第10話 大輪の花(完)
1556年 清洲城
「左近大夫様より急ぎの文を預かって参りました!」
「舅殿からか?急ぎとは・・・、いったい何があった」
「全てはこちらをお読みくだされ」
利政は一昨年に当主の座を嫡男であった義龍へと譲っている。その際に剃髪し道三と号し稲葉山城より鷲山城へと隠居していたのだ。
この当主交代、道三の意思で行われたものでは無い。道三の統治者としての、主としての力量を家臣らが認めなかったために強制的に行われたものであった。その影響もあるのであろう。
道三は跡を継いだ義龍を廃嫡し、同腹の弟である孫四郎を当主に付けようと画策したのだ。他、同じく弟に喜平次という者もいたのだが、両名に対する道三の寵愛は凄まじく、義龍も自身の立場が安全なものでは無いと判断する。
結果として1555年、2人を稲葉山城へとおびき出すと義龍の家臣である日根野弘就によって殺害された。以降道三と義龍との関係は悪化の一途をたどっている。
そしてそのことを尾張の信長も、そして帰蝶も聞き及んでいるのだ。
「舅殿はいったい何を俺に・・・」
信長は使者より預かった文を読む。思ったよりも長くしたためられた文、信長は一言一句見落とさぬようにゆっくり、丁寧に読み進める。
だが顔色があまり良くない。焦りのようなものが見えた。それは帰蝶にも同様に映ったらしい。
「殿?御父上様はなんと?」
「・・・美濃を俺に譲ると言っておる。美濃守に美濃一国は荷が重いとな」
「御父上様と兄上様の関係はそこまで冷え切っているのですか?」
「俺が思うに、最早関係が良好となることは無い」
信長はそのまま文を読み進めた。
すでに道三に味方する者は少なく、小見の方の実家である明智家他少数しかいない状況に置かれていた。有力な家臣らは多くが義龍に味方し、後の美濃三人衆と呼ばれる者達も義龍へと味方している。また旧土岐家の家臣らも、道三による国盗りの経緯もありほとんどが義龍に味方していた。
そのような状況において、両者が手を取り合う日が来るなどあり得ない話である。
「殿!急ぎお報せしたきことがございます!」
「如何したのだ?」
「はっ!美濃国境を監視していた者より、美濃内で戦の兆候を感じたとのこと。斎藤美濃守様が挙兵されました!目指す先には大桑城がございます!!」
帰蝶は道三の文で知っていた。義龍との関係悪化を決定づけた弟達の殺害の後、道三は大桑城へと逃げ込んでいたということを。そして兄義龍が兵を向けているのは、その大桑城であるということの意味がすぐさま分かってしまう。
「舅殿の文はそういうことであったか。俺に美濃を獲れと言うのだな」
「・・・御父上様はどうなるのでしょう」
「知れたこと。舅殿がその生を全うした後に、俺が美濃全てを譲り受ける。俺は舅殿の援軍に向かうぞ」
「しかしそれはあまりに危険にございます!今の兄上様に兵を向けるということは、美濃全てを敵に回すことと同じにございます!今は待ち、隙を狙うほかございません!」
帰蝶にとってその発言は、長く依存していた父道三を見捨ているということである。それが果たしてどのような感情の元で口から発されたのかは分からない。しかしその叫びすらも、信長は笑い、そして拒絶する。
「いつまで経っても帰蝶は本心を隠す。かつては舅殿に忠実であった結果、己を殺していたな。次は俺を慕うあまり本心を見失っているぞ」
「違います!私は殿に死んで欲しくない!それだけにございます」
「それで舅殿が死んでも悔いは無いと申すか?それが貴様の本心か!?」
珍しく声を荒げた帰蝶に、侍女は初めてみたと驚きの表情をしていた。だが帰蝶とて譲れないことはある。
これは道三から帰蝶に命じられた最後の命であるのだ。
信長を親子喧嘩に巻き込まないように、と。今はまだその時では無いが、いずれ信長が美濃全域を支配する時が来る。それまで抑えるように、と。
帰蝶にとってそれがどれだけ重くのしかかる決断であるのかなど、やはりこれまでの人生を追ってみれば理解はできる。その身にかかる負担などは想像に絶するほどであろうが。
「改めて問う。舅殿を見捨てて、俺に美濃を拾えと申すのだな?それが本心であると」
「本心にございます。私はあなた様に許されたあの日より、本当の自分に気がついたのです・・・」
「・・・もう良い。俺が戻るまでにその顔をどうにかしておれ」
信長は側にいた者たちに出陣を命じて部屋を後にした。足音すらも聞こえなくなった頃、帰蝶は畳へと崩れ落ちる。
侍女は慌てて側へと近寄るが、帰蝶はそれを拒絶した。
「今の私は酷い顔をしているのだそうです。いくらあなたであるとはいえ、人に見せるものではありません。私は大丈夫ですから離れてください・・・」
「そうは参りません!どうか私にもその重荷を分けてください。これまで一緒に渡り歩いてきた私を少しは信じてください」
侍女は拒絶されても、帰蝶に手を差し伸べた。しばらくそのままであったが、ようやく観念したのか帰蝶は顔を隠していた手を侍女へと向けた。
起こされたことで、信長に指摘されていた顔が露わとなる。侍女は何も言わなかった。
「今の私、どのような顔をしていますか?実の父を見殺しにしようとしている醜い女の顔をしているでしょうか?そのような者、殿に嫌われてしまいます」
「・・・姫様はそのような御方ではございません。私は知っています」
「では今の私は・・・」
侍女は何も言わずに帰蝶を抱きしめた。
帰蝶自身は種類の違う2つの愛を抱いている者達に挟まれ、それが結果辛い決断を迫られることとなっている。侍女も信長もそれを見抜いていた。
それからどれだけが経ったであろうか。
美濃へと兵を出していた信長が戻ったと報せがあった。それからすぐに甲冑姿のままの信長が帰蝶の下へとやってくる。甲冑には無数の傷があり、壮絶な戦であったことも容易に想像がつく。
信長の表情は申し訳なさげなものであり、いつもの姿はそこにはいない。
「舅殿は死んだ。俺がもう少し兵をまとめ上げられていれば・・・。背後に敵を抱えていなければ・・・」
守護代の一角である清洲織田家はすでに滅んでいる。だが依然として岩倉織田家は健在であり、急速に勢力を拡大している弾正忠家を敵視していた。
さらに信行との対立も深くなるばかりで、道三同様に信長の味方は決して多いとは言えない。そんな中での強行した出兵は、思った以上に厳しいものとなる。信長の耳に道三の死が報されたとき、道三を討った義龍に攻められている最中であったのだ。
弾正忠家もまた、少なくは無い被害を出して撤退することとなった。つまるところ、信長はこの戦で何も得ることが出来なかったのだ。
そしてその結果さらに家中の分裂を進め、岩倉織田家に攻撃を許す事態にまで発展した。
「すまぬ。あれだけ大見得切ったというのに」
「良いのです。御父上様のご意志は、きっと殿が継いでくださるはず」
数日かけてどうにか平常心を取り戻した帰蝶であったが、やはり信長から事実を告げられると辛そうな表情をした。
それでも愛する人が無事に戻ってきたということに安堵の感情もある。
「しばらくは弔い合戦は出来ぬ。やはりまずは足場を固めねば・・・。それからになるが良いだろうか?」
「良いも何も・・・。私はあなた様についていくと決めたのです。それをきっと御父上様も望まれているはず。あなた様は私に見せてくれるのでしょう?天下一の景色を」
「・・・そうであったな。今は悲嘆している場合では無いか」
帰蝶からこのような言葉が聞ける日が来るなど誰も思っていなかったであろう。いや、知っている者はいたのかもしれない。帰蝶の母である小見の方。そして義兄である正義。
そんな数少なかった帰蝶の理解者は、知らぬ間に増えていた。
そして帰蝶にとって依存では無い、支え合える大きな花を見つけたのかも知れない。信長という大輪の花を。
その後、信長は帰蝶と共に歩を進める。道三の死を共に乗り越えた2人は、尾張を統一し、ついには美濃にまで手を伸ばした。仇である義龍はすでにこの世の者では無くなっていたが、ようやく2人は道三を供養することが出来たのだ。
これから2人がどのような生き様を見せるのか、道三もきっと黄泉の国より見ていることであろう。
fin
蝶の生きる道 楼那 @runa-mond
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