Extra - 死神の嘘

 年も明けて大学も始まると、にわかに慌ただしくなってきた。それまでの生活が変わって、鈴鹿の事務所の二階から大学に通い、食事は適当に学食かコンビニ飯。

 たまに鈴鹿が出前のラーメンとかチャーハンなんかを奢ってくれたり、唐突に謎の高級すき焼きが振る舞われたりと、食生活は不安定だったが、クリスマスイブの一件以来、命に関わるような事件は一応なりを潜めていた。


 とはいえ、相変わらず目の前に植木鉢が降ってきたり、へいの上で目が合った黒猫に引っ掻かれたり、購買で買ったこしあんパンがうぐいすあんだったりと、まだまだ油断はできない日々だったけれど。

 そんなふうに緊張して過ごしていたせいだろうか。一月も終わろうかという金曜日、大学の帰り道に何だかふわふわした気持ちで歩いていて、鈴鹿の事務所がもう間もなく、というところでくらりと目眩めまいがした。

 体がかしいで、制御がかなくてこのままだと地面とわりと強烈なキスをする羽目になるな、みたいなことをのんびりと考えていたら、衝撃が来る前に力強い腕に抱き止められた。

「何やってんの、ナギ?」

 いつも通りの嫌味で呆れた感じと、それにほんの少しだけ気遣うような色がプラスされているような気がするのは僕の気のせいだろうか。何か言おうとして、だけど、ぐっと息が詰まる感じがして、僕の意識は久しぶりにそのまま暗転ブラックアウトしてしまった。



 何かの規則正しい音が聞こえる。それから、がさがさと何かを動かすような音。目を開けると見慣れた天井と、見慣れない器具が見えた。細い棒の先に透明なくだがぶら下げられている。テレビドラマとかでよく見る、点滴だと気づいて、ハッと今度こそはっきり目が覚めた。

「え、一体……?」

「目が覚めた?」

 さらりと流れてきた黒髪と共に覗き込んできた眼鏡をかけた顔は、何だか機嫌が悪そうだった。けれど、その愁眉しゅうびが開かれて、ほっとしたように頬に大きくてやたらと綺麗な手が触れてくる。普段は温かく感じるその手がやけにひんやりと冷たく感じられて、その冷たさが心地よくて思わず目を細めると、覗き込んでいる顔がますます変な感じになって、顔をしかめられた。

「……何? なんか変なこと言った?」

「自分じゃ気づいてないの? 随分熱が高いよ。ねえ、コレ本当に大丈夫なの?」

 振り返った視線の先を追うと、ミリタリーっぽいジャケットにジーンズというラフな格好をした、これまた眼鏡の女の人が目に入った。ずいぶん背が高い。

「少々熱が高いが、呼吸も脈拍も正常。ただの風邪と疲労とか過労とかそんなところだろう。ちゃんと食事は摂らせているのか? お前が保護者なんだろう」

「保護者って……」

「違うのか、恋人? どっちでもいいが、食は生活の基本だ。食べ盛り育ち盛りのこんな子がこれだけ細いのは、いくらお前が柳腰やなぎごしが好みでも——」

「誰が細いのが好きって? 俺の好みはしっかりたっぷりしたタイプだよ」


 ああそんなこと言ってたっけ。っていうかじゃあ、あれは何だったんだろう、とか思ったら、眼鏡の上から覗いた金の眼とばっちり合ってしまって、何となく居心地が悪い。ふっとやけにその顔が甘く緩んで、何かを言いかけたとき、ごほんとわざとらしい咳払いが聞こえた。


「まあ、どちらでも私には関係のないことだが、ちゃんと面倒は見ろ。まだまだ寂しいお年頃だろう。君も、こいつはとことん鈍くて社会性がないから、率直に言わないと伝わらないぞ」

 言いながら、僕の左腕を取って、慣れた仕草で刺さっていた針を抜く。

「え?」

「誰が社会性がないって?」

 針が抜かれた痛みはほとんどなくて、上から適当に絆創膏ばんそうこうみたいなのを貼られた。医師らしき人は、器具をてきぱきと片付けてしまうと、僕らの戸惑いなどお構いなしに、後ろ手に手をひらひらと振って出ていってしまった。


 呆気に取られたままその背中を見守っていると、ぎし、とベッドがきしむ音がして、金色の双眸が近づいてきた。

「ご飯、ちゃんと食べてなかったの?」

「食べてたよ。コンビニ飯とか、学食とかで——まあ、ちょっとバランスは悪かったかもだけど」

 一人で食べる食事が味気ないとかそれだけじゃなくて、食事のことそのものを考えるだけで、心のどこかがざわざわと騒ぐから、あんまり直視したくなかったのもあるかもしれなかった。

 目を逸らした僕の上に、さらりと黒い髪が落ちてくる。眼鏡を外した顔が近づいてきて、ゆっくりと唇が重ねられた。何で、そんなことをしているのかがよくわからなくて、目を開けたまま見つめていると、ほんの少し笑う気配がして、それから急にそのキスが深くなる。何度も角度を変えて、繰り返されるそれに呼吸さえも絡め取られて、思わずその肩をつかむと、ようやく解放される。


「な、何してんの⁉︎」

「必要なのかな、と思って」

 迅はほんの少しだけいつもより柔らかく見える笑みを浮かべる。頬に触れた手は、やっぱり冷たくて気持ちよくて、身じろぎした僕を迅は引き寄せて抱きしめた。

「さすがに、俺の心臓も止まるかと思ったよ」

 笑みを含んだ声は、それでもいつもと違う響きを宿していて、僕の軽口を封じてしまう。この男が、何かを恐れるとか怯えるとか、そんなことは想像もつかなかったのに。

「——僕をなくすのが怖い?」

「怖いよ」

 あんまりにも率直な答えだったから、何か裏とかからかう意図があるんじゃないかと勘繰かんぐってしまったけれど、金色の眼が揺れていたから、僕はもう認めるしかなかった。あの時、自分から手を伸ばしてしまった理由も。

「じゃあ、もう少しそばにいてよ」

 溢れてしまった本音に、今度は迅が目を丸くする。そんなことは一度も思いつかなかった、みたいな顔で。

「僕はこう見えても、両親にずっと大事に育てられたし、父さんもちょっと困った人だけど、夕飯は必ず一緒に食べてた。誕生日もクリスマスも、それなりにちゃんと祝うし、七夕には短冊飾るし、冬至には柚子ゆず買ってきて柚子湯ゆずゆにするし、かぼちゃの煮物も作ってくれるタイプの人だったから」


 だから、そういう一切が失われてしまったことが、僕は結構ずっと寂しかったんだと思う。


 それ以上言うべきことも思いつかなくて、黙り込んだ僕の頭を、大きな手がためらいがちな感じで撫でる。いつも余裕なはずの死神の、そんな仕草はらしくなくて、だからいい加減もう素直になればいいのに、なんて思ってしまった。お互いに。


「本当に、君は——いや、もういいね」


 多分同じことを考えたんだろう。迅は少し体を離すと、僕の左手を取って、中指に何かを滑り込ませた。ぴったりとまったそれは、ちょうどクリスマス前に使用に渡されたそれとよく似た意匠デザインだった。銀色の二つの輪の間に、細い金の輪が挟まっている感じの。けれど、いつものそれとは違って、それはひんやりと冷たい感触がした。

「これ……」

「結局、クリスマスプレゼントも渡せてなかったからね」

 指輪を嵌めた手を取ったまま、迅が猫のように目を細めて悪戯いたずらっぽく笑う。

「本当は、薬指ここにしようと思ったけど、まだ学生だしね。卒業したら、一緒に買いに行こうか」

 まるでプロポーズみたいな言葉に、どこからどう突っ込むべきか考えがまとまらない。戸惑っているうちに、やたらと秀麗なその顔が近づいてきたけれど、流される前に、その口元を手で覆って押しとどめる。

「あんたにとって、僕って何なの?」

「え、あれほど何度も言ったのにわかってなかったの?」

「何度もって……」

 そんなこと言われた記憶がない、と言おうとした口を今度こそ塞がれる。いつかの時みたいに、やたらと執拗に、全然こいつには似合わない情熱的な感じで。

 なのに、離れた後、こちらを見つめる金色は甘さや優しさより、もっと不穏な光を浮かべていた。


「君は俺の共謀者Collaboratorだ。世界でたった一人、俺に力を与えてくれる君を、逃すつもりなんてないからね」


 だから、覚悟しておいてよ、と耳元でそう言う声音は恐ろしげなのに、それでも僕を抱きしめる腕はひどく優しく温かかったから、それが死神ジンの優しい嘘だとわかってしまった。

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死神の逃亡者 橘 紀里 @kiri_tachibana

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