第9話 暗殺未遂
1553年 那古屋城
「あなたは先に美濃へと逃げていなさい」
「・・・姫様と共に参るわけにはいかないのですか?」
「いきません。殿は土岐家の時とは違います。万が一失敗したとき、あなたまで巻き込むわけには生きません」
帰蝶の手には、美濃にいる父利政からの文が握りしめられている。内容を読んですぐに、侍女を側へと呼び寄せこのような事を言い始めた。
侍女としても、これから何が起きるのかなど分かっている。土岐頼純を暗殺した際にも、側に仕えていたのであるから当然だ。
「私は殿より姫様の側へと着くよう命じられてから、ずっと覚悟を決めておりました。最後まで姫様のお側から離れません」
「だとしてもです。今の私では必ず成功させることが出来るのか分からないのです。ですからあなただけでも逃げなさい」
侍女の言葉に帰蝶は一歩も引かない。だが侍女としても引くわけにはいかなかった。長年側に付き従ってきた侍女からすれば、もう主と侍女だけの関係では無くなっていると理解しているのだ。
織田弾正忠家の人間に怪しまれないよう、静かに、だが確かに譲れない戦いが起きている。先に折れたのは、周囲に人の気配を感じ取った帰蝶であった。
侍女も誰かの足音に気がついて、いつもの距離感まで離れる。襖は突如として開けられ、不機嫌そうな表情の信長が入ってきた。帰蝶は侍女共々頭を下げる。
「如何されたのですか?そのような不機嫌そうなお顔をされて」
「勘十郎の愚行が目立つのだ。あれは弾正忠家の当主である俺を無視して、勝手な行いを幾度もしておる。許してはおけぬが、今は戦うわけにはいかぬ」
信秀は死に際して後継者を明言していなかったために、兄弟で家督相続で争うこととなったのだ。そんな信行であるが、うつけと呼ばれていた信長とは正反対の人となりであり、家臣の信頼も勝ち取っており多くの重臣が信行に従っていた。
柴田勝家や林秀貞など、後世で信長の家臣として有名になる2人も元は信行を支持していたのだ。
このとき信長は上総守を名乗っていたのだが、信行は弾正忠と名乗っている。弾正忠とは、織田弾正忠家の当主が代々名乗ってきたものであり、信行は自身こそが正式な後継者であることを主張していた。
「守護代である大和守様との戦も続いているからにございますか?」
「その通りだ。南北を敵にして戦をすれば負ける。舅殿に頼るという手もあるが・・・。あまり外の人間の手を借りたくは無い。自国の問題を自力で解決出来ぬようであれば、俺はこれ以上何も成せぬ」
「御父上様には何も言わない方が良いでしょうか?」
「余計なことは伝えずとも良い。舅殿に頼るとき、それはおそらくよほどのときであろう」
信長は再び面白くなさそうな顔をすると、帰蝶の膝へと頭を預けた。帰蝶も最早慣れたものであるかのように受け入れる。
侍女が帰蝶だけを残して美濃へ帰られぬのは、この様子も原因であるのかも知れない。帰蝶にとって信長より与えられた問いの答えは、もう随分と出ているようなのだ。信長もそんな帰蝶を日に日に信頼し、側へ置くようになった。
そんな帰蝶に命じられた信長の暗殺。今までは人を刺すことに何の躊躇いも無かったが、今の帰蝶に命令を実行することが出来るのか。それが侍女には全く見えない。
「俺は近く叔父と共に清洲織田家を滅ぼすつもりでいる。そうなれば次は岩倉織田家か、それとも弾正忠家を割る元凶か。いずれにしても上手くやれば、俺も1国の主となるであろう。期待しておれよ、帰蝶」
「楽しみにございます。殿が目指す天下を私も見とうございますので」
「天下、か。酒の席での戯言であると笑わぬのであるな」
「何故笑うのですか?殿ならばきっと出来ましょう。願わくば、私も殿が築く世を見とうございます」
「ならば俺に着いてくるのだ。刻はない故、待てぬぞ」
信長は笑いながら帰蝶へと言った。帰蝶も顔は笑っていた。楽しそうに。
かつて美濃にいた、無表情でただ父の命を聞くだけの帰蝶はそこにはいない。1人の男に惚れ、側に居続けたいと願う1人の娘がそこにいるのだ。
だがその幸せな時間はそう長くは続かない。今まさに侍女が隠している密書とも呼べるそれは、帰蝶に決断を迫っている。信長を殺すのか、はたまた。
時間は進み夜となる。
結局侍女は残ることとなった。帰蝶がどれだけ言おうとも、決して側を離れないと言いきったのだ。帰蝶としても、侍女との押し問答にそう時間をかけることは出来ない。直に信長はいつものように寝所へとやってくるであろう。
侍女は逃げる支度をすませて、与えられた部屋で帰蝶が朗報を持ってくる時を待つことに。
「すまぬ、今日はどうしても眠たいのだ。先に布団に入っているぞ」
特に何かを仕掛けたわけでは無い。かつてのように。
だが信長の多忙ぶりを考えればそれもまた仕方が無いのかもしれない。信長を含む権力争いは、織田と名のつく多くの家を巻き込んで起きているのだ。このような日があったとしても不思議では無かった。
「私もすぐに参ります」
「待っている」
それだけ言うと、部屋の奥へと信長は消えていく。帰蝶は予め用意していた小刀を隠し持ち後を追った。
この小刀、かつて頼純を殺した際に用いた物である。今回も嫁入り道具の中に忍ばせていたのだ。
「お待たせいたしました。・・・殿?」
部屋に入った帰蝶であったが、信長からの返事は無い。だが確かに布団は膨れており、その中に信長がいるであろう事も予測出来る。
帰蝶は部屋へと入る前、わずかに躊躇った。隠していた小刀が見られる心配が無くなったと、懐より持ち出すと、胸の前に手をやって軽く息を整える。
頼純を殺したとき、このように複雑そうな表情をしていたであろうか。泣きそうな顔をしていたであろうか。
帰蝶も内心ではきっとグチャグチャになっていたであろう。それでも長年受けた教育が身体から抜け落ちることは無かった。
利政より下された命は絶対である。父が望むように動くことこそが、子である帰蝶の役目であるのだ。義兄であった正義はそれをしなかった為に死んだ。そう何度も自身へと言い聞かせた。
「殿?もうお休みになられたのですか?」
呼びかける声は小さく、決して起こさないように側へと静かに近づく。布団の傍らに膝をついてもう一度軽く呼びかけた。
「殿?」
しかしいっこうに信長からの返事は無い。これで寝ていると確信した帰蝶は、手にしていた小刀を大きく振り上げた。
心臓の鼓動が大きく響き渡るのは何故か。命を達成出来る安心感か、それとも・・・。
「・・・ごめんなさい」
小さく吐き出された声と共に小刀を振り下ろす。おそらく胸のあたりへとまっすぐに。
「何故・・・」
しかし突き刺した感触は、かつて頼純を刺したときとは全く異なっていた。困惑した帰蝶であるが、与えられた任が失敗したのだとも瞬間的に気がつく。
目には溢れんばかりの涙があり、ただ一心不乱に布団を突き刺していた。
「俺を何度殺した?」
「・・・7度ほど」
「満足したか?」
「・・・いえ」
開いた襖に寄りかかるように信長は帰蝶の荒れた様を見下ろしている。その目には怒りなど一切無く、ただ興味だけがあるように見えた。
「何故満足せぬ。俺を殺すことが出来なかったからか?舅殿の命を全う出来なかったからか?それとも」
信長は気がついている。初めて心の内をこじ開けられる感覚に帰蝶は混乱した。結果手にしていた小刀を自身へと向けたのだ。
その手は震えており、顔には涙の跡が鮮明なほどに残っていた。
「私は殿を殺そうとしました。しかし御父上様は関係ありません。私が独断でっ」
「ならば何故涙を流している。俺の目は決して節穴では無いぞ。帰蝶、お前の本心などとっくのとうに見破っていたわ。お前はもう舅殿に縛られずとも良いのだ」
「縛られる・・・」
「自由に生きよ、俺のようにな」
信長は自然なままに帰蝶に近づき、そして首筋に当てていた小刀を奪い取った。だがその一連の動きに乱暴な様子は無く、わずか前に自身の命を奪おうとした者に対してする表情でも無い。
帰蝶は困惑していたが、信長は笑っていた。
「言っていたであろう?俺の天下が見たいと、な。見せてやる、そのようなつまらぬ縄に縛られて舅殿しか見えぬ世界から、俺が天下一の景色が見える場所へと連れて行ってやるわ。故に死のうなどするな、俺に対する遠慮もいらぬ。これまで通りでよい」
「・・・本当によろしいのでございますか?また命を狙うかも知れないのですよ?」
「狙うのか?また俺をこれで刺すか?」
信長は手にしていた小刀の柄を帰蝶へと差し出した。だがそれを帰蝶は受け取ろうとはしない。
わずかに首を振るばかりであった。
「ならば良い。今日よりお前は生まれ変わるのだ。それと舅殿への手紙は俺が一筆書いてやる。帰蝶が責められぬようにな」
数日後、信長からの書状を受け取った利政は大笑いしたと言われている。役立つ道具として大事に育てた帰蝶ですら、どうにもならなかったのだ。最早信長の暗殺など意味の無い行いはしないと決めたらしい。
これより利政は信長のよき理解者として、そして美濃一国を治める同盟者としての立場を表明していく。
未だ尾張のいち領主である織田信長と、その妻帰蝶のために。
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