第2話 極光の待ち人 ―九百九十九番島―
円環の外側で最も危険な海域とは、海賊がのさばる西方海域でも、嵐の絶えない南東海域でもない。北方海域のさらに奥、北方限界線とも呼ばれる観測所の向こう側に広がる氷海。天空の極光より虚光射す海、それが白極海域。巡航隊は口を揃える。白極は人間の住める土地ではない、と。
九百九十九番島はその海域を覆う氷原のことを指す。
居住に適さない島に割り当てられる番号は九百番台と決まっている。あまりにも小さな島、草の一本も生えない沙漠、命を焼き尽くす火の島。それらを数えても三十に満たない。しかしながら白極海域に位置するその島に振られたのは九百九十九番。その後に続くものの存在し得ない番号だった。それは白極海域そのものが、あらゆる生命にとってあまりにも過酷な環境だからだ。
「虚光が降るぞ!」
北方限界線の観測所に声が響く。次の瞬間、空に揺らめく極光から一筋の光が流れ落ちた。氷の大地に雪が舞い上がる。光の墜落した場所を観測隊が双眼鏡で覗く。雪煙が晴れてゆく。光が射抜いた穴に厚い氷がせり上げている。やがて穴は再び凍て付き氷に覆われた。
「虚光の収束を確認!」
以前から氷と雪に閉ざされていたこの海域に、天を漂う極光から光が流れ落ちるようになったのは円環が出現してからのことだ。その光は円環を創造したものと似ているが、規模はずっと小さく、性質は大きく異なる。白極海域の白は、雪だけではない。虚光は極光より生まれ落ち、理不尽かつ無慈悲に流れ落ちる。その光に射抜かれたが最後、生命は等しく皆、瞬く間にして白い灰と化す。雪とよく似た白い粉は風に攫われ、白い大地に降り注ぎ、そうして何も残らない。
虚無に突き落とす光、人々はそれを虚光と呼ぶ。北方限界線を越えると虚光の照射範囲。虚光に規則性は無い。極光輝く天空はあまりにも広く、いつ、どこから虚光が落ちるかなど、真下に在っては分かりもしない。だが仮に虚光の前兆を察知出来たとしても、そこに身を隠す場所は無く、逃げるには遅すぎる。たとえ虚光の直撃を逃れたとしても氷が砕かれて足下が流氷となれば、元の場所に戻る方法は無い。氷の下は暗く重い極寒の海だ。
それでもなお北方限界線に観測所が置かれたのは、降り注ぐ虚光に円環との関連性、もっと言えば円環の再来を期待しているからだ。
円環の出現から百年三十年が過ぎて初めて、白極海域に人間の居住が確認された。周辺の北方海域から氷を渡ってきたらしい。北方海域と同じく分厚い毛皮に身を包み、雪塊で家を築き、アザラシを狩り、魚を獲る。数は少ないが、確かに彼らは白極海域で暮らしていた。双眼鏡越しにその姿を見付けた観測員は、あまりの寒さに幻覚を見ているのだと我が目を疑ったのだという。
あの白極海域に人間が暮らしている。その発見はすぐさま円環に伝えられ、特別編成の巡航隊が派遣された。名前の無かった土地には九百九十九という最果ての番号が与えられた。
キィラワッカは観測所の灯台から白極海域を見渡した。天空には青や緑、赤に次々と色を変える極光が揺れ、大地は氷と雪に覆われて眩しいほどに白い。見惚れるほどに美しい景色だが、すぐそこに見える北方限界線を一歩でも越えれば、虚光の餌食となりかねない。
「アンタ、北方海域の出身なんだって?」
そう言ってキィラワッカに声を掛けたのは、同じく特別編成の巡航隊の隊員であるバルツィだ。操舵部隊の副隊長であるバルツィは燃えるような赤毛を手櫛でひとつに結びながらキィラワッカの隣に並んだ。
「ええ、八百五十八番ですよ」
それがどこなのか、東方海域出身のバルツィには分からなかったが、この寒さの中でも弱音一つ吐かずに堂々と立つ姿は、確かに極寒を知る者だと感じていた。
「当時は自分の島が世界の果てだと思っていましたが、今この景色を目の前にして、真の最果てとはこの海域のことなのだと思い知ります」
キィラワッカは嬉しそうに目を細めた。
読めない男。バルツィはキィラワッカをそう称する。物腰の柔らかさ、紳士的な振る舞い。航海中の様子は、荒波を立てない協調性があり、巡航隊の中では救助隊に向いているように思えた。外見の年齢は三十代半ばといったところだろうか。オールバックにした黒い髪の一部だけが白いのは、母方譲りなのだという。そんなことを話す鼻筋の通った横顔は知的で、若い隊員たちはキィラワッカの話をもっと聞きたがっていた。人当たりは良い、知識も多く、思慮深い。今回の特別編成に選抜されただけはある。
だが、その細めた目の奥には炎が揺らめいている。それは野望を抱く瞳だ。白極海域に派遣されたのは単に北方海域の出身だからというわけではないだろう。何か目的があって参加したはずだ。バルツィはキィラワッカの心の内を詮索することはしない。詮索すれば逆にこちらの心を見透かされるだろうと感じていた。
「ああ、バルツィさん。どこまでも美しい世界ですねぇ」
キィラワッカの視線の先で虚光が流れた。
呼吸をするたびに、肺が冷たい空気で満たされて凍り付いていくようだった。
「虚光の出現に規則性は見付かっていませんが、極光から生まれ落ちるとき、そのあたりだけが強く光るそうですよ」
知っていましたか、バルツィさん。キィラワッカはそう言って湯気の立つカップをバルツィに差し出した。カップを受け取ったバルツィは湯気に息を吹いた。
「それが見えたところでどちらに向いて流れ落ちるか判断出来なければ逃れられないじゃないか」
「あ、確かに」
キィラワッカは今初めて気が付いたように言った。
「それでは、この話は? 空が曇ると虚光の力も弱まるそうです」
「曇りの日ねぇ……」
バルツィは空を見上げた。観測所に到着して六日。今日も白極海域の空は雲ひとつなく極光が広がっている。昼夜を問わずに輝く極光にも、耳が痛くなる寒さにも、もうずいぶんと慣れた。雲が無くても雪が降る。それが雪か、灰なのか、バルツィにとってはどちらも同じだった。
「早いところ居住者と接触しなけりゃ、こっちの資源が尽きるぞ」
「大丈夫ですよ、バルツィさん。風が変わりましたから。明日は曇ります」
キィラワッカの言葉の通り、巡航隊が観測所に到着して七日目の朝、白極海域の空を鈍色の雲が覆った。
「虚光の威力が弱まったところで、今度は極光が見えないのだから、虚光がいつ落ちてくるか分からないな」
「ええ、本当ですね。けれど、極光が見えていたところで、逃れられはしませんけれどね」
バルツィは雪船の動力源に円環石を填め込む。雪船は北方海域で使われるソリを改良したものだ。二人乗りの小さな船は小回りが利く。円環石を動力として使用することで速度も出せる。円環石は、円環の特定の地層から採掘される鉱石のことで、その内にはエネルギーが含まれている。大きなものであれば巡航隊の大型の船も動かすことが出来る。円環の外側では徐々にエネルギーが失われていくものの、巡航隊にとっては、とりわけ遠方に赴く部隊にとっては最も重要な物資となる。
操舵隊と救助隊の二人一組で雪船に乗る。前方に救助隊が座り、後方の操舵隊は立って舵を取る。
「ゾーウィーは東、ハンベルは北、キィラワッカは西だ。居住者と接触できた際は緑、捜索不可能となった場合には赤の照明弾だ。良いね」
救助隊長のレイヴェーユが出発前の最終確認を行う。バルツィは首に掛けたゴーグルを上げた。
「それでは皆、無事を祈る」
白極海域に向けて三台の雪船が出発した。
極光を右側に見ながらバルツィは雪船を走らせた。何も無い世界だった。植物も動物も、何も無い。氷と雪、ただそれだけだ。細かい雪の粒を舞い上げながら雪船は白極海域を進む。氷山のある東側は圧巻なのだろう。北側は白極の奥地、晴れた日には決して近付けはしない場所だ。西側は平坦な地形だった。虚光の衝突によって出来た氷の柱が無ければ、穏やかな湖と似ていた。氷や雪の上を滑走するのは海上の航海よりも疾走感がある。それは海とは別の心地好い感覚だった。
キィラワッカが手を挙げた。バルツィは雪船を止める。
「煙が見えます」
双眼鏡を覗くキィラワッカが十時の方角を指差す。バルツィも懐から双眼鏡を取り出した。なるほど、緩やかな小高い丘の向こうに、風雪とは異なる白い煙が立っている。
バルツィは丘へと雪船を走らせた。キィラワッカは丘の麓で雪船を降りた。バルツィは不測の事態に備えて雪船に残った。キィラワッカは雪の積もった丘もするすると登っていった。
振り返ってみても、何も無い。極光は曇天に隠れている。あの分厚い雲の向こうでも極光は光の翼を壮大に広げて、赤や青にゆっくりと色を変えているのだろう。遠くの雲が僅かに明るくなったかと思えば虚光が降った。しかし、地面に辿り着くより先に消えてしまった。なるほど、力が弱まるとはそういうことか、とバルツィは自分の目で見た白極の性質を頭の片隅に仕舞った。
さて、キィラワッカはどうしたか。バルツィは丘を仰いだ。キィラワッカは丘の頂上にへばりつくようにして向こう側を観察していたが、一向に降りてこない。居住者との接触に成功した時には緑の照明弾を打ち上げることになっているが、それはキィラワッカが持っている。いくら曇りの日とはいえども、白極海域で悠長に過ごしている時間は無い。
「キィラワッカ」
バルツィは小声で呼んだが、キィラワッカは振り返らない。何度か繰り返し、痺れを切らしたバルツィは丘を登った。雪に足を取られながらも、バルツィはキィラワッカの元に辿り着いた。
「キィラワッカ、まだか」
バルツィはキィラワッカの隣に伏せた。
「ああ、バルツィさん、彼らを見て」
内から湧き出る興奮を抑えきれないような声でキィラワッカはそう言ってバルツィを促した。バルツィはゴーグルを外して双眼鏡を覗いた。
白金の髪、白く透き通った肌、極光を閉じ込めたような瞳。そこに居たのは溜息が漏れるほど美しい人々だった。
「あの美しさ、ずっと見ていたい。そうは思いませんか」
恍惚としたキィラワッカの言葉をバルツィは否定しなかったが、肯定もしなかった。
「……この海域はあまりにも危険だ。せめて、北方海域まで後退させなければ」
バルツィの言葉にキィラワッカは目を細めた。
「そうですね、彼らが虚光に射抜かれて灰と散るのは、あまりにも惜しいことです。話をしてみましょう。バルツィさんはそちら側から丘を迂回して雪船を連れてきてください」
そう言うとキィラワッカは居住者たちのほうへと丘を滑り降りていった。バルツィは雪船を徐行させて丘の向こう側へ回り込む。バルツィの元へと歩いて戻ってきたキィラワッカは、困った表情をしていた。
「どうだった」
「どうもこうも、訛りが強すぎます。言語の壁は久しぶりですよ。私の言っていることが半分も通じたのかどうか」
キィラワッカは肩を竦めた。
「この様子だと明日もまた曇りですので、出直しましょう。どうやらここは彼らの拠点のうちのひとつのようです。同じ北方とはいえ、これほど言葉が違うとは」
「まあ、接触は出来たんだ。照明弾で知らせておこう。ゾーウィーたちが虚光に撃たれないうちに、さ」
バルツィが言うと、キィラワッカは緑の照明弾を打ち上げた。照明弾は上空で緑の花を咲かせた。ふたりは観測所へ向けて雪船で雪原を走った。
前方の氷の小山の向こうに観測所が見えるところまで戻ってきた辺りで、周囲を見渡していたキィラワッカが不意に手を挙げた。
「バルツィさん! 八時の方向、赤の照明弾です!」
その声にバルツィは雪船の向きを変えた。赤い花火が曇天に散っている。
「あの方角、ハンベルとシェイドゥッツか」
バルツィはまた雪船の向きを変え、観測所に向けて進路を取った。
「え、救助に向かわないのですか」
「アンタが邪魔だ、キィラワッカ。一人乗りのほうが速い」
キィラワッカを観測所の手前で降ろし、軽くなった雪船を巧みに操ってバルツィはハンベルたちを追った。速度を上げると小さな段差で雪船が跳ねた。二発目の照明弾が前方に見えて、ハンベルたちの居場所が近いと分かった。
足下の氷に亀裂が走っていた。その亀裂を辿った先にハンベルの姿が見えた。雪船が氷の中に頭を突っ込んでいた。ハンベルが必死に雪船を掴んでいる。割れ目に落ちたのか、走っている時に割れたのか。どちらにせよ雪船は氷の下の海に沈もうとしていた。
「踏ん張れ、ハンベル! 今行く!」
バルツィは雪船を飛ばした。救助隊員のハンベルの周囲に操舵手であるシェイドゥッツの姿が無い。バルツィは雪船の荷台からロープを取り出して片方の端を自分の雪船に、もう片方をシェイドゥッツの雪船に結んで引っ張り上げた。しかし、氷の上に引き上げた雪船にもシェイドゥッツの姿は無かった。
「シェイドゥッツ!」
バルツィとハンベルは海を覗くが、暗い海は何も見えない。そうしているうちに、傍で氷の割れる音がした。バルツィは雪船を繋いでいたロープを切った。
「乗れ、ハンベル!」
氷に泣き縋るハンベルを放り投げるようにして前に乗せ、バルツィは雪船を出した。途端に氷が割れ始めた。亀裂が水柱を上げながらバルツィたちに迫る。シェイドゥッツの雪船が再び海に落ちた。もう二度と浮上はしないだろう。バルツィは氷の地面を避けて雪の丘まで上がった。高いところから見渡すと、氷が大きく裂けて、大地が動き始めていた。バルツィは物言わず、流氷を眺めていた。
体内に蓄積された円環の恩恵は、冷たい水底のシェイドゥッツに、しばらくの猶予を与えるだろう。浮上することも出来ず、けれどもすぐに凍死や溺死するわけでもない。臨死の経験者によれば、思考だけは最後まではっきりと残り、自分の死がゆっくりと近付く気配を感じるのだという。沈んだ身体を引き上げることが出来れば、そして円環石と共に円環まで帰還すれば、シェイドゥッツが助かる可能性はまだ残されている。しかし、どうすることも出来ない。海中を探索する手立てが無い。空を飛ぶ翼が無い。人類に与えられたのは、船を操る技術だけ。水浸しになった世界を船で渡る。砂や雪や氷の上を船で滑る。重苦しい沈黙の中、遠く虚光が空中で散った。
次の日もまだ空は雲に覆われていた。キィラワッカの予想はまた的中した。
ゾーウィーは昨日に続いてエジェクと組んでいた。ハンベル組は代わって救助隊長のレイヴェーユと中堅操舵手のフォンが組んだ。バルツィが操りキィラワッカが先導する雪船を先頭に、ゾーウィーとレイヴェーユの三組で、昨日見付けた西の拠点へ向かった。
「夜までには晴れてしまいそうです。これが最後ですね」
キィラワッカが空を見渡してそう言った。物資や円環石の消耗、隊員たちの疲労を考えると、次の曇りを待つ余力は巡航隊に残っていない。今日の捜索の結果がどうであっても、明日の朝には白極海域を離れることになる。
「この殺風景も見納めだな」
バルツィは防寒着に首を埋めて雪船を走らせた。昨日訪れた拠点に居住者たちは留まっていた。
救助隊が居住者たちと話をしている間、バルツィは拠点をじっくりと観察した。雪塊で築かれたドーム型の家が、彼らの生活空間なのだろう。圧縮されて固まった雪は、その場で採掘出来る建材だ。広い氷の大地を流浪する彼らにとっては、荷物は身軽なほうが良い。彼らの雪船を牽くのは大型の鹿らしい。干されているのはアザラシの肉だろうか。
彼らは皆、白金の髪をしていた。雪の白とも、雲の白とも異なる白色だ。だが、どこかで見たことのある色だ。瞳は極光を閉じ込めた色。瞳の中で色が徐々に変わり、一色ではとても表現出来ない。他の北方海域では確認されていない白極海域特有の特徴らしい。
バルツィは雪船に腰掛けた。早々に飽きたエジェクとフォンは雪だるまを作って暇を持て余していた。そんなふたりを横目にバルツィは救助隊たちをぼんやり眺めていると、不意に、居住者たちの白い髪の色の心当たりが分かった。
流れる虚光の尾の色だ。彼らの髪は、虚光の色をしていた。
「保護色か」
そうだとすれば、彼らの外見的な特徴が白極海域だけに見られるものだということも合点がいく。虚光に関する報告のひとつによると、虚光同士の衝突は一度も確認されていない。百年を賭して彼らは虚光から逃れる手立てを身に着けたのだろう。この仮説が正しければ、白極海域で彼らが生き延びてこられたことにも説明が付く。
ひとりの少年が、少し離れたところからバルツィを見ていた。バルツィは少年に気が付いた。少年は戸惑いながらも、少しずつバルツィに近寄ってきた。少年の瞳は紫色だった。だが、一言で紫と表しても右の瞳は紫から青へ、左の瞳は紫から赤へと、左右で異なる色合いをしているが、やはりどちらも極光と似た色をしている。まるで西方海域の商人たちが売っている宝石のようだ。いや、宝石よりもずっと綺麗だ。
少年はバルツィの雪船に興味があるらしかった。だが、あと少しの勇気が出ないのか、近くまでは寄ってくるが、バルツィからは手の届かないところで留まる。巡航先の島々ではよく見る光景だ。大きな島には巡航船だけでなく補給船や商船といった船が立ち寄るため子供たちも船は見慣れているが、遠く離れた小さな島々には巡航船のほかに訪れる船もほとんど無い。巡航隊が彼らの出会う初めての円環者だということも少なくはない。もっとも、円環の恩恵は、特殊な例を除けば外見での判断が付かない。
「乗るか?」
バルツィは少年に尋ねたが、言葉は通じなかったようだ。やがて少年は母親と思われる女性に呼ばれて駆けていった。見たところ、この少年が最年少のようだった。
救助隊による説得は難航しているように見えた。言葉の壁が乗り越えられず、徐々に身振り手振りが大きくなっている。普段の巡航であれば、その土地の言葉を理解している者が必ず同行している。それに、言葉の違いもほとんど存在していない。だが、北方海域は他の海域との交流が少なく、円環でも出身者は珍しい。
「副隊長、あれ」
エジェクの声にバルツィは振り向いた。雪を転がしていた手を止めて、エジェクとフォンは雪の丘を見上げていた。その視線の先をバルツィも仰ぎ見る。
「あれ、何ですか」
丘の頂上に白い生き物が立っていた。双眼鏡で見ずとも分かる、その大きさ。実物を見るのは初めてだが、その存在は北方海域の巡航隊から聞いていた。見れば分かる、迷わず逃げろ、と。
「シロクマだ。それも、円環者を食ったシロクマだ」
食われたのは、海に落ちたシェイドゥッツだろう。円環者を食った獣は、強い緑色を放つその瞳で判別出来る。それがたとえ普段は大人しい獣であっても、凶暴化して他の生き物に襲い掛かる。厄介なのは、食われた円環者の恩恵の残滓によって獣たちもまた、そう簡単には死なないということだ。
「エジェク、フォン。緊急退避の準備だ。ゆっくりと丘から距離を取れ、落ち着いて行動しろ」
バルツィはふたりに指示を出しながら、自分も雪船に手を掛けていつでも走り出せるように備える。シロクマはまだ動かない。バルツィはチラリと振り返り、キィラワッカの場所を確認した。キィラワッカはレイヴェーユと共に、居住者たちと話を続けている。この距離なら大丈夫だ、とバルツィは丘を振り返ろうとした。しかし、思わず視線を止めた。
晴れ間だ。
空を覆っている雲を裂くように晴れ間が広がり始めていた。その僅かな隙間から、極光の鮮やかな光が見え隠れしている。方角からして観測所への帰路の直線上だ。虚光とシロクマのどちらが危険か。どちらも危険に決まっている。
「アタシがシロクマの気を引いている間に、最短経路を避けて観測所へ帰還しろ」
シロクマが身を屈めた。
「行け!」
雪の丘をシロクマが滑り降りてくるのと同時にバルツィは合図を出した。拠点は一瞬にして混乱したが、エジェクとフォンは迷わずに雪船を出した。バルツィはシロクマの降りてくる地点を予測して雪船で先回りする。
「キィラワッカ、隠れろ!」
バルツィの声にキィラワッカは雪塊の陰に隠れた。救助隊を乗せたエジェクたちが走り去っていくのが見えた。居住者たちも鹿に跨がって散り散りに逃げていく。バルツィはシロクマの前を走った。こちらの思惑通りにシロクマはバルツィを追ってくる。シロクマの体当たりで雪の家に穴が開いた。干し肉が飛び散り、踏みつけられる。雪を巻き上げてシロクマの視界を遮る。急旋回、急発進。バルツィは雪船を器用に操った。これこそバルツィが操舵部隊に選ばれた技能だ。皆が逃げる時間は稼いだ。
「乗れ、キィラワッカ!」
バルツィは隠れているキィラワッカを迎えに行くと、キィラワッカは必死に何かを抱えていた。あの紫の瞳の少年だ。ぐったりとした少年の薄い胸に氷の破片が突き刺さっていた。
「この子を置いてはいけません!」
少年の胸から滴り落ちた血が雪を赤く染めていた。バルツィは咄嗟にコートを脱ぎ捨てた。二人乗りの雪船にこの少年も乗せれば、その軽い体重でも命取りになる。シロクマからは逃げ切れない。
「アンタもアタシも、そう容易くは死なない。そうだろ?」
バルツィは格好付けて笑ってみせた。キィラワッカの分厚いコートが寒空の下に放り投げられた。
雲の晴れ間から虚光が幾筋も流れ落ちる中をバルツィは雪船で滑走した。虚光が雪船に落ちることはなかった。むしろ、行く先を導き照らすように流れていく。倒れた氷柱を踏み台にして跳躍する。どこまでも続くような白い氷原が広がっていた。ひどく幻想的な光景だった。きっと生涯、忘れることなどないだろうとさえ思えた。
少年は円環石と共に円環へ高速船で移送されることになった。キィラワッカが少年の通訳として一緒に帰還することになった。船の操縦はバルツィが担当した。息も絶え絶えになった少年の手をキィラワッカはずっと自分の手で包み込んでいた。
「キィラワッカ」
バルツィはキィラワッカに声を掛けた。キィラワッカはバルツィを見て、続く言葉を待っていた。
「アンタ、本当は最初から言葉が分かっていたんだろう」
その問いにキィラワッカは何も答えなかったが、口は弧を描いていた。
円環では年老いることがない。そのことに初めて気が付いたかつての人々が、何を考えたか想像に容易い。美しい者を美しいままの姿で、あの楽園に閉じ込めておけるのだ。そうして生まれた人狩りは、今なお密かに、確かに続いている。
キィラワッカは笑っていた。たとえ少年が瀕死の重傷を負わずとも、キィラワッカなら少年を白極から連れ出しただろう。言葉巧みに誘い出して円環に連れ帰り、完璧とも似た歪んだ永遠を与えただろう。この男なら誘拐婚もやりかねない。
治療を終えても、そう簡単には白極海域に戻れないだろう。シェイドゥッツの死亡とシロクマの一件で、白極海域の調査は延期、あるいは打ち切られるはずだ。何より白極海域を志願する者など現れないだろう。北方海域を巡航の限界として、白極海域への航路は廃止される。少年の帰路は閉ざされるのだ。
苦々しさを噛み締めながら、バルツィは円環へと船を走らせた。
巡航船と併走するように小型の鯨たちが群れを成して泳いでいる。時折、海面を飛び出しては華麗なジャンプを披露する。グヴェインは顔に掛かった水飛沫を手の甲で拭った。
「アンタは結局、大人にはなれなかったね」
グヴェインは振り返った。
「バルツィさん」
バルツィがグヴェインの隣に並んだ。
「声変わりをしただけでも幸運ですよ」
グヴェインがそう答えると、バルツィはグヴェインの黒髪を掻き乱した。
円環者の外見は十代後半から三十代前半が一般的で、その中でも二十代前半の人口が圧倒的に多い。グヴェインの外見は十代半ばで止まった。若いと言うよりも、むしろ、幼い。支給された制服はどれも大きすぎて、裾も袖も折っている。本来ならば背はどこまで伸びただろう。しかし、円環の恩恵はそれが完璧な姿であるのだと、グヴェインを少年の姿で止めた。
「理想の島を見付けたら、誰よりも先に教えてくれよ。アンタをその島まで無事に送り届けるのはアタシだ」
「この船よりも居心地の良い場所が見付かったら、その時は迷わずバルツィさんにお話しますよ」
鯨がキュルルと鳴いた。グヴェインは海を見た。鯨たちを愛しげに眺めるグヴェインの横顔をバルツィは見詰めていた。バルツィから見える左目は、紫から赤へのグラデーション。伸び始めた黒髪の根元からほんの少し白金が覗いている。その胸にはどうしても消えなかった傷痕が今も残っている。
「それまではバルツィさんの船だけがぼくの居場所です」
思い出の中に広がるどこまでも白い大地、空を彩る極光、降り注ぐ虚光。今はもう遙かなる白極海域、九百九十九番島。
そこより先は無い、この世界の最果て。
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