給と船の整備が済めばまたすぐに巡航へと向かえるだろう。心地の良い緩やかな風が港に吹いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます