第2話
一週間後
あの後僕は、病室で目覚めた。特に怪我もなく一時的なショックによって気を失っただけだと判断された。一日だけ病院に泊まった後、退院した。学校は五日ほど休んでから再び行っている。学校は、初めはみんなよそよそしかった。
「大丈夫?」
なんて声をかけてくれるクラスの女子がいたり、遠巻きに、ちらちらこっちを見ていたりしていた。でも、スポーツの苦手な僕を、いつもは誘わない友達も、気を使って
「サッカーやろうぜ。」
なんて昼休みに声をかけてくれる人もいた。
でも僕は,ずっと下を向いて過ごした。それからまた二、三日経ったら、もうクラスのみんなは日常に戻って、男子は休み時間にふざけあって騒いだり、女子は集まってお喋りを始めた。
終業のチャイムが鳴り、帰りの会が終わるとガタガタと音をたて、みんな帰っていく。僕もゆっくりと教科書をリュックサックの中にしまった。
「ミナト君。大丈夫か?」
見上げると、担任のアカギ先生が立っていた。
「大丈夫です。」
僕は、そう答えると、そこに居たくなくて早足にその場を去った。
いったい何が大丈夫で、何が大丈夫じゃないんだろう?
階段を降りると、靴箱のところに、あの女の子がいた。あの時傘を飛ばした子だ。僕と一瞬目が合うとすっと下を向いた。僕はさっと靴を取り出すと、かかとを踏んづけたまま駆け出した。
なんだかすごく腹が立っていた。なんで?何に対して?わからないまま家へと急いだ。
「ただいま。」
誰もいないみたいだ。しんとした空気の中に僕の小さな声は飲み込まれた。
リュックサックをリビングのソファの上に置く。トイレを済ませ、手を洗い、リュックサックを手に取り、二階の部屋へと上がっていった。
ドアを開ける。誰もいない。静かだ。耳を澄ませば車の走る音や、鳥のさえずりが聞こえてくるけど、兄ちゃんと二人で使っているこの部屋は、とても静かだ。兄ちゃんの本棚にあるたくさんの漫画本もなんだかひっそりとしている様に見えた。
椅子にリュックサックを置き、窓を開け、そのままベッドに寝転んだ。生ぬるい初夏の風が入ってくる。もうすぐ本格的な夏になる。
去年の夏は、ホームセンターでボディボードを買ってもらって海へ行った。車を出ると波の音が聞こえ海のにおいがする。目の前には天(あま)色の空と青(せい)藍(らん)色の海が広がっている。
自分の背丈くらいのボディボードを抱えて階段を一歩ずつ降りる。砂浜に降りるとサンダルの間から火傷するくらいの砂が入ってきた。
「アツい、アツい。」と二人ではしゃぎながら、波で濡れている砂浜ところまで走った。どうして海に来るとこんなにもウキウキした気持ちになるんだろう?父さんと母さんも後ろから駆け足で追いかけてくる。波打ち際まで来た。引き波に足裏の砂が削り取られていくのがこそばゆい。
兄ちゃんが我先にとボディボードで遊び始めた。兄ちゃんは、その前の年からボディボードを持っているから、時折波に飲まれながらも、三回に一回くらいは上手に波に乗って、三十メートルくらい進んでいた。お父さんが手を上げて拍手をしている。
僕はまだまだ怖くて、兄ちゃんみたいに腰くらいまで深いところになんていけない。
せいぜい太ももの深さのところまで行って波しぶきに合わせて飛び乗るくらいだ。
それでもうまくいったときには、五メートルくらいは進んだかな。
お母さんに見守られながら、波に乗ってちょっと進んでは、また波に向かって走る。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう?どうしてこんなに夢中になれるのだろう?波の音がザァザァと僕の耳をふさいでくれるから集中できるのかな?
「ミナト。」
気づくとすぐそばにお父さんがいた。
「もうちょっと、深いところからやったや。」
「え~、こわい。」
と僕は少し嫌がった。
「大丈夫やけん。お父さんがおるけん。」
そう言って、お父さんは僕の腕を引っ張って、僕の腰くらい深さまで行った。
「もうちょっと上の方も持って。離すなよ。」
波を待つ。少し大きめの波が出来ようとしている。
「来たで。あれに乗るで。しっかり持てよ。」
ぎゅっと手に力を込めボディボードを握る。
「今!」
お父さんが、タイミングよく僕ごと波に合わせて前に押し出した。次の瞬間、波の勢いに負けて、ボディボードから手が離れる。鼻に水が入る。目はつむったまま、水面に出ようともがいた。
「ぷはっ!」
空気を感じ、息を吸い込む。目を開ける。途端に景色が一変していた。空が暗い。小雨が降っている。川だ。濁った川だ。
(えっ?なんで・・・。)
足がつかない。僕は流されている。また水面下に体が沈む。
僕は増水した川の勢いに流されていた。
(誰か・・・・誰か助けて・・・。)
浮き沈みを繰り返し、流されていく。まるで生き物のように僕を引っ張って苦しめようとしているかのようだ。
(くるしい・・くるしい・・・。)
「ぷふぁっ!」
目を開けると、僕はベッドの上にいた。心臓の鼓動が波を打つ。耳の奥にまで心臓の鼓動が届いている。ドクン、ドクン・・・。どうやら眠ってしまっていたらしい。じっとりとした汗をかいている。時計を見ると、三十分くらいたっていた。
夢か。そう思った。目が覚めた時には、一瞬いったい今自分がどこにいて、今何時なのかがわからなかった。それだけ、いやにリアルな夢だった。
重い体を起こし、ため息をついた。
部屋を出る。階段を下りると、テレビの音がかすかに聞こえる。
リビングを覗くと母さんがソファに座っていた。
「おかえり。」
テレビから目を離し、僕を見た。
「ただいま。」
母さんの顔全体に影がある。あれからというもの、僕はあまり両親の顔を見られないでいる。
「今日はもう、クリニックは行ってきたの?」
「ううん、今から。」
うつむきがちにそう答えてから、顔を洗いに行った。父さんは最近ずっと帰りが遅い。以前は、家族四人で夕食を囲める時間には帰って来ていたのに、あれからずっと夜九時過ぎまで帰ってこない。母さんの元気がないのに、どうして早く帰って来てくれないんだろう?
テレビでは天気予報が流れていた。
「強い台風五号は、二十六日午後五時現在、日本の南にあって、暴風域を伴いながら時速二十五キロで北北東に進んでいます。中心気圧は九百八十ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は三十五メートル、最大瞬間風速は五十メートルとなっています。この台風は勢力をやや、、、、」
靴を履き、玄関に置いてある二つ並んだヘルメットから一つ取り、被る。
兄ちゃんとおそろいのヘルメットだ。黒地に撫子(なでしこ)色の線が一本ぐるりとひかれ、片側には同じ撫子色で羽のように三角形の模様がある。
「行ってきます。」
母さんに声をかけると、気を付けてね、とか細い声が聞こえた。
玄関を開け深緑色の自転車にまたがり、奥にある兄ちゃんの紺色で六段変速の自転車をちらりと見た。僕のより二回りくらい大きい。
前を向いて、ペダルに力を込めて進みだす。
クリニックは、学校と家のちょうど真ん中くらいの距離にあった。スクールカウンセラーというやつらしい。こんなところに病院みたいなものがあるなんて全然知らなかった。
学校へも定期的に来ているみたいだけど、僕は誰かに見られるのが嫌で、家も近いことだし、ここに直接来ることをお願いした。そして、母さんの同行は僕から断った。
自転車で川沿いを上流に向けて走る。今日はいつもの穏やかな川だ。五分くらい走るとそのクリニックに着いた。一階は駐車場になっていて、車二台分のスペースがある。今は誰も来てないようで車は停まっていない。
自転車を端っこに停め、右側にある山鳩(やまばと)色のコンクリートの階段を上がった。
ガラス扉に「ぺんぎんクリニック」と白字で書かれている。ガラス扉を押し開けると、中からは、とても清潔なにおいがした。ここは外とは別の世界みたいだ。
「こんにちは。」
小声で、挨拶をしながら入っていく。
短い廊下を抜けると広い空間が現れる。僕の家のリビングとキッチンを合わせた広さよりも倍以上広い。一番奥にある机に先生が座っていた。
「あっ、ミナト君。待ってたよ。入って入って。」
アオイ先生だ。白衣の左胸にある名札に、ペンギンのイラストと共に、ひらがなで「あおい」と書いてある。少しウェーブのかかった黒髪は、束ねて名札とは反対側に垂らしている。
アオイ先生は、近寄ってきて真ん中にある丸テーブルに僕を促した。あおい先生は、母さんよりちょっと若くてとてもきれいな人だ。背中に手を当てられたとき、大人の女性のにおいがして、僕は少しドキリとした。そして、そんな感情が今の僕に芽生えたことに、僕は自分自身に少し腹が立った。
「ココア飲むよね。」
そう言いながらアオイ先生はキッチンスペースにある冷蔵庫の方へ歩いていく。
僕はあれから、いつも気持ちが沈んだり、腹が立ったりと感情が忙しい。
コップに牛乳を入れ、レンジで温めてくれる。もうすぐ夏だけど温かい飲み物の方が、心がほっとするのだと以前教えてくれた。
レンジの出来上がりを知らせる電子音の後に、コップと金属のスプーンの当たる音がする。
「学校はどう?少しは落ち着いた?」
先生が椅子に座りながら、聞いてくる。
「はい。」
ペンギンの絵のイラストがある、白い、少し重量感のあるコップを僕の前に置く。
「頂きます。」
一口飲む。ちょっとぬるめに温められた甘いココア。おいしい。素直にそう思った。
僕はここに来る道すがら、夢の話をしようかどうかずっと考えていた。
「あんまり無理しちゃだめよ。ゆっくりでいいからね。学校とか、友達とかと、また 前と同じように過ごすのにはきっともっと時間がかかるから。ん?どうしたの?何か言いたいことある?」
僕が、少しうつむいて黙っているとそう聞いてきた。でもどう話をすればいいのか、始め方がわからない。
「また良かったら、絵に描いてみる?」
そう言って先生は席を立って自分がさっきまでいた机から、画用紙といろいろな色のマジックの入った黒い箱を持ってきた。
このクリニックに来たのは、今日で三回目だけど、初めからあおい先生は上手くしゃべることが出来ない僕に絵を描かした。といっても、初めは何も描けなかったんだけど。
二回目は、兄ちゃんを描いて、それから父さんと母さんを、兄ちゃんを挟むようにして描いた。
「夢を見たんです。」
「どんな夢?」
「海で遊んでたんです。家族みんなで。」
しゃべりながら、青いマジックを使ってゆっくりと描いていく。兄ちゃんと僕と、二つのボディボード。不思議だ。描きながらだと、ゆっくりだけど言葉が出てくる。
「去年の夏、ボディボードを買ってもらって、お兄ちゃんはその前から買ってもらってたんで持ってるんですけど、僕は去年買ってもらって・・・。」
「へぇ~、すごいね。上手にできたの?」
「初めは、浅いところで、一人で遊んでたんです。そしたら、父さんが、僕の腕をつかんで、深いところに連れて行って、そしたら・・そしたら・・・。」
怖かった。恐怖を思い出したのか、急に怖くなって涙が出てきた。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいからね。」
アオイ先生が僕の腕に優しく触れた。
僕は手を伸ばし、青いマジックから緑のマジックに持ち替えた。
「急に・・・急に海が、海だったのが・・・あの濁流になったんです。川になっていたんです。グングン押し流されて、息ができなかった。苦しくて、苦しくて・・・。」
僕は涙を拭いて、画用紙に、兄ちゃんと僕と二人の絵の上に、緑のマジックを握りしめて書きなぐった。
アオイ先生は僕の行為を止めなかった。じっと見ていた。たぶん。そんな視線を感じてたんだ。
少し落ち着いてきたら、アオイ先生が僕の握りしめている緑のマジックをそっと取って、キャップを閉めてからテーブルに置いた。
「怖かったよね。苦しかったよね。でもミナト君はもう大丈夫なんだよ。」
優しい声で、言ってくれている。
「お兄ちゃんは?」
「えっ。」
「僕がいけないんでしょ?僕がいけないんだよ!なんで誰も僕を叱ってくれないんだ!」
アオイ先生の困ったような顔が見える。何をやっているんだ。アオイ先生に八つ当たりしたってしょうがないのに。
少し経って、
「ごめんなさい。」
僕は下を向いたまま謝った。
「誰も、ミナト君がいけないとは思ってないよ。」
アオイ先生が言う。
僕は顔を上げた。
「誰だって失敗することはあるもん。間違いはあるんだよ。先生だって今、ミナト君怒らしちゃったじゃない。心の先生なのに・・・だめね。」
「アオイ先生も、失敗することあるんですか?」
「あるある。いっぱいある。でもそれでいいよの。失敗して反省して、そしてまた前に進んでいく。その繰り返しよ。まずは自分のしたことを受け入れること。間違いを犯したことや、傷を癒すには自分自身の中に、それを受け入れることでしか解決しないの。時間がかかって難しいことだと思うけど、ミナト君なら絶対できるよ。」
そう言って笑ってくれた。僕は、ほんとに自分のしたことを、過ちを受け入れることが出来るんだろうか?
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