第29話 欠片を宿すものたち

 あれから4日が経っていた。城での生活は許可されたものの、兵士たちとはまだうまく馴染めず、賞賛の声を浴びても、どこか居心地の悪さを感じていた。褒められるたびに、胸の中にぽっかりと空いた何かを思い出してしまうようで、自然と足が遠のいていた。


 まるで逃げるように、中庭へと足を運んだのもそんな理由からだった。


 いつも忙しなく人が行き交う城内を散策する気力も湧かず、一階の端にあるその場所にたどり着いたのは偶然だった。自然が広がり、緑の香りが漂うそこは、どこか故郷アルフィグを思い起こさせた。中央にある石造りのベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げる。


 散々痛めつけられた身体はまだ所々に痛みが残り、団長からも回復するまでは休むようにと指示されていた。見た目は元通りに近いが、全身を包む疲労感は未だ取れず、息を深く吸い込むと肺の奥に重苦しい感覚が残った。ふう、と小さく息を吐く。青い空を見上げる自分が、ひどく場違いな気がした。


「クオトラ、調子はどうだ?」


 突然の声にクオトラは肩を跳ねさせた。反射的に視線を向けると、トゥルエイトがいつの間にか隣に座っていた。広いベンチの片隅に腰を下ろした彼は、クオトラの反応を面白そうに眺めている。クオトラは少し身を引き、自然と距離を取った。


「だいぶ調子は戻っているよ。最近、怪我の治りが早くなった気がするんだ」


 軽く言葉を返すが、その内容は驚くべきものだった。実際、骨が折れていたにもかかわらず、この4日間でほぼ完治していた。子供の頃の自分では考えられないほどの回復力に、クオトラ自身が一番驚いていた。


 しかしその一方で、右目の上――あの赤い雨が触れた箇所が、日を追うごとに奇妙に脈打つのを感じていた。それは傷の治癒とは全く別の、不快で奇妙な感覚だった。


「いま、兵士たちは皆訓練中だ」


 トゥルエイトが何気なくそう口にした。クオトラはその言葉の意味を問いかけようとしたが、彼はすぐに続けた。


「つまり、今なら部外者に聞かれることはないだろう、ということさ」


 にやりと笑うトゥルエイト。その笑顔にどこか不穏なものを感じた瞬間、彼はクオトラの腕を掴むと立ち上がった。


「おい、何するんだよ!」


 クオトラは咄嗟に抵抗したが、トゥルエイトは意に介さず強引に中庭から引っ張り出した。


「私のように軍の上層部にはそれぞれ、自室と地下室が与えられる。昔はその地下室で拷問を行ったり、奴隷を飼っていたそうだよ」


 わざとらしく声のトーンを落とし、楽しげに語るトゥルエイト。その調子は冗談めいているようだが、どこか冷たさを感じさせる。彼が冗談で驚かせようとしているのか、それとも単に事実を伝えているだけなのか、クオトラには判断がつかなかった。


 連れられて行った先の扉は重厚で、閉ざされた空間の入り口を示しているようだった。トゥルエイトがその扉を押し開け、クオトラを促す。


「これが私の部屋だよ」


「……何もない?」


 クオトラは思わず目を丸くした。中に入ると、ベッドが一つ置かれているだけの白を基調とした簡素な空間だった。飾り気も生活感も一切なく、まるで牢獄のような冷たさを感じさせる。


「もちろん、収納の中にはいろいろあるさ」


 トゥルエイトは肩をすくめると、部屋の奥にある扉を開けた。冷たい風が頬を撫で、薄暗い空間が目に入る。下へと続く階段が、まるで何か異世界への入り口のようにぽっかりと口を開けていた。


「この先なら、誰にも聞かれることはないよ。安心して。私に奴隷の趣味も拷問の趣味もないから」


 そう言いながら、片手に炎灯を持って階段を降り始めるトゥルエイト。その背中を見て、クオトラは一瞬だけ迷ったが、結局後に続いた。


 降りるたびに、冷たく湿った空気が身体にまとわりつく。下へ行くほどに視界が暗くなり、足音がやけに響く。音がまるで空間に吸い込まれていくような、奇妙な感覚がクオトラの背筋を冷たくさせた。


 やがて広がった空間に足を踏み入れた瞬間、クオトラは息を呑んだ。


「ここが……地下室?」


 そこは地下とは思えないほど広大だった。壁に吊り下げられた灯りの光が、薄暗い空間にゆらめく。だが、その光さえも届かないほど不自然に黒く沈んだ隅があり、この空間全体に異様な雰囲気を漂わせていた。どこかこの場所そのものが現実から切り離され、異世界に接続しているような感覚だった。


 クオトラは、冷たい床を踏みしめるたびに、骨の芯まで刺さるような寒気を覚えた。そして、この異常な空間の中で、妙に軽やかに歩くトゥルエイトの背中をじっと見つめる。何の躊躇もなく進むその姿が、この空間に対する違和感を一層強くさせていた。


「珍しいかい?まだこの城の中以外ではなかなか出回っていないからね」


 トゥルエイトが灯りを指しながらそう話しかける。クオトラの目は再び、薄暗い空間に揺らめく光へと引きつけられていた。その言葉の裏に、何かを含むようなニュアンスがあったが、クオトラは深く突っ込むことはせず、案内されるまま近くの椅子に腰を下ろした。


 椅子は若干古びており、クッション性がほぼ失われているようだった。座った瞬間、冷たく硬い感触が臀部を刺激し、思わず身じろぎする。


「さて、まずは……そうだな。この前の模擬戦のご褒美として、私の“正体”でも教えてあげるとしようか」


 トゥルエイトは軽く人差し指を立て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。その無造作な態度に、逆に不穏さが際立って見えた。


「正体……?」


 クオトラは不審そうに眉をひそめる。予想もつかない展開に、思わず問いかけた。


「私は、かつての“竜の器”だ。君が知っている竜の器とは違う、過去の世代のものさ」


「過去の世代……?」


 初めて聞く言葉に、クオトラは驚いて口を挟んだ。しかし、トゥルエイトの言葉には嘘がないようだった。夢の中で見た竜の器の姿の中に、彼のような人物はいなかったし、胸の中に眠る「彼」も、トゥルエイトに対して特に敵意を示していない。


「いま詳しく説明するのは難しいが、君たちのような存在が昔にもいた、そう思ってくれればいい。ああ、それと残念ながら、既に欠片は私の体に溶け込んでしまっている。だから、仮に私を殺したとしても、君に得られるメリットはないよ」


 クオトラが何かを選択するよりも先に、トゥルエイトは両手でバツの形を作って、淡々とそう言い切った。その言葉に、クオトラは眉をひそめ、あの嫌悪感の正体について考え込む。自分が感じていた不快感は、相手の体内に眠る“欠片”に反応していたのかもしれない……そんな仮説が頭をよぎる。


「どうしてそんなことを僕に……?」


 クオトラの心臓が高鳴る。トゥルエイトが敵ではないと分かっていても、彼の底知れない知識と力の片鱗を目の当たりにし、自分の限界を突きつけられたような気分だった。赤の竜神への復讐を誓ったはずなのに、目の前の強大な存在を前にして、自分にはその覚悟が本当にあるのか……。その疑念が一瞬心をよぎる。


 いや、あの日、全てを奪われた。恐れるべきではない。だが、それでも。


 心の奥底に潜んでいた恐怖が、静かに顔をのぞかせる。仮に彼の力を借りるとしても、利用されるだけになるのではないか――そんな不安がクオトラの胸を締め付ける。冷たい汗が背中を流れた。


「それは……また最後に話そう。今は、一つ先に教えておきたいことがある」


 トゥルエイトは、クオトラの沈黙を気にも留めず、胸元から銀色のコインを一枚取り出した。


「私は、未来を知ることができる」


 そう言いながら、トゥルエイトは軽やかにコインを弾く。その軌道を目で追う間もなく、彼は表側が出ると断言した。クオトラが驚いてコインを確認すると、そこには竜の紋様が刻まれている。


「もう一度やってみようか」


 トゥルエイトが再びコインを弾くと、裏側が出ると言い切った。その結果もまた彼の言葉通りだった。彼は十度ほど繰り返してみせたが、どの結果も的中する。


「こういった二択の話であれば、私はほぼ完璧に当てられる」


 平然としたトゥルエイトの言葉に、クオトラは一瞬言葉を失う。そして、かつて模擬戦の最中に耳にした言葉を思い出した。


 『確率では勝ったが……悪運が強かったな』


 その意味が、今になってようやく理解できた。


「まさか……あの模擬戦中も僕の行動を……?」


「そうだ。ただし、人間のように複雑に動く存在を完璧に予測することはできないよ」


 トゥルエイトは淡々と言い放つ。その一言が、クオトラの胸にさらなる驚きと無力感を突きつけた。彼と戦っていた相手がそんな力を持っていたとは。そして、もし残る竜の器たちが同様の力を持っていたら、自分はどうすればいいのだろうか。


「君が思うほど便利な力ではないさ。それに、現代の竜の器にはこんな力は備わっていない」


 トゥルエイトは、クオトラの思考を見透かしたように続けた。そして、少しだけ声を低くして語りかける。


「竜神は、私が持つような力を持っている。そしておそらく君の目的も、彼らに関係している」


「なんで……?」


 クオトラは息を飲む。自分の目的、赤の竜神に復讐を果たすという思い。それがトゥルエイトには完全に見透かされているかのようだった。


「やっぱり、そうだよね。君のように生き残った者は、多かれ少なかれその感情を持つものだ。わざわざ故郷に戻ってまで力を欲するというのなら、なおさらね」


 さらに言葉を重ねるトゥルエイトの口調に、恐怖がこみ上げる。蒼の欠片を手に入れていることまで知られている――それを認識した瞬間、クオトラは底知れない恐怖に襲われた。


「僕をどうするつもり……?」


 声を震わせながら問うクオトラ。今ここで殺され、欠片を奪われることだってあり得る。そしてそんな最悪の展開を想像するたび、全身が震え、冷たい汗が伝う。やけに冷静な脳が、次の行動を探るように椅子の背もたれを握りしめた。


「安心しなよ。言っただろう? 私は君に手を貸すと」


 呆れるほどマイペースな声に、クオトラの緊張の糸が切れる音がした。どっと力が抜け、大仰な音を立てて座り込む。その様子を見て、トゥルエイトはわざとらしい笑みを浮かべた。


「実は、私も似た目的を持っている」


 その言葉とともに、トゥルエイトの瞳が一段鋭さを増した。彼の底知れない真意が、クオトラを静かに圧迫する。

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僕は呪われたこの地で竜神に復讐を誓う Kirsch @kirsch24

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