第44話 龍の本能

 逃げる兵をたっぷりと眺めてから、龍がゆっくりと身を翻す。西を向けば遠く布谷ふやが見える。


「だけど、あなたも気をつけなきゃいけないわ。あの人の怨みを買うのは二度目のはずだもの」

『うん? 二度目だと?』

「八年前にアラライの弟皇子を殺しているでしょう。彼はその縁者なの」

『我の楔を抜いた若子わくごだな』

「その子だわ。どうしてアラライは生きて返してあげて、弟皇子にはそうしなかったの?」

『人の節理である』


 龍は噛み締めるように、一度口を閉ざした。


『七つを迎えぬ人の子は、まだ生まれきっていない、水底の泥のような存在だ。あれの弟は七つを越してすぐで、祝いを行っていなかった。まだ、人とのあわいであったのだ。そういう者は、狭間に触れると神域に行ってしまう』

「それなら、アラライは七つの祝いを済ませていたから返しただけだというの?」

『そうだ。七つの前までは、巫女でなくとも神を見、声を聴く者もあるが、祝いで人として地に足がつくとそれもなくなる。我らの神域に溶け込めなくなる。我らではなく、お前たちが変わるのだ。わかるか? 巫女よ』


 そう言われて、ユメは少し寂しい想いをしたことを思い出した。


「幼い頃にはめずらかな小鳥をみなで愛でていたのに、いつの間にかみなには見えなくなったわ。そういうこと?」

『神域生まれの鳥であったのだろう。なあ、巫女よ。人間が夜には眠り、飢えれば食わずにいられぬように、我ら龍にも抗えぬ本能がある。此度のような介入がなければ、我らは体内より出づる声に従い生きる』

「あなたたちの本能って、……人を殺してしまうこと?」

『確かにそうすることもあるが、それは本来ではない。我らは天地あめつちの代理にして 自然の体現である。無論、意思と智を行使する能はあるが、基本的には天地の求めに従う』

「どんなことを求められるの?」

『我は時折体が疼く。鱗の裏が掻きたくてたまらなくなる。それはもう止められぬものだ。だが我が鋭き爪も、鱗の裏には届かぬ。そんなときに――――天降山の渓谷で身を削ると少しばかり紛れる。痩せた土地の感触も気休めとなる』

「それで、数年おきにあなたは穂高と仙の地を荒らしに来るのね」


 仙ノ国のほうが龍害が重いのも、そのためかもしれない。穂高の土地は富んでふかふかしているけれど、仙の土地は石混じりで硬く割れていると聞く。


「でも、それだと人間と龍は相容れないわ。数年に一度あなたにぶつかられたら、とても暮らしていけないもの」

『そうだ。我らは人間と相容れるものではない。此度は我が若宮がいて、我が巫女たるお前がいた。お前たちの声は、我が理性によく効いた。だが、声は常に届くわけではない。我が心は荒れ狂う川そのものだ』

「わたくしたちは、平和に生きていきたいわ。あなたたちが荒れ狂う自然なら、どう付き合っていったらいいの?」

『これまでは、御饌を差し出し鎮めてきたではないか。それも一手だ。好ましいものではないが、一時の慰めになる』

「ひと時だけだなんて……」

『我らを調伏する手もある。人間が力をつければ、そんな時代も来よう。それから、土地を諦め逃げ出すこともできるのではないか』

「どれも、難しいわ」

『難しかろうな。だが、龍は牛、馬のように、人間の都合で動く生き物ではない。それを忘れるな、我が巫女よ』

「わかったわ。今回は力を貸してくれてありがとう」

『龍にも情はある。いつだってお前たちに力を貸してやりたいものだが……』


 ユメは龍の鱗を撫でた。


「あなたが心優しい龍なのはわかってるわ。いつもこうはいかないことも……ちゃんと理解した」


 龍が大きく頷いた。

 ユメは振動でずり落ちそうになる。

 なんとかよじ登り、角の際に座り直したが、なんだか違和感があった。手をにぎにぎと動かしてみるが、先ほどまでよりも力が入りにくい気がする。


『お前を元の場所まで送り届けたかったのだが、叶わなさそうだ。お前の声が遠くなってきた』

「どうして!」


 反射的に言ってから、ユメははっと目元に触れた。

 龍と話せているのは、アラライの髪に宿る載福を貰ったからだ。龍にしがみついていられるのも、載福がユメの持つ穂高の民の古い力を増強させたから。


「載福が、尽きてきたのね」

『そうだ。もうじき、お前の目の色も戻るであろう。理性が霞んでゆくのが、口惜しいな……』

「わたくしを送り届けなくていいわ。あなたは布谷国を離れて」

『そうもゆかぬ。もう体の自由が効かない。塞の川に戻らねば。ああ、鱗の奥がこそばゆい。削らねば。早く、少しでも早く』


 龍の声が熱に浮かされてきた。突然荒々しくなる龍の動きに、ユメは咄嗟に腰紐を解き、体を龍の角に強く括り付ける。

 布谷国はもう目と鼻の先だ。


「だめよ! あれはアラライが守っている国よ。なんとか避けて。ねえ。わたくしの声、まだ聞こえてる?」

『き、こえ、ぐ、ぐううううるるるるるるる――――』


 わずかに龍体が軌道を変えた。布谷の真ん中を目指していた龍の向きが、布谷の端に向かい始めた。

 もう少し向きを変えたい。

 なのに、龍の声がただの唸りに戻ってしまっている。


「お願い! 聞いて、あと少しだけ。こっちに寄るの。お願いよ。アラライが守っている街を壊さないで」


 龍の急降下に、ユメは目を見開いたままぐっとしがみついた。

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御贄のヒメは捨て皇子と果てない国のユメが見たい 宿花 @yomihana

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