鯨の亡霊

七町藍路

第1話 君在りて ―七百五十五番島―


 船は円環の外に残る島々を巡る。円環より近い場所であれば五年に一度の巡航も、遠方の島々ともなれば十年、あるいは数十年に一度の機会となる。

 巡航船は波を切る。

 円環と呼ばれる海域が発生したのは、今から遡ること百八十八年と九十四日前、現地時間で午後一時十三分のことだった。当日の天気は快晴、南東の風は二メートル。雲一つ無い空から一筋の光が海に突き刺さった。

 光は水を切り裂き瞬く間に海底まで到達し、衝撃を受けた海底が隆起した。押し退けられた海水は大波となって周囲の大地に押し寄せた。当時の記録によると、遙か上空まで打ち上げられた海水はまるで大雨のように青空から降り注いで川となったのだという。光が刺さった地点は完全な円形の塩湖となり、その中心を起点とした大きなドーナツ状の陸地が、これもまた完璧な同心円で構成された陸地が出来上がった。

 そして塩湖の中心から百三十七海里。

 この完全な円形の地域を円環と呼ぶ。

「どうして円環の外までオレたちがわざわざ行かなきゃいけないんスかね」

 詰まらなさそうに愚痴をこぼすのはアルロア隊員だ。甲板の上で脚を投げ出している。

「好きで円環の外に居る連中をオレたちが探して移住を促すなんて」

「残留者の中には、円環への移住を希望しながらも巡航船が長年寄港しないせいで、機会を失っている者も居る。機会の不平等の救済は円環者の責務だ。円環はすべてのものに開かれなければならない」

 真っ直ぐにそう答えたのはゼーラ隊長だ。潮風になびく金色の長い髪は陽光を浴びて輝いていた。

「アルロア隊員にとっては詰まらないことかもしれないが、巡航船を待ち侘びる者たちの存在を忘れてはいけない。そうだろう?」

「そうッスけど」

 アルロア隊員はまだ不満があるらしい。唇を尖らせて晴天を仰いでいる。ゼーラ隊長はアルロア隊員を一瞥して海へと視線を投げた。

「アルロア隊員、君は志願して巡航隊に入隊したと聞いているが、なるほど、君は円環の外への残留を希望していたのか」

「ち、違います!」

 ゼーラ隊長の言葉にアルロア隊員は思わず大きな声で返事をした。ゼーラ隊長は鼻で笑った。

「我々が向かっている七百五十五番島へ最後に巡航船が訪れたのは六十一年前とのことだ。これ以上の議論は不要だろう」

 水平線の彼方に七百五十五番島が見えてきた。

 円環が出来上がった時、その陸地にはひとつの植物も根付いていなかった。世界の陸地のほとんどが水中に沈み、島々が点在するだけとなった各地から調査隊が円環に派遣された。しかし、調査隊が上陸した際、服に付着していた植物の種子が地面に落ちた瞬間、瞬く間に辺り一面が緑で覆われたのだという。

 寄せ集めの調査隊は、十数年の歳月を円環の調査に費やした。そうして明らかになったことは、円環ではある程度の時点で成長が止まるということだった。たとえば熟れた果実は木々に実ったまま腐ることがなかった。果実をもぎとって初めて次の花が咲いてまた果実へと成長し、熟したところで止まる。熟れすぎた果実を外から持ち込むと、その果実はたちまちのうちに丁度良い加減の成熟度へと退行した。

 人間は、といえば、個人の差は存在するものの、十代後半から三十代に収まった。それが円環にとっての完全な姿なのだろうと研究者たちは言う。死に至る病は存在せず、外部要因による大きな損傷のみが円環での死因となった。永遠の若さを得た一方で生殖能力が著しく衰退した。当然と言えばその通りで、減少しないものを増やすことは得策とは呼べない。

 一度でも円環の恩恵を受けたならば、その恩恵の外で生活することは、何よりも耐え難いことであるため、流刑は死刑よりも重い。円環には果てがある。直径二百七十四海里。寸分の狂いも無く、その完全な円形だけがこの世の理を覆す場所であった。

 そんな中で、円環の外に自ら向かい、残された者たちを迎えに行く救済巡航船は、英雄の船とも呼ばれている。

「桟橋を確認。接岸します」

 ゼーラ隊長は目を細めて桟橋を見遣った。浜辺に沿った森の中から五人ほどの居住者が姿を現した。それを確認してからゼーラ隊長は荷物の入ったリュックを背負った。

 七百五十五番島。周囲に浮かぶ七百五十番台の中では最も広く、集落跡が二カ所ある。他の七百五十番台の島々は過去の巡航の末に引揚完了となり、この一帯で居住者が残るのはこの島だけとなった。

「ゼーラ隊長」

「ん、グヴェイン隊長」

 背後から声を掛けられてゼーラ隊長は振り向いた。そこにはグヴェイン隊長が立っていた。巡航船は複数の部隊で構成される。この巡航船に乗っているのは残留者の捜索と救出を行うゼーラ隊、円環には無い種を持ち帰るグヴェイン隊、巡航船を操るバルツィ隊の三部隊だ。

 グヴェイン隊長はスケッチブックを取り出してゼーラ隊長に見せた。

「七百五十五番島には、こういった果実があるのだと聞いている。今回、ぼくの隊は西側の森、ゼーラ隊は東側の集落跡の捜索だろう。もし東側でこの果実を見付けたら持ち帰ってほしい」

「色は黄色か」

「記録上。熟した果実は黄色のようだけど、未熟なものは緑かもしれないな」

「分かった、気にしておく」

「残念ながら花の記録は残っていないから、今がこの種にとって果実の季節であることを祈るしかない」

「グヴェイン隊長が祈るのなら、きっと木は枯れているのだろうな」

「悲しいことを言わないでくれよ」

 そう言って少し笑うとグヴェイン隊長は自分の隊の元に戻った。ゼーラ隊長も部下を集めた。ペイサー副隊長が点呼を取る。

「今回の巡航の捜索範囲は七百五十五番島の東側となる。資料にはあらかじめ目を通してあると思うが、東側には集落跡の片方があり、ここに残留者が居住していると考えられる。前回の巡航の際に、西側は建造物の崩壊が進み、これ以上の居住が不可能であると判断されている」

 ゼーラ隊は巡航船を下りて桟橋を歩く。ゼーラ隊長、ペイサー副隊長、隊員四名。その後ろに総勢五名のグヴェイン隊が続く。

 巡航船から打ち上げられた信号弾が青空に花開き、周囲の島々にも巡航を告げる。

「いってらっしゃぁい」

 巡航船に残るバルツィ隊が手を振っていた。船を動かせる者は一握りしかいない。風を読み、舵を取り、時には船を修繕する。バルツィ隊長がこれ以上の航海は不可能だと判断すれば、そこで巡航は終わる。巡航船で最も現実的なのが操舵を担う部隊だ。けれどもバルツィ隊は皆が陽気な楽天家だった。

 森から出てきた居住者たちが顔を輝かせて巡航船に歩み寄る。一番に出てくるのは、巡航船の到来を待ち侘びていた者たちだ。円環への居住を夢見る彼らは、長らくの間この海域で巡航船の船影を探していたに違いない。彼らの相手はバルツィ隊の仕事だ。砂浜を歩くゼーラ隊にも、バルツィ隊と居住者たちの笑い声が届いていた。

「では、また後で」

 森の入り口でゼーラ隊とグヴェイン隊は別れた。

 森は鬱蒼としていたが、足下を見れば踏みしめられて出来た獣道が続いていた。ゼーラ隊はその獣道を辿った。

「隊長、何か探しているね? 珍しくキョロキョロしているね」

 ペイサー副隊長がクスクスと笑って尋ねた。

「ああ、グヴェイン隊長に頼まれた果実を探している」

「グヴェイン隊長の個人的な依頼なら、食用じゃないのね?」

「そのまま食べても美味ではないのだろうな」

 ペイサー副隊長は興味を失ったらしい。ふぅん、という相鎚は溜息と似ていた。

 途中で何組か、残留者に出会った。浜辺の桟橋に巡航船が停泊していることを伝えると、我先にと海へ走っていった。

「円環って、そんなに魅力的なんスか」

 アルロア隊員が不思議そうに言う。そこには僅かな蔑みの感情が含まれている。巡航隊に縋る残留者たちの姿を醜いと感じている。

「君は円環出身だから分からないね」

 ペイサー副隊長の言葉は正しい。円環で生まれ育った者にとって恩恵は当たり前に存在しているものであって、それは周りに空気があることと大差ない。

「分からなくても良いね」

 ペイサー副隊長はカラカラと笑った。

 そうしてしばらく森を歩くと、やがて明らかに人の手が加えられた木々が目に入るようになった。下草が刈られ、枝葉は剪定され、獣への対策か果樹は柵で囲われている。残留者の居住地が近いらしい。

「あ、見えました、居住地です」

 先頭を歩くリッサ隊員の声が上擦った。居住区は入り江に作られていた。ゼーラ隊は東に口を開けた入り江のちょうど真ん中に出た。岸壁に貼り付くような建てられ方だ。石造りの家々の多くは植物に飲み込まれているが、たとえば洗濯物、たとえば煙、残留者の営みがあちこちに見られた。

「年長者を探しますか」

「そうだな」

 ゼーラ隊長は周囲を見渡して北側を指差した。

「あちら側は随分と朽ちているように見える。日の当たる南斜面だ、植物の勢いに負けたか。居住の中心は向こうだろう」

 その言葉に隊員たちは南側を見た。確かに生活の痕跡は北斜面になっている入り江の南側に集まっているようだった。

「あ、ゼーラ隊長。あれは何でしょう? あれです、あの白いもの」

 不意にリッサ隊員が入り江を指差した。その指の先、入り江の片隅に白い物体が浮かんでいる。かなり大きな物体ではあるが、船とは異なる。ゼーラ隊長が無言で差し出した手にペイサー副隊長が双眼鏡を乗る。ゼーラ隊長は双眼鏡を数秒だけ覗くと、すぐに双眼鏡をペイサー副隊長に返した。

「鯨の亡骸だ。随分と大型種のようだが、この入り江に迷い込んで力尽きたか、あるいは死骸が流れ着いたか」

 ゼーラ隊長の答えに隊員たちはざわめいた。無理もない。円環の周辺に大型の鯨は生息しておらず、ゼーラ隊の巡航船の担当海域も生息域外だ。そんな大型の鯨が白い腹を天に向けて浮かんでいる。

「グヴェイン隊長なら、あそこまで見に行っただろう」

 波が打ち寄せるたびに、鯨の亡骸はゆっくりと揺れた。

 ゼーラ隊は岸壁の建物を目指した。建物の隙間の狭い路地や、下の建物の屋根を歩くような道が続く。硝子の無い窓枠に腰掛けている青年に年長者の場所を尋ねると、青年は路地の先を指差した。その指先までよく日に焼けた小麦色の肌をしていた。

「この先にある青い扉の家。ルーフェルトのばあさん」

 青年の手には真っ赤に熟れた果実があった。

「あんたらが噂の巡航隊?」

「そうだ。円環への移住を希望するならば、南の砂浜に停泊している巡航船に向かうと良い」

「おれは行かないよ、この入り江が好きだ」

 そう答えると青年は果実に歯を立てた。

「あの鯨の亡骸は?」

「おれが生まれる前からそこにある。ルーフェルトのばあさんに聞いてみなよ」

 青年はからかうように笑った。ゼーラ隊は青年に礼を言うと、路地を進んだ。青い扉の家はすぐに見えた。そしてその家の前には木の椅子に腰掛けた老婆の姿があった。植物の蔓を使って籠を編んでいる。

「あなたがルーフェルト?」

 ゼーラ隊長が声を掛けると、老婆は顔を上げた。

「ええ、わたしがルーフェルトよ。あなたたちは巡航隊ね」

「隊長のゼーラだ」

 軽く会釈をしたゼーラ隊長に続き、隊員たちも頭を下げる。

「早速だが、この居住区について幾つか教えてほしい」

「この島に住んでいるのは、六十二人。そのうち円環への移住を希望しているのは四十七人。ここに残るのは十五人。計算は得意なのよ」

 ルーフェルトはそう言うと悪戯っぽく笑った。ゼーラ隊長が質問するよりも先に、望む答えを口にしたルーフェルトに対して、隊員たちは戸惑っていた。

「ふふ、驚いているのね。わたし、前の巡航の時だってこの島で暮らしていたもの」

 ゼーラ隊長は少しだけ肩を竦めた。

「あの鯨の亡骸はいつから?」

「そうね、わたしが子供の頃に流れ着いたから、もう七十年ほど前になるかしら。この入り江に辿り着いた時にはすでに死んでいたのだけれど、きっと円環の何かを食べたのね。亡骸はいつまで経っても腐らずに、朽ちもせず漂っているわ」

 まるで亡霊みたい。ルーフェルトはそう言うと寂しげな表情を見せた。ゼーラ隊長の後ろでアルロア隊員がペイサー副隊長の袖を引いた。

「副隊長、亡霊って何スか」

「円環に亡霊は居ないから、君は知らないね。亡霊は死者の魂のことね。あるいは、かつてはここに在って、けれども今はここに無いものね」

「ますます分からないッスよ」

「亡霊はね、残された者の未練よ」

 ペイサー副隊長の代わりにルーフェルトが答えた。

「ああすれば良かった、こうすれば良かったという後悔が、死者の形になるの。あの鯨は、救ってあげられたら良かったのにという、この島の未練よ」

 鯨の亡骸に向けられたルーフェルトの瞳が、ゼーラ隊長に向けられた。

「五年に一度くらいかしら、他の島々から人が流れ着くの。家族の時もあれば、一人のこともある。そうしてこの島に新しい居住者が増えるの。円環は遙か遠くにあるから」

「中継地を三つ経由する、ここは円環から最も遠い海域のひとつだ」

「ここからは見えないのね」

 まるで溜息のようにルーフェルトはそう言った。

「さて、こうしては居られないわね。ランジェス、ランジェス」

 ルーフェルトが手を叩いて名前を呼ぶ。しばらくするとゼーラ隊が通ってきた路地から先ほど道を尋ねた青年が姿を見せた。

「ランジェス。移住希望者の家々に巡航隊の皆さんを案内してあげて」

「良いよ、ついてきて」

 ランジェスはゼーラ隊を手招きした。迷路のような路地をランジェスは迷いもせずに進んでいく。

「ケレイックさん、巡航隊が来たよ」

「パフィン、巡航だ、南の浜へ急げ」

「ミシェイラ、エレイス、お待ちかねの円環だ」

 家々の窓からランジェスが声を掛けていく。家の中からは慌ただしく荷物をまとめる音が聞こえる。

「これ、オレたちは不要じゃないッスかぁ?」

 疲れた様子のアルロア隊員が愚痴をこぼす。

「巡航隊が一緒じゃないと、ランジェスがただの嘘吐きになるね」

「つまり?」

「ランジェスの言葉が真実になり、我々の姿が亡霊ではなくなるということだよ」

 ゼーラ隊長がアルロア隊員の手を引いた。

「この島に巡航隊が来たのは六十一年前。ここで暮らすほとんどの者にとって、我々の存在は伝え聞いただけの存在、蜃気楼のように曖昧な存在だ。円環は、夢を見る者からすれば、粗末な船で荒波へ挑むほどに切望する場所だ。そんな者たちに、巡航隊が来たという嘘は、どんな嘘よりも酷く罪深く聞こえるだろう」

「円環は、そんなにも良いものッスか?」

「そうだと言う者も居れば、違うと言う者も居る。所詮は主観だ、誰もが同じ印象だとは限らない」

「じゃあ、ゼーラ隊長にとっては?」

 アルロア隊員の問いにゼーラ隊長は口角を上げただけだった。

 ランジェスに案内されて岸壁の居住区を周り、そうしてルーフェルトの元へ戻ってくると、太陽は少し傾いていた。鯨の亡骸は変わらず入り江に浮かんでいた。

「ありがとうね、ランジェス」

 ルーフェルトが編んでいた籠はもうあと少しで完成というところまで出来ていた。

「ルーフェルト、あなたは円環に行かないのか」

「わたしの心は変わらなかったわ。あの鯨と同じね」

 ルーフェルトは椅子の背に身体を預けた。

「円環が理想郷かどうかなんて、ひとの勝手よ。完璧な場所に思うのも、不自然だと感じるのも、どちらもきっと正解。あるいは、どちらも間違いね」

「我々は円環への移住を強要はしない。」

「そうね、ええ、知っているわ。六十一年前もそうだったものね。移住を希望する者だけを船に乗せて、残る者たちには支援物資を残してくれた。おかげで今まで生き延びられたのだから」

「だが、高齢のあなたにとってはこれが最後の機会だろう。本当に移住を希望しないのだな」

「ありがとう、優しいのね。だけど、わたしはここに残る。この入り江はね、朝日がとても綺麗に射し込むの。水面がキラキラと輝いて、また新しい一日が始まるの。わたしはね、変わらないことにも憧れるけれど、それでもやっぱり、変わりゆくものが好きよ」

 円環ではほとんど見掛けない白い髪の毛は太陽の光を透かすように輝いている。

「たとえ円環が理想郷で、この島が理想郷じゃなくても、わたしはここで終わりを迎えたいの。永遠の若さも、尽きることのない食料も、とっても魅力的かもしれない。でも、わたしにとって不変は停滞と同じことよ」

「この島は、円環ほど良い場所なんスか?」

 アルロア隊員が尋ねると、ルーフェルトは朗らかに笑った。

「わたしの全てよ。ここで過ごした日々が褪せた思い出になってゆくのは悲しすぎるの。綺麗なまま抱いておきたいから」

 潮風が吹いていた。ゼーラ隊長の長い髪が金色の筋になる。

「では、これで別れだ。皆、支援物資を。残りの物資は船に積んでいる。南の砂浜に置いていくから回収してくれ」

 ゼーラ隊長の言葉に隊員たちは背負ってきた支援物資を降ろした。保存食、医薬品、衣類と裁縫道具、燃料。島では生産することの出来ないものが入っている。この物資が安全な日々を約束するわけではない。だが、少しばかりの間の平穏をもたらすために運ばれた物資だ。

「どうぞ達者で」

「ええ、あなたたちも」

 ゼーラ隊長とルーフェルトは握手を交わした。どちらも温かい手だった。ゼーラ隊は来た道を戻った。ルーフェルトとランジェスは手を振っていたが、路地を曲がれば見えなくなった。

 崖の上から入り江を見下ろす。鯨の亡骸は変わること無く波間に浮かんでいた。

 巡航船の停泊する砂浜にはグヴェイン隊が先に戻っていた。ゼーラ隊は移住希望者を数えた。ルーフェルトの言った通りの人数が集まっていた。隊員たちが移住希望者の体調を確認し、残りの支援物資を砂浜に降ろしている間、ゼーラ隊長とグヴェイン隊長は調査結果を共有した。

「今回の移住希望者は四十七、残留希望者は十五」

「うん、悪くはない。ぼくのほうは、十七種。目標としていた二十種類には届かなかったな」

「嘆くほど悪くはない。ああ、そうだ」

 ゼーラ隊長は自分の荷物の中から瓶を取り出した。

「君の探していた果実だ、残留者から貰った。皮が固く酸味が強いんだ、こうして砂糖漬けや果実酒にするのが良い」

 瓶の中には輪切りにされた黄色い果実が砂糖に漬けられていた。ゼーラ隊長はその瓶をグヴェイン隊長に渡した。

「この果実を知っていたのか」

 ゼーラ隊長はその問いには答えず海を見た。太陽が西の水平線に沈むまであと二時間ほどだろう。

「そろそろ出航だな」

 巡航船ではバルツィ隊が忙しなく船出の準備を進めていた。

「グヴェイン隊長。望むならば君はいつだって円環の外に残ることが出来る。君にはその資格も権利もある」

「ぼくが円環の外に惹かれているのは認めよう。だけど、ぼくにとって最も重要なことは、円環に外の動植物を持ち帰り、いかなる種も世界から二度と失われないようにすることだ」

「君は熱心だな、円環には勿体ない人材だ」

「ゼーラ隊長、君だって十分に熱心だ」

「いいや、君と並ぶには、私はあまりにも利己的だよ」

 幸いにして移住希望者に感染症の恐れは無く、全員が乗船出来ることになった。砂浜には島に残る者たちも見送りに来ていた。ルーフェアルトとランジェスの姿は無かった。それぞれが別れを惜しむ。これが今生、最後だろう。

「さあ、みんな、円環に戻ろうじゃないか!」

 バルツィ隊長の声を合図に碇が上がる。巡航船が沖に向かってゆっくりと動き始める。残留者たちは桟橋から手を振っていた。乗員たちも甲板に並んで手を振り返す。

「グヴェイン隊長」

「ん、ゼーラ隊長」

 グヴェイン隊長の隣にゼーラ隊長が並んだ。

「君は北方海域の出身だったか」

「よく憶えているね。ああ、雪深い氷の大地だ」

「今でもまだ故郷のことは色鮮やかに思い出せるかい?」

「勿論だとも。ゼーラ隊長は?」

「私だって憶えているよ、悲しくなるほど鮮明に、それでいて、切なくなるほど薄らと。まるで、あの思い出に縋り付いているようだ」

 七百五十五番島が遠くなる。残留者たちが小さな点になる。世界が橙色の夕焼けに染まる。

「幼い私にとって、円環は夢物語だった。永遠を約束された世界に、私も行ってみたいと思っていた。円環は理想郷だった」

「その言葉はまるで、今の君にとっては円環が理想郷ではないように聞こえる」

「円環で過ごして思い知った。理想郷は、場所のことではなかったのだと」

「それなら理想郷とは何だと君は思うんだい?」

 グヴェイン隊長がゼーラ隊長に尋ねた。ゼーラ隊長は髪を掻き上げた。

「大切なひとと一緒に居られるなら、どんな土地だって理想郷になる。たとえそれが荒野でも、密林でも、あるいは円環だとしても」

 ゼーラ隊長は目を細める。その横顔が夕焼け色に染まっている。ゼーラ隊長を見詰めるグヴェイン隊長の顔もまた、茜色をしていた。

「あの島が、私の故郷。私の理想郷だ」

 その言葉にグヴェイン隊長は七百五十五番島を見遣った。七百五十五番島はまさに水平線の向こう側へ消えようとしていた。引き返せるわけがない。無論、泳げる距離でもない。六十年後に、まだ人々が暮らしている保証も無い。何より、島が残っているかどうかなど、誰にも約束出来ないことだ。ここは円環の外、完璧の外側なのだから。

「さようなら、ルーフェルト。私の友人。あなたを残して去った私を赦せ」

 さよなら、とゼーラ隊長は呟くように別れを告げた。その頬を伝う一筋の涙の行方をグヴェイン隊長はただ黙って見届けた。

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