第9話

 家に着いた。自転車のハンドルを手に取る。窓を見ると話し声が聞こえてくる。

「はい・・・はい・・・そうですか・・・ありがとうございます。はい・・・はい。」

 母さんが電話をしているみたいだ。たぶん電話の相手はアオイ先生だ。ごめん、母さん。もうちょっと待ってて。僕は自転車にまたがり駆け出した。

 行くべき所は、行かなくちゃならない場所はあそこだ。もう迷わない。僕は一心不乱にペダルを漕いだ。

 住宅街を抜け、国道に出る。朝が早いためか、今はまだ車はそんなに走ってない。湿った少し冷たい風が体にまとわりついてくる。信号を渡り、道の駅の横を抜けた所。あの上り坂が見えた。腰を浮かし立ち漕ぎになる。スピードを全開に上げていく。

(行くぞ!)

心の中で気合を入れて一気に駆け上る。

(うぉりゃぁぁぁぁ)

 漕いで漕いで漕ぎまくる。上れ、上れ!かなりの急斜にすぐにペダルが重くなる。立ち漕ぎのまま両足に踏ん張りを利かす。左のカーブが見えてきた。もうすでにほとんど進んでない状態だ。それでも必死で踏ん張った。

 ガシャン!

 カーブに差し掛かったところでとうとう倒れてしまった。左ひじを強く打ってしまい、血がにじんだ。すぐに立ち上がり、自転車にまたがろうとする。でも急な斜面ではなかなかまたがることができなかった。もういいやとハンドルを握って自転車を押しながら走り出す。自転車で全部上るのは、また今度でいい。今度また挑戦すればいい。何度転んだって、起き上がれば何度でも挑戦できるんだ。

 兄ちゃんが待っている。この坂の上で兄ちゃんが待っている。

 僕が退院するとき、父さんと、母さんに連れられて兄ちゃんが眠る部屋に行った。兄ちゃんは部屋で一人、鼻や腕や胸に、たくさんチューブを付けられて眠っていた。僕は恐ろしかった。自分のしてしまったことが怖くて怖くて、一分とそこに居られなかった。すぐに病室を飛び出し、廊下の壁に向かってしゃがんで震えていた。なんてことをしてしまったんだろう。僕のせいで兄ちゃんが、兄ちゃんが・・・。何分、何十分そうしていたかわからない。父さんか母さんが僕の肩に手を置くまで、そうやってずっと震えていた。

 そして、それから一度も僕は兄ちゃんの所へは行けなかった。行かなきゃダメだって思っても、怖くてダメだった。この坂を上ろうとすると足が震えて体が動かなかった。母さんが一度、一緒にお兄ちゃんの所に行こうって言ってくれたけど、僕はそれを拒否した。それ以来、母さんは何も言わなくなった。

 でもさっき、兄ちゃんは僕を助けてくれた。僕のことを、居なくなったらいやだと言ってくれた。また一緒に遊びたいと言ってくれた。そして生きろと教えてくれた。

言わなくちゃ。きちんと言わなくちゃ。兄ちゃんに会って、言わなくちゃ。

 坂の上にたどり着いた。はぁはぁと息を吐く。目の前には大きな病院。自転車にまたがり駐車場を突き進んだ。自転車置き場に自転車を停め正面玄関へと走る。静けさの中で自動ドアが大きな音を立てて開いた。まだ誰もいない病院。場所は何となく覚えている。確か右の方にエレベーターがあったはずだ。自動販売機のモーター音が静かなロビーに響いている。あった。開くボタンを押す。中に乗り込むと「4」の数字を押した。息を整える。もうすぐだ。もうすぐで会える。

 扉が開くと女性の声が聞こえた。

「今、先生呼んでくるから待っててね。」

看護師さんだ。何か慌てているような声。エレベーターの近くにあるナースステーションに駆け寄ってくる。

「あれ、君は確か弟君?ユウイチ君の弟君だよね。」

僕を見つけ驚いたように聞いてきた。

「今ね、お兄さんの目が覚めて・・・お父さんとお母さんは?」

僕は首を振り、一人であるという意思表示をした。

「一人なの?一人なのね。今、お兄さんが目覚めて・・・ちょっと私、先生呼んで来るから。」そう言った後その看護師は、ナースステーションのいる別の看護師に、ご両親に連絡するようにと頼んでから走っていった。

 僕はドキドキしていた。兄ちゃんの目が覚めた。予感はあった。確かに予感はあった。すぐそこに兄ちゃんがいる。ゆっくりと歩を進める。扉は開いている。四一〇号室の前に立つ。

「よぉ。」

 兄ちゃんがベッドに体を起こして座っていた。さっき見たよりは少し瘦せている様に見えるけど、軽く微笑んで僕を見ていた。涙があふれ出る。一気に駆け寄り兄ちゃんに抱き着いた。

「兄ちゃん!ごめん!ごめん!」

抱き着いたまま、何度も「ごめん、ごめん」と言い続けた。もっとちゃんとした言葉で、何がどうして、何がどうだったからとか、きちんと言わなきゃと思ってたけど、僕の口からは、ひたすらに「ごめん」しか出てこなかった。

 ようやく僕が落ち着いたころを見計らって、兄ちゃんは僕の頭を撫でながら、こう言った。

「ミナト。俺はお前の中にずっといたんだよ。だからお前のその言葉はずっと聞こえてた。だからもういい。もう十分だよ。俺もいけなかった部分もあるし。それにな、助けてもらったら『ありがとう』って言うもんだろ。」

僕の目を真っ直ぐに見つめて言う。

「うん。兄ちゃん、ありがとう。助けてくれてありがとう。」

すごく嬉しい。嬉しすぎてどうにかなりそうなくらいだ。ここに兄ちゃんがいる。僕のそばに兄ちゃんがいる。

「やぁ、ユウイチ君。目が覚めたみたいだね。」

白衣を着た恰幅のある医者が、看護師さんを後ろに従えて入ってきた。

「ちょっといいかな?お兄さんを借りるよ。」

僕と場所を変わり、兄ちゃんに気分はどう?とか、ここは何処だかわかる?など2,3質問した後に聴診器を胸に当てたりしている。

「うん。問題は無いようだ。ご両親が来たらまた呼んでくれ。」

そういった後、

「お兄さんが目覚めてよかったね。」

と僕に一言言って出ていった。

ドアが閉まる。病室が静かになった。

「あっ!」

兄ちゃんが窓の外をみて大きな声を出した。僕もつられて窓の外を見る。

「虹だ!」

ほんとだ!虹がある!

「虹だ。兄ちゃん、僕虹って初めて見たよ!」

窓から見下ろす町の上には大きな、きれいな、七色の虹がかかっていた。雨上がりの朝日の中に虹が輝いてた。こんなにもきれいだなんて。こんなにも心を揺さぶるものだなんて。僕は大きな感動に包まれていた。

「すごいね。」

「ああ、すごくきれいだ。」

「兄ちゃんさ・・・。」

「ん?」

「兄ちゃん、僕のこと暗いって言ってたでしょ。」

「えっ、ああ~、あれは、なんていうか、その・・・」

「ううん、いいんだよ。実際僕暗かったし。だからさ、僕この虹、今見ている虹のことずっと覚えているよ。そしてさ、またつらいこととか悲しいことがあった時に、暗くならないようにこの虹を思い出すんだ。そしたらさ、心の中がカラフルになるでしょ。」

「うん・・・いい考えだ。その考え、俺ももらうよ。」

「えっ、兄ちゃんも暗くなることあるの?」

「そりゃあるさ、生きていれば楽しいことばかりじゃない。つらいことも、悲しいこともたくさんあるさ。」

「生きていれば。」

「そう、生きていれば。」

それから僕たち二人は、虹が朝日の中に消えてなくなるまでずっと見ていた。二人ともがこの景色を心に刻むように。一生忘れないように。

「ユウイチ!ミナト!」

いきなりドアの向こうから僕たちを呼ぶ必死な声が聞こえてきた。それと二人の走り寄る足音も一緒に。

「兄ちゃん、僕怒られるかな?」

「さぁね?知~らない。」

兄ちゃんは、意地悪く笑っていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る