第43話 襲撃

 タカタダは昂っていた。

 布谷ふや国はがく国群くにむれから見ると取るに足りない小国だ。

 とはいえ、非常に重要な隣国である。

 それというのも、布谷は大陸と最も近く、最も安全な航路を持つ唯一の国だ。

 それが厄介なのだ。


 長年、萼ノ国群は、小国をいくつか挟んだ先の布谷国と、友好を保つことによって港を借用してきた。大臣連中がそれに満足できなくなったのは、あの忌々しい捨て皇子のせいだ。

 うまいこと都落ちに追い込んだはずの捨て皇子が、追放先を次々と併合したせいで、とうとう布谷国と国土を接するに至ってしまった。

 萼ノ国群は代々、皇子が中心となり、周辺国を併合することで巨大化してきた国家群だ。

 そうすると欲が出る。

 莫大な利用料を支払って港を間借りするよりも、布谷のような小国など併合してしまうべきだという声が日に日に大きくなる。


 これで布谷国併合と港の獲得まで捨て皇子の功績になれば、皇太子は確実とされている甥皇子の立場はどうなってしまうのだ。

 まだ元服前の皇子を、捨て皇子のほうが優秀だなどと噂されるような惨めな皇太子にするわけにゆくものか。

 あのような、行く先々の国を下しておきながら「そんなつもりはなかった」と被害者面する一の皇子の息の根など、今度こそ止め切ってやる。


 そう決意し、万全の準備を整えたはずなのに、なんなのだ、これは。

 よぎった影に、雲が出たのかと見上げたそのときだ。

 天がまるごと落ちてきた。

 いや、これは水だ。

 驟雨だ。

 飛瀑だ。

 信じられない量の水流と共に、飛沫色の大綱が突如として軍勢を急襲した。

 タカタダはこんな光景を、前にも見たことがある。

 八年経っても色褪せない記憶。

 これは悪夢だ。

 悪夢がタカタダを追ってきた。


 事は一瞬であった。

 軍勢がなすすべなく腰を抜かす間に、軍は一まとめに包囲された。

 人間にではない。一枚一枚をとっても盾より遥かに大きく厚い鱗をびっしりと生やした、一柱の龍にである。

 その鱗は暴力的なまでに鋭い光を乱反射させている。

 我に返ったつわものたちが矢を射かけようにも、目が眩んでまるで当たらない。それどころか剣で切りつけても、傷にすらならないのだ。

 驚いた馬が怯え、前脚を高く上げる。馬の背からタカタダは転がり落ちた。


 そうして落ち伏した大地から空を見上げたのは、幸いであったのかもしれない。

 巨大な龍の背に乗っている娘が、タカタダにだけは見えた。

 あれは、捨て皇子の背に庇われながらも、墨を何度も上塗りしたような重黒い目でこちらを睨みつけていた穂高の姫。それがなぜ、龍の頭上で龍に指示を叫んでいるのか! なぜ龍は従うのだ!?

 布谷国と捨て皇子に圧倒的な国力の差を見せつけるため掻き集めたはずの軍勢が、武器すら持たぬまま這いずり、方向もわからずに逃げ出してゆく。

 タカタダも引きずり退却させられた。

 半狂乱の従者は、到底前が見えるとは思えないほど泣き散らかしている。

 その最中にも、タカタダの目は娘に釘付けられていた。

 生き生きとした表情。姫君とは思えぬ溌剌とした声。歴戦の将のような、龍への迷いのない明解な指示。

 その指示の示す先に気付き、タカタダは愕然とした。

 娘の操る龍は、たった一方向に対してだけは近寄りも、地を打ち砕くこともしていない。必定、もう軍勢とも呼べぬ男たちはすべて東に逃げ出してゆく。

 もう、挫けた彼らを西に攻め入らせることなど、どう強要してもできやしない。


 タカタダは娘を目に焼き付けた。

 龍が怖いのか?

 いや、あの娘のほうが、何倍も恐ろしい。

 地上を睥睨していた娘の瞳孔が、きゅうっと引き絞られた。

 この軍勢の中から、タカタダを見つけたのだ。

 見開いた黒い目に宿る、色鮮やかな怒り。そこには娘らしい情や油断もない。

 娘は躊躇いなく、タカタダを指差した。

 龍が来る。

 龍が来る。

 龍が来る。

 捨て皇子と同じ蛮人色の眼がぎらりと光る。


 開かれた口の大きさに、怯えた従者がタカタダを突き飛ばした。

 ぐしゃり、と音がした。





「そんなに楽しいものじゃないわね」

『手心は加えてやった。死にはしない』

「あれで? 右肩まで噛みちぎっていたじゃない」

『だが傷口の血は焼き止めた。痛みが絶えぬようびっしりと、枯れ鱗を逆立てて食い込ませてやったがな』

「あの人が釣られた魚みたいにぴちぴち跳ねていたのは、痛みのせいね」

『我が眷属の前で若宮の腕と鱗に手を出した罰だ。……だが、あれは最後まで我らから目を逸さなかった』

「報復に来るかしら」

『来るだろう。ねちっこい顔をしている』


 あの爬虫類顔のことだろうか。ユメは思い浮かべた。

 顔に頼るまでもなく、八年前の恨みを綿密な計画に落とし込んでくるあたり、彼は決して引かない性格だろう。


「アラライのことを忘れて、わたくしにやり返しにくるなら本望よ」


 ユメは心の底からそう言った。

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