終色
「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
玉虫イロハは手毬をつきながら、静かな声で謡う。彼女の世界が色を得てから、三月が過ぎた。私はほぼ毎日玉虫楼に通い続け、そして彼女に世界の色というものを教え続けた。それは、目薬師というものの職掌を遥かに逸脱した行為ではあった。また、別に私がやらなければ他の誰かにはできないという類の作業でもなかった。しかし、それでも私はそうした。一つには好奇心のためであり、そしてもう一つには、この少女に対して感じる、無私の情によるところのものであった。
結果として。
イロハの世界は、まあ八割方までは、我々の視ているのと同じような色彩を得るに至った。完全に同じではないのはやむを得ないが、そもそも人の目の機能などというのはその程度のものだという話でもある。そして、大晦日の夜にも往診をして、玉虫楼を辞するときの話である。
「それでは、よいお年を。宋庵先生。本年はほんとうに、わちのためにこれほどまでにしていただいて、感謝の言葉もありませぬ」
「いや。よいのだ。拙僧は医師である。当然のことをしたまでよ」
と、言うのはかなり嘘であるが、そう言っておかないといけない気がした。
「ふふ。医師だから、ですか。宋庵先生は嘘が下手でありんすね」
「なんと申されるか」
「見せて差し上げましょう」
と言って、イロハはまず十数える間、瞳を閉じた。そして目を開き、私の方を見た。
「わちには、宋庵先生の姿はこのように見えていんす」
私はイロハに色を同じくされ、そして自分の手を見た。人間の体色とは異なる、不思議な燐光を放っていた。それは、優しさと慈愛の色。まるで下界に顕現した観世音菩薩を見るかのような。そのような姿であった。
「宋庵先生。わちは、せんせいを好いていんす」
その顔は微笑みを浮かべていたが、口調は戯れのそれではなかった。
「好いて、どうとなることもないと、分かってはいんすが。それでも、好いていんす」
「そうか。悪い気はせぬよ、拙僧のこの年でもな」
と、言っておいた。
帰路、雪に降られた。私は風邪を引いた。年が明けたあとも、病臥を続けた。使用人くらい使っているから看病はしてもらえるが、目が専門とは言っても医師のはしくれである。これは、どうやら駄目そうであるな。それが分かった。まあ、年も年である。無念というほどの無念もなかった。
病はますます篤くなっていった。もう食事もとれない。そんなある日のことだった。玉虫楼から、一葉の手紙が届いた。そこには、差出人の名すら無く、ただこの四文字だけが、いろは文字で書かれていた。
「せんせい」
私はそれを見て微笑み、そして、急に胸が苦しくなるのを感じた。意識が遠くなる。私の視界から、全ての色が消えていく。だが、悪くはない生涯だった。玉虫イロハのことを想う。どうか、彼女のこれからの生涯に、幸の多からんことを。
彩色少女玉虫イロハの比喩的な日常 きょうじゅ @Fake_Proffesor
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