第3話 織田弾正忠家からの密使
1547年 大桑城
冷めた夫婦生活に家中の誰もが慣れ始めたとある夏の日の夜。
大桑城の廊下をただ2人で歩く者がいた。昨年、美濃守護となり、大桑城主となった土岐頼純の正室、帰蝶とその侍女である。
しかし守護家当主の正室であるというのに、連れているのは1人の侍女のみ。
その様が尋常なく異常な光景であることを、最早誰も気にしてはいなかった。
「夜分に寝所を出られるのはあまり感心出来ることではありません」
「この城で私を気にする者は誰もいないでしょう。まるで私の存在そのものが消されているかのように」
「だからといって、もしもの事があれば・・・」
侍女は心配げに言うが、帰蝶はとくだんそれを気にとめた様子は無い。むしろそのことを良しとし、夜中にもかかわらず自由に歩き回る有様であったのだ。
「それにしてもさすが山の上の城。夏でも涼しいですね」
「いくら夏とはいえ、こうも風が強ければ体調を崩しかねません。やはり寝所にお戻りになりませんか?」
「・・・わかりました。もう少し歩いてから戻りましょう」
「姫様~・・・」
連れ回される侍女はたまったものではないだろうが、それでも帰蝶にはそうしないといけない理由があったのだ。
歩くことしばらく。2人の視線の先に、ぼんやりと灯がともる部屋があった。ろうそくの火が揺れているのであろう。影が揺らめき、中の様子も曖昧にしかわからない。
部屋の中には数人。誰かがいるようで、何やら小さな声で話している様子であった。残念だが2人のいる位置からはその内容まで聞き取ることは出来なきない。
帰蝶は侍女の手を引き、その隣の部屋へと忍び込む。驚き、身体を硬直させた侍女。それをお構いなしとし、人がいるであろう部屋へと聞き耳を立てる帰蝶。
『我が殿は美濃国において土岐家の完全なる復権を成すために兵を挙げる準備がございます。そしてこのこと、朝倉弾正左衛門尉殿もご存じである。我らの挙兵と時を同じくして越前より兵をお出しになりましょう』
『貴殿は我らに何を望まれる』
『この城に、土岐美濃守様を慕う者らを集めて斎藤新九郎をおびき寄せていただきたい。その隙を突き、我ら織田勢が迅速に稲葉山城を攻め獲りましょう。また朝倉の兵も西より美濃へと進入する手はず。おびき寄せるといっても斎藤勢は兵を分散させねばなりませぬ。そこまで大きな負担を強いることにもならぬでしょう』
帰蝶にとっては驚きの会話であったに違いない。だが今年13になるこの娘は、声を出さず、ただひたすらに話を聞いていた。
すでに部屋へ引き込まれた侍女は涙目である。あの包みの中身を知っていたところで、ある程度帰蝶の本当の任を知っていたであろう者の1人ではあるが、まだ帰蝶と年も変わらぬ娘。
そして帰蝶のような厳しい環境で育ったわけではない。極限の状況で怯えてしまうのもまた無理はないのだ。
『勝てるのであろうな?我らは新九郎殿と和睦をしている身なのだ。迂闊なことをして御家を滅ぼしたくはないぞ』
『勝算あってのこと。でなければ危険を冒して、敵地に潜り込みはしませぬ』
新九郎とは利政のことである。
約1年前の和睦と、頼純・帰蝶の婚姻。当時こそ警戒心を抱いていた土岐家の家臣らであったが、今日まで問題なく生活出来たことで未だ稲葉山城にて権勢をふるう利政への敵視は日に日に弱まっていたのだ。
だがそんな家臣らに対して、ただ黙して密使の言葉を聞いている者もいた。それが頼純である。
『叔父上にも当然話がいっているのであろうな』
『はい。左京大夫様にはすでに快諾していただいており、ことが起きれば真っ先にこの城へと入城されることとなっております。当然美濃守様のお心次第にございますが』
長考すると思われた。土岐家の今後の存亡を決める非常に大きな決断である。
固唾を呑んで見守る家臣ら。だが、その決断に至るまでの時間は、誰が思うよりも短かった。
『俺は織田弾正忠の提案に乗る。そちらが兵を挙げる時期に合わせて、大桑城にも兵を集め、斎藤新九郎へ攻めかかろう』
『殿!?』
『真によろしいのでございますか!?』
再度考えるよう慌てる家臣らであるが、すでに頼純の決心は固く誰の言葉でも引き留めることは出来ない。
そしてその決心を見届けたのは、隣の部屋より盗み聞きしていた帰蝶もまた同様であった。
「戻りましょう」
「・・・よろしいのでしょうか?」
「構いません。ですが決して勘づかれぬようにするのですよ」
静かに襖を開けて、2人は寝所へと急ぐ。
その後、すぐに寝所の前に誰かが通る足音が鳴り響いた。中を覗きこそしないが、帰蝶の様子を確認しに来たことは一目瞭然であり、土岐家がついに斎藤家の討伐に舵をきったことを確定づけたのだ。
人がいなくなったことを確認した帰蝶は、自身の嫁入り道具の中にあるとある物を取り出した。これは父、利政より託された誰にも知られてはいけない道具の1つ。
「明日、この笛を使います。文を書きたいので支度をお願いします」
「かしこまりました」
月夜に照らされた侍女の頬は赤く腫れていた。うっすらと両頬に紅葉の痕が残っている。
おそらく帰蝶の堂々たる姿を見て、自身に鞭を打ったのであろう。
その頬に優しく触れる帰蝶。
「あなたをこのような危険に巻き込んで申し訳ないと思っているの。でももう少しだけ我慢してください」
「・・・姫様。何があっても一生側にお仕えいたします。ですからそのような事、言わないでください」
基本的に帰蝶から発される言葉は感情が、そして抑揚がない声である。しかし身近にいる者であればわずかな変化に気がつくこともあるのであろう。
侍女は帰蝶の変化に気がついていた。
その声色は、最早これまでと同じではいられないという、侍女と同じように覚悟を決めたものであったのだ。
この未だ幼い2人の少女に斎藤家の未来は託された。
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