第3話

 家について自転車を止める。ふと庭を見ると椿の木に女郎蜘蛛がいた。まだ子供の小さめの女郎蜘蛛だ。

この町では、夏に神社の境内で女郎蜘蛛相撲大会がある。子供たちが女郎蜘蛛を持ち寄って自分の女郎蜘蛛と相手の女郎蜘蛛を戦わせる大会だ。




 縁日の屋台の煙を抜けて、兄ちゃんと二人で鳥居をくぐる。町の中心にある神社だ。セミの鳴き声を両側の木々に聞きながら石段を登っていると、二股になった枝に蜘蛛の巣を這わせ女郎蜘蛛をつけた男の子が走って僕たちを抜いていった。その後ろに虫かごを持って駆け上がって行く、もう一人の男の子。たぶんあの虫かごの中は女郎蜘蛛だろう。気持ち悪い。よく女郎蜘蛛なんて飼えるもんだ。

 境内ではもう準備ができていて、人が、大人も子供もたくさんいる。お内裏さまみたいな恰好をしたおじいさんがマイクを使って何か言っていた。もうすぐ始まるみたいだ。人垣の間から様子を伺う。

 お内裏じいさんが行司を務める。細い枝を横に伸ばしてところに、子供たちが持ってきた女郎蜘蛛二匹をくっつけた。黄色に黒の縞々模様、赤い斑点があり、細く黒い足が伸びている。二匹は左側と右側に分かれている。ルールは簡単。枝から落ちて地面に着いた方の負け。枝に残った方の勝ちだ。

 お内裏じいさんが、

「ほれほれ・・・ほれほれ・・・」

と言いながら、片方の女郎蜘蛛を、相手の女郎蜘蛛の方に素手で押して近寄らせる。

 女郎蜘蛛はお互いに相手に気付いたようだ。細く真っ黒な足を上げて掴み掛かろうとする。細く真っ黒な足は素早く動き、絡み合ってなんだか気持ち悪い。

 一匹が、あっ落ちた、と思った。しかしそこは蜘蛛。糸を垂らしていたおかげで、スススッと上っていく。さすがは蜘蛛だ。

 再び相まみえる二匹。まるでボクシングのジャブのように細く真っ黒な足を打ち合う。

 バシバシ、シュッシュ。少しずつ距離を詰めていく。次の瞬間、二匹が抱き合い一つの真っ黒い玉になって落ちた。と思ったら一つは糸でぶら下がり、一つは下に落ちて、女郎蜘蛛に戻った。ぶら下がっている黒い玉はスススッと上っていき、枝の上で女郎蜘蛛に戻った。一瞬の出来事だった。

 「兄ちゃん、どっちが勝ったの?」

 「右側にいたやつだよ。」

 「へぇ~、なんでわかるの?」

 「えっ、それは・・・そんなの、見ていたらわかるだろ。」

 「ふ~ん、僕わかんなかったよ。ねぇ、もう行こう。東京ケーキ買おうよ、東京ケーキ。」

 僕たちは早足に神社の階段を下りて、来た時に確認していた東京ケーキの屋台を目指した。五百円分の東京ケーキを買って、二人で歩きながら味わった。

 

 あの時の記憶はなんだかつい此間のようで、東京ケーキの味が、かすかに口の奥に広がった。


 次の日


 最近は雨が降るのか降らないのか、はっきりしない天気が続いている。登校しているときはパラパラと降っていたけど、今、教室の窓の外は降っているのかどうかわからない鈍(にび)色の風景だ。

 昨日席替えをして一番前の窓側の席になった。先生に近いところにいるけど、授業の内容はあまり聞こえてこない。なんだか頭がぼぅとして、夢の中にいるみたいだ。

また、窓の外を見る。五年の男子が体育の授業でサッカーをしている。兄ちゃんの友達だから、僕も何人か知っている顔がある。

 グラウンドは雨で湿っていて、所々に黄土色の水たまりが見える。靴が汚れるだろうに。なんであんなに楽しそうにしているんだろう。ボールが右に行けばみんなで右に走り、左に行けばみんなで左に走り。ここから見ているとなんだか鬼ごっこをしているみたいだ。

 僕の気持ちとは関係なしに日常は動いている。風が流れている。時間が流れている。

 集団からボールが飛び出した。ポーンと飛んで、ちょうど黄土色の水たまりの中に入って止まった。一番早く追いついた人が水たまりからボールを蹴り出す。そのまま走りだそうとした瞬間足を取られて思いっきりこけた。

「大丈夫か?」

 先生が駆け寄る。他の生徒も中断して集まってきた。かなり痛そうだ。膝を抱えて横になってしかめ顔をしている。

 なんだか変だった。僕はずっと見てたけど、おかしなこけ方だった。なんだか、誰かに足をつかまれたように見えた。

 誰に・・・?少し鼓動が早くなる。何か視線を感じる。なんだ・・・?呼吸がしづらくなっていく。水たまり?まさか。水たまりを見やる。視線が合う。視線が合った気がする。いや、気がするんじゃない!水たまりがこっちを見ている!僕を見ている!

 とっさに机に突っ伏した。隣の席の女子が何か言っている。落ち着け。落ち着け。誰かが近くに来る気配がする。大丈夫。大丈夫だ。

「ミナト君。」

顔を上げると、アカギ先生が心配そうに見ていた。

「どうした?」

水たまりがこっちを見ていた?僕を見ていた?いや、そんなわけないじゃないか。

「いえ、なんでもありません。」

落ち着きを取り戻してきた。呼吸をゆっくりと整えていく。

「そうか。」

と言って、少し心配そうな顔をしながら、先生は授業に戻った。

 ゆっくりとグラウンドの方を見る。倒れた五年生もみんなも、またサッカーの続きを始めていた。

 水たまりを見る。普通の水たまりだ。視線なんか感じない。何も、感じない・・・僕の勘違いだったのだろうか?



 放課後、僕は一人、校庭にいた。今、あの水たまりの前に立っている。スニーカーの先で水たまりに触れ、ピチャピチャと音を立ててみる。

「おーい。ミナトくーん。何やっているのー?」

 トウ君が呼んでいる。何もない・・・。何もないよな・・・。普通の水たまりだ。自分に言い聞かせるようにして、トウ君の方に振り返ろうとした瞬間、左目の端に黒いものが写った!また水たまりを見る。今、何か水たまりの中に黒いものが写ったような?でも、そこにあるの何の変哲もない水たまり。さっきの黒いのは?また気のせい?

「ミナトくーん。」

僕はなんだか怖くなって、トウ君のもとへ逃げるようにして駆け寄って行った。




 トウ君と別れて、一人で下校していたら、さっきまで曇っていたのに雨がパラパラ降ってきた。しまった、傘を学校に忘れてきた。でも大丈夫だろう。そう思って引き返さないで帰っていたけど段々と雨は強まってくる。ぺんぎんクリニックが見えてきた。僕は駆け足で一階の駐車場の中に逃げ込んだ。

 空を見上げる。止んでくれるかな?

とっさに、男の人が自転車で飛び入ってきた。

「ひゃー、しまったなぁ。」

独り言を言っている。この人も雨宿りみたいだ。

「また降ってきたね。」

声をかけられた。

「あれ?君は・・・。」

僕は顔を上げ、男の人を見た。

「やっぱりそうだ。おい。お前。もう大丈夫か?」

誰だろう?そう思った瞬間思い出した。

「あっ、あの、その・・・あの時はありがとうございました。」

慌ててお礼を言う。

「おうおう。元気そうで何より。大変だったよな。まぁよかったよ、ほんと無事で。」

僕を助けてくれた、川から引っ張り上げてくれたお兄さんだ。今日は作業着を着ている。

「ちきしょう。もう降らないと思って自転車にしたのに。やっぱ車にしとけばよかったよ。」

また独り言を言っている。いや、僕に話しかけているのか?

「ここの角を曲がった杉内のばぁさん。一人暮らしでさ。午前中に電話がかかってきて、台所の電気がチカチカしてるって言うから、電球を変えに行くところなんだよ。でも道が狭い所だし、まぁ近いし、自転車で行こうと思ったらこれだよ。」

何か言わなくちゃいけないのかな?

「・・・優しいんですね。」

「ん?いや、違う違う。作戦だよ作戦。」

「え?」

「オレ電気屋。」

 そういうと体をひねり背中を見せてきた。「でんき家ツクシ」と京(きょう)紫(むらさき)色の作業着に白色の丸みを帯びた字で書かれている。

「こうやって、小さい面倒を聞いて、いずれおっきいテレビや冷蔵庫を買ってもらうんだよ。」

「え?」

「頭いいだろ。」

なんか笑っている。

「でも、おばぁさん一人暮らしなんですよね。じゃあ、おっきいテレビとかおっきい冷蔵庫は必要ないんじゃ・・・。」

「えっ?あ!そうか!ダメだ。作戦失敗じゃないか!」

僕は思わず噴き出した。お兄さんも僕を見て笑っている。そういえば久しぶりに笑った。

「お兄ちゃんの方は、元気?」

唐突に聞かれた。ハッとする。 僕はまた下を向き、お兄さんに今の僕の状況を説明した。




「そうか。でもまぁ元気出せよ。下向いてばかりじゃどうしようもないだろ。」

雨が小降りになってきた。

「そうだ!ほら!今はあれだよ。雨宿りだよ。」

「雨宿り?」

「そうそう。雨宿り。今俺たちがしているやつ。今はまだ心の中に雨が降っているから、君は今、雨宿りしてるけどさ、だんだんと雨は弱くなってきて、いずれは止む。そしたら雨宿りは終わってここを出ていく。わかるか?そうだ!虹は見たことある?」

「・・・絵本でなら。」

「本物はまだ見たことないのか?」

僕は首を縦に振る。

「雨の後はさ、虹が出るんだよ。こう太陽が差し込んできたらぱぁと七色の虹が。」

お兄さんは両手を上げて空に虹を描くように僕に示した。

「見てみたい。」

そう呟いた。

「見えるさ。必ず。おっ止んできた止んできた。」

お兄さんは空を見上げる。

「じゃぁな、少年。元気出せよ。」

お兄さんは、ペダルに力を入れて走り出した。そして片手をあげて、大声で言った。

「顔上げて歩いてないと、見えるもんも見えないぞー!」

僕は軽く頭を下げた。なんだか少し温かかった。

ちらりと上の窓を見る。今日なら行けそうな気がする。僕は、時々駆け足になりながら早歩きで家に帰った。




 静かに玄関を開ける。誰にも見られたくないので、こっそりとリュックサックを下ろしヘルメットを取った。自転車にまたがり走り出す。体が少し興奮しているのがわかる。自転車を漕いで漕いで漕いだ。湿気を帯びた空気が体にまとわりついてくる。県道に出た。いつも走っている市道より車が多く、そしてスピードも出ている。タイヤと道路の摩擦音が耳に五月蠅(うるさ)い。信号を渡り、時々家族でお弁当を買いに来る道の駅の裏側に到着した。

 ここだ。ここの坂だ。長く急な上り坂。見上げるとずっと先の方で左に折れている。あそこからさらにずっと急な坂は続く。僕はこの坂を上らなくちゃならない。そう思って来た。

 でも、さっきまで体が動いていたのに、坂を見上げたとたん、止まった。止まってしまった。ペダルが踏めない。行かなきゃ、そう思って高ぶっていた気持ちは、急激にしぼんでいった。どうしたんだろう。息を整える。ペダルに乗った足を見る。顔を上げてもう一度、坂を見る。覆い被さってくるような巨大な壁に見える。足が動かない。汗が体中から湧き出てくるのを感じる。じっとりと体にまとわりつくTシャツが重い。体が重い。いけない。まだ・・いけない。涙が出てきた。怖いのか?悔しいのか?悲しいのか?それとも情けないのか?涙の出る理由がわからない。

 僕は右手を握りしめ、何度も何度もハンドルを叩いた。ハンドルに着いたベルの音が静かに揺れていた。


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