第7話 織田上総守信長による変化

 1549年 那古野城


 信長の元に嫁いで1年が経った。信長は輿入れ当時に宣言したとおり、未だ自分の本心を見つけられぬ帰蝶に心を許すことは無く、ただ仮初めの夫婦を演じている。

 そんなある日のことであった。


「殿?毎夜毎夜どちらに参られているのです?」

「何だ、気がついていたのか」


 寝所にて同衾する支度をしていた信長に、帰蝶は声をかけた。信長は支度を進めながらも帰蝶へと返事をする。


「気がついたのはずっと前のことにございます。ですがそれ以降も、殿は毎夜私が寝静まった頃にどこかへ向かわれている様子。もし私以外に想いを寄せる御方がいるのであれば、私のことなどお気になさらず堂々と向かっていただいても構わないのですが・・・」

「先に言っておくが女子の元に向かっているわけでは無い」


 帰蝶の心配、それは全く信長が手を出さない事である。先にも言ったとおり、信長は家臣の前でこそ夫婦であることを演じてはいるが、帰蝶と2人となるとそれとなく距離を取っていたのだ。

 それは夫婦の営みという点でも同じである。

 1人目の夫であった頼純は、未だ幼く、そして信用出来ぬ男の娘であることから帰蝶に近づくことを基本的にしなかった。

 だが信長は帰蝶を妻として一応は認めているのだ。そうなると帰蝶が負うべき義務が発生する。それは織田家の世継ぎを産むこと。

 しかしその様子が無いどころか、夜な夜な信長は帰蝶の目を盗んでどこかへと向かっている。帰蝶がそう心配することも無理は無いのだ。


「では一体どちらに?あのような時間に向かわれる場所など・・・」

「女子の元では無いとすればどこに行くと思う?」

「この時間であれば密談には最適にございます。御父上様も似たようなところがございました」


 信長は僅かに口角を上げて頷いた。しかし帰蝶にとってそれ以上は踏み込むことが許されない場所。

 政に首を突っ込むべきではないことなどきちんと自信の置かれている状況を弁えている。ましてや織田家の政や密談になど口を挟む余地が無いことなど端から分かっている。


「そうだったのですね」

「なんだ?安心したような顔をして。俺が女子の元へ通うことに妬いたのか?」

「妬いた、にございますか?」


 その問いにすぐ答えられなかった。帰蝶の中で『妬く』という感情がどういうものであるのかがよくわからないからだ。

 まさしくそれが返答に詰まった原因であるのだろう。


「・・・まぁよい。最近の努力は認めてやろう。随分と考えておるようであるしな。俺が話しかけているというのに、返事もせずただひたすらに口から言葉が漏れている日まであるのだぞ」

「・・・まことにございますか?」

「まことだ。その時の呆けた顔は随分と俺を和ませる」


 どのような間の抜けた顔をしていたのであろう。急に恥ずかしくなった帰蝶は下を向いて顔を隠してしまった。

 だがそれすらも信長からすれば良い反応であるのであろう。帰蝶が目を開けたとき、覗き込むように腰をかがめる信長がいた。

 思わず小さな悲鳴を上げた帰蝶を見た信長はまた笑い声を上げる。


「随分と普通になったものだ。まだあの日の面影はあるものの、俺は今のお前の方が好きである。今後も己を見つけられるよう励むが良い」

「は、はぁ・・・」

「それと先ほどの話であるがな、俺はとある男らの報せを待っていたのだ」

「報せにございますか?殿方からの?」

「春日と堀田という男を知っているか?」

「春日、堀田・・・」


 その者ら、利政の家老の名であった。それも尾張と美濃の国境を任されている、それなりに利政の信頼厚き2人。


「あの者らが織田に寝返りたいと申してきたのだ。故に斎藤をかき乱すことが出来るのであれば、俺の配下となることを認めると返事をしてやったのだ」

「あの2人が御父上様を裏切られるのですか?」

「そういうことなのだろうな。舅殿のやり方について行けぬと申しておったぞ」


 帰蝶の布団を握る手は知らずの間に強くなっている。

 信長もそれに気がつかなかったわけでは無いであろうが、特に何か言うわけでも無くその後も話を続けていた。

 だがおそらくであるが、帰蝶にその言葉は届いていない。


 翌日、帰蝶は美濃へと文を書いていた。土岐家の頃と違い、信長からの言いつけであるのか、文の中身を確認されず正面から利政に届けることが認められている。

 故に帰蝶はいつもと変わらない様子で、昨夜の会話の内容をそのまま利政へと伝えた。

 だがよく考えればわかったことだ。

 信長は未だ帰蝶を完全に認めていない。信長を取り巻く環境が故に信用出来ぬ者を近づけたくないとのことであった。

 そんな信長が家中の重要な用件を帰蝶に軽々しく話すであろうか。しかし怒りにまかせた帰蝶にはそのことに気がつけなかった。


 後日、利政は帰蝶より密告のあった両名を殺害している。罪状は謀反の兆候があったためである。

 またそれと同時に、正義を殺した頼興も利政に対する忠義者として広く知れ渡った。帰蝶を大事に想い、本当の妹のように可愛がっていた正義もこれよりは謀反を企んだ者としての汚名を被ることとなったのだ。

 だが正義の暗殺に関しては、全て利政の美濃統治が捗るための策であるなど誰も知らぬままに。




 1551年 萬松寺ばんしょうじ


「このような場所にいらっしゃったのですね?五郎左衛門が探しておりましたよ?」

「放っておけ。親父殿の葬儀など、弟が出れば十分である」

「そのようなこと・・・。義父様は最期まで殿のことを気にされていたとみなから聞いています。きっと悲しまれましょう」

「どうであろうな。それに俺は親父殿が纏められた今川との和睦案を反対したことで、随分と俺の側から家臣らが離れた。最早俺に家中をまとめ上げる力は無い」


 今川との和睦案。それは信秀が死期を悟った結果、他国を巻き込んで練り上げた1つ渾身の策であった。

 だが信長にはとある懸念があったのだ。

 それはその和睦の仲介に、利政を敵視している近江の六角定頼が関与するということ。帰蝶のこともあり、信長はすぐさまその和睦案に反対した。家中はその行動を「またうつけが何か言っている」とそのように捉えたのだ。

 結果として、弟である織田信行を次期当主へと支持する者が増え、信長の元には僅かな者しか残っていない。今置かれている状況はまさにそこである。


「御父上様は感激されておりました。良い男の元へ私を嫁がせたと」

「いっそのことお前を連れて美濃へと行っても良いかもしれんな。どう思うか?」


 いつになく弱気な信長の姿に、帰蝶はまた心の臓が揺れる気持ちになる。織田へ嫁いできてからもう3年になる。帰蝶本人は原因不明の症状に毎回困惑していた。

 そんな姿もまた、信長のお気に入りであることなど知らずに。


「六角弾正少弼など尾張に関与させるべきで無いということが何故誰にも分からぬのであろうな。織田がこれ以上に大きくなる以上、近江を制する六角の存在など邪魔なだけであろうに」

「私は殿と共にいることが出来ればそれで満足にございますが、殿が思うがままに織田を大きくしていく様も見とうございます」

「・・・そう考えているのは帰蝶だけかもしれんぞ」

「私と御父上様は殿の味方にございます。未だ嫡子のお立場は殿のもの。諦めるのは早いのでは?」


 ちなみに帰蝶の言葉にあった「利政も味方」というのは半分事実であった。信長が反対したという和睦案、利政も気になっていた一件であったのだ。

 織田弾正忠家が同盟国となった以上、利政が目指すは西。つまり近江なのだ。利政にとってみれば、近江の六角が織田と懇意になることはまるで望まぬ事である。


「帰蝶、お前はかつて俺を裏切ったことがあったな」

「・・・気がつけば御父上様に密告をしておりました。手にかけられていないことが今でも不思議に思います」

「あれは全て俺が思い描いたとおりであった。帰蝶の行動を読んだ上で俺は巻き込んだのだ。そう言えば納得出来るか?」

「・・・無茶なことをされる御方であることは、わずかな夫婦生活からも知っております。もしあれが殿の手の平の上であったといわれるのであれば、私は疑うことをしないでしょう」

「そうか・・・」


 そんなとき、遠くの方から困り果てた様子の政秀の声が響いてきた。帰蝶は河原に寝転がる信長の隣から立ち上がると、政秀へと手を振る。

 それが信長の望んだ行動であったのかは不明であるが、信長の表情は当初より幾分かマシになっていた。輿入れ当時ただの操り人形であった帰蝶を思えば、これは大きな成長であるとしかいいようが無い。

 間違いなく変えたのは信長であった。その信長は政秀に説得され、信秀の葬儀へと向かう。

 その後は知っているであろう。例の位牌に抹香を投げつけた事件へと繋がる。

 だが信長はこの日より、うつけと呼ばれた行動の一切を改めた。認めぬ家臣は未だ多かったが、これより勢力を拡大する織田家の大きな一歩となったことに違いは無い。

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