第7話
町まで戻ってきてしまった。バケモノは追いかけてこなかったのか、今はいない。少し安心する。目に入る風景がどれも見慣れたものばかり。家並み、駐車場に止まっている車、いつもの川、それに架かる橋、名前の知らない街路樹。帰って来たことを実感する。朝が近いのか、もうはっきりと街並みを見渡すことができる。まだ起きていない静かで新鮮な町。まるで町を独り占めしている気分になった。
声が聞こえる。うっすら聞こえる僕を呼んでいる声。母さん?僕は声のする方へ足音を立てないように近づいて行った。
「ミナト、どこにいるの?ミナト、出てきて・・・。お願い・・・。」
黄色いカッパを着たお母さんが消え入りそうな声で僕を呼んでいる。僕はとっさに電柱の陰に身を隠した。出ていく訳にはいかなかった。まだあのバケモノがいる。きっと何処かで僕のことを探している。今はもう雨は止んでいる。カッパを着ているということは、いったい何時からああして僕のことを探しているんだろう?雨が降っていた昨日の夜からずっと探してくれているんだろうか?
「マイコ!」
父さんだ。父さんもいる。
「マイコ、もう帰ろう。もうフラフラじゃないか。一度帰って体を温めなきゃ、倒れてしまうぞ。」
お母さんの腕を引っ張る。
「いや、いやよ。ミナトを見つけなきゃ。」
掴まれた腕を振りほどいて進もうとしている。
「あの子を見つけてあげなきゃ。・・・だって私のせいなの。あの子が出ていったのは私のせいなのよ。あの子に冷たくした。冷たくしちゃダメだってわかっているけど、ユウイチが溺れたのはミナトのせいだって、心の何処かで、心の奥底で思っているのをあの子は感じ取ったのよ。・・・あの子は敏感な子だから。人よりもいろんなこと感じているから。」
「君は、ミナトに冷たくなんてしていない!君が自分の子供にそんなことする訳ないじゃないか!」
「でも思ったの。確かに私思ってしまったの。ミナトせいじゃないかって。ユウイチが溺れたのはミナトのせいじゃないかって・・・。一瞬だけど思ってしまったの。すぐに打ち消そうとした。でも一回でもそう思った記憶は私の中にずっとある。消えないのよ、その記憶は。そんなことない、そんなことない、ミナトは悪くないって思っても、消えないの。どうしても消えないの。ダメな母親よ。私はダメな母親なの。」
「そんなことないよ。君は二人にとってとても素晴らしい母親だよ。君と話しているとき子どもたちはいつも笑顔じゃないか。僕が三人を思い出すときはいつも笑っている顔だよ。その笑顔は君が作ってるんだ。だから君が家に居なきゃ。待ってなきゃ。ミナトが帰って来た時に君が家にいて『おかえり』って言って抱きしめてあげなきゃ。大事なんだって。ユウイチもミナトも同じように大事なんだって。今、家には誰もいないよ。もし今帰って来てたらどうする?な、帰ろう。きっと帰ってくるから。ミナトはきっと帰ってくる。信じて待ってようよ。」
隠れて聞いていた僕はもう涙でボロボロだった。知らない間にお母さんをあんなにも傷つけていた。今すぐ飛び出したい気持ちでいっぱいだ。ごめんって謝りたかった。でもダメだって思った。僕が居たら、僕のせいでまたお母さんを傷つけてしまうかも知れない。僕はもう一生家に帰らない方がいいのかも知れない。ここまで帰って来てしまったけど、これからどうしたらいいんだろう?
僕は両親の居た場所とは反対方向にとぼとぼと歩き出した。
また、パラパラと雨が降り出してきた。ほんとにずっと降ったり止んだりの天気だ。身も心も灰色になってしましそうだ。
気が付くとぺんぎんクリニックの前まで来ていた。またここで雨宿りだ。駐車場に入ってちょっと疲れたのもあって座り込んだ。両膝を抱え俯き丸まった。蟻がいた。一匹だけ。仲間とはぐれたのか、一匹で歩いている。どこに向かうかもわからないように。まるで僕みたいだ。一人はぐれて何処へ向かえばいいのか、どうすればいいのかわからずに右往左往している。蟻はひと時もじっとせず動いていた。とにかく動いていた。いや違うか。この蟻は動いている。僕とは違う。僕はただこうして蹲っているだけだ。この蟻はえらい。僕なんかよりはるかに立派だ。
ボクナンカ ボクノイバショナンカ ドコニモナイノカモシレナイ
「ミナト・・君?」
顔を上げるとアオイ先生がいた。
「ミナト君!大丈夫?怪我とかない?みんな心配してたのよ。いったい今まで何処にいたの?みんなあなたのこと探してたのよ。」
しゃがみこんで僕のことを両手でさすりながら僕の顔を覗き込んでいる。隣にはユウちゃんもいた。ユウちゃんも一緒に僕のこと探してくれてたんだろうか?
「とにかく入って。親御さんに連絡しなくちゃ。」
アオイ先生は僕の両肩を持って、ゆっくりと階段を上がっていった。僕は力なくそれに従う。
扉をあけて中に入り、僕をいつもの丸テーブルのある椅子に座らせる。
「今連絡するから、ちょっと待っててね。」
僕は俯きがちに座ってたけど、気配でユウちゃんが心配そうに僕のことを見てくれているのがわかった。
「え?ミナト・・・く・ん・?」
アオイ先生が僕の名前を呼んだ。いや違う。僕を呼んでるんじゃない。顔を上げてアオイ先生を見る。アオイ先生は窓の外を見ている。大きく目を開いて困惑したような表情。僕も窓の外を見てみる。
「ひゃっ。」
ユウちゃんが声にならないような悲鳴を上げる。
何だあれは?
バケモノがいた。川に中にあのバケモノが。でも今まで見たのとは全く違う。でかい。とにかくでかい。このぺんぎんクリニックの建物と同じくらいにでかい。水のバケモノ。全身が水で出来ている。足が六本。いや八本か?黒い目と赤い口。まるで獣か虫のように這うようにして歩いている。こっちを見た。僕を見つけた。
バケモノは大きく吠えた。
「グォオオオオオ!」
まるで大きな滝のような声。どこかで聞いた。そうだ。あれはダムの放流だ。一度クラスのみんなで見学に行ったときに聞いた、ダムの放流の音。森全体に轟く、他の音がすべてかき消されるような豪快な音。
水の手を窓ガラスにぶつける。バシャーン!
「キャー!」
ガラス窓は割れなかった。椅子から転げ落ち尻もちをつく。
「下がって!」
アオイ先生が駆け寄ってくる。
僕は扉に向かって走り出した。
「ダメ!ミナト君!外に出ちゃダメ!」
扉を開けて外に飛び出した。なんだよあいつ。あんなにでかくなって。どういうことだよ。何なんだよいったい。やっぱダメだ。どこか行かなきゃ。誰もいないところ。みんなを巻き込まないように。一人でいなきゃ。僕が誰かといるとまた誰かを傷つけてしまう。どうしよう。わからない。わからないけど。兎に角走れ。走ってどこか遠くへ。僕のそばには誰もいてはいけない。僕は誰の近くにもいてはいけない。誰もいないところへ。走れ。
「グォオオオオオ!」
バケモノの叫び声が聞こえる。僕を追ってきた。全身を大きく広げて、周りの家々に、車に、街路樹に、水を、手を、足を、バシャン!バシャン!と叩きつけながら追ってくる。
左へ曲がり住宅の間を走る。
「あっ、お前!いた!」
男の人の大きな声が聞こえる。あの人は?真っ直ぐ遠くの方で僕のことを指さしている人がいる。あれは・・・僕を助けてくれたお兄さんだ!あの人も僕のことを探してくれてたのか?・・・ほら、やっぱり優しい人だ。
後ろからあのバケモノが追ってきている。
「げっ!何あれ?」
僕はお兄さんの手前で右に折れた。
「おい!お前!待てよ。うわぁ!バケモノじゃんか!」
もう誰にも迷惑を掛けることは出来ない。全身を周りに叩きつけながらバケモノは僕を追ってくる。住宅の間を右へ左へと逃げ回った。
もうだめだ・・・。もう走れない・・。振り返るとバケモノの水の音がしなくなっていることに気付く。電柱の陰に身を潜め、息を整える。はぁはぁ・・あれ?あいつ、どこに行ったんだろう。
「キャー!」
叫び声。まさか。
前方に橋が見える。橋の真ん中まで力の限り走る。ユウちゃん!ユウちゃんがバケモノに追いかけられている。
「グォオオオオオ!」
必死で逃げるユウちゃん。でも足がもたついてすぐにこけてしまった。
「いやぁぁ!」
大きく口を開けるバケモノ。まさか飲み込もうとしてるのか!やめろよ・・やめろよ・・。
「やめろぉぉぉ!!」
声の限り叫んだ。橋の欄干を握りしめ必死で叫んだ。バケモノがこちらに気付き動きを止める。
「やめろよ!お前の目的は僕だろ!僕を飲み込めよ!僕を飲み込んだらいいじゃないか!その子には、、ユウちゃんには触るな!このバケモノ!」
バケモノは少し笑ったように見えた。それから少ししゃがみこんで、一気にこちらに飛んできた。大きく口を開いて。
僕はバケモノに飲み込まれた。
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