第42話 白虹空を駆ける

 龍は空を駆け上がる。

 屋根を越え、屋敷全体を見下ろせるまで昇っても、まだ龍の身のほとんどは地についたままだ。

 龍の胴回りは川幅ほどもある。龍の尾は遥か遠く、目に映らない。

 地上のアラライが親指ほどに小さくなったあたりで、龍はユメを振り切るために上昇するのを諦めた。

 ユメは隙を逃さず、より安全そうな角の付け根まで這い上がる。


『なんだ、この無礼な小娘は』

「これでも少し前まではあなたに敬意を払っていたのよ」

『信じられぬ。いわんや、起こり得ぬ事態だ』

「人もあなたを見てそう思ってるわ。それにわたくしも思ってる。今のいままで龍神さまとお話しができるとも、昔ばなしに聞くような百人力が発揮できるとも信じていなかったもの」


 やれやれ、というように龍がげふっと息を吐いた。

 ぶわりと霧が立ち込める。

 冷たい川のにおいがする。


 地上では、クラがアラライに何か問い掛けている。

 話がつき、仰いだクラの目は厳しい。

 その隣で、アラライがユメを目で追い続けているのを、ユメは知っていた。

 怒りのやり場を奪われ迷い子のような顔をしていたアラライは、ユメが龍の角を掴んだときにふっと目をやわらげた。


(信じてくれてるような気がする。少なくとも、あの人はわたくしを心配という名目で縛り付けたりしないんだわ)


 ユメは顔の横で小さく手を振ってみた。アラライは手を振り返してはくれなかったけれど、はっきりと頷いて、遠巻きにしていたカザハヤに身振りで指示を出し始めた。


(下のことはしばらく任せておきましょう。それより、わたくしは龍をこの場から引き離さなければ)


 今このときにも、龍の半身は川から這い出すかたちで地上を掻き回している。


「龍神さま。あなたはアラライを傷つくことのないよう守りたいのよね」

『そうだ。不遜な娘よ』

「なら、アラライが何に傷つくのかを把握しなきゃいけないわ。あなたが彼を傷つけたら台無しでしょ」

『そうだ。お前は無礼だが、物の道理を弁えているな』


 龍は想像よりもお喋りだ。それに余計なことばかり口にする。


(そういえばアラライに心短き神と言われていたものね)


 七昼夜の記憶がないと言ったアラライだが、龍と接したことを覚えているのは確かだ。その、おそらく短い記憶の中で短気だと判断したのなら、穏やかならぬやりとりがあったということ。

 アラライはこの龍のねちっこい嫌味を嫌がるだろうか。

 とても苦手そうだ。

 何にせよ、怒らせるのは得策じゃない。ユメは気を引き締め直す。


「アラライはこの国での暮らしを大切にしているわ。怒りまかせに辺りを壊すのを、彼は望まないはず」

『傷を負わされ、身を危ぶまされてもか。理解できぬ』

「地上にいるのはアラライに従う人たちよ。アラライを傷つけた人は、逃げてしまって、もう此処にはいないの」

『ふむ。それがお前のう、あの者の敵か。何処へと逃げた? 人間の足は遅い。遠くはなかろう』

「どこかっていうと…………」


 龍の背の高さを活かしあたりを見回したが、街の境がようやく見えるかといったところだ。きっと街はもう出たあとだろう。

 布谷王に手をかけ、蛇から釘を引き抜き、彼は何処を目指すだろうか。


「あの人――タカタダ少将はこの屋敷があなたの手で壊滅させられるのを待っているわ。そして、この国の人たちが立ち上がれなくなったところで、必ず攻めてくるはず」

『狡猾な卑怯者か』

「そうよ。だからきっと、こちらの様子を見ているわ。わたくしなら屋敷の裏手から、川上に向かって退却する。街境いまでの距離が短いもの。それに、少将はこの地を落とすために、国元から一軍を連れてきて身を隠させていると思うの。向こう側に、偵察のための小高い丘とか、大勢が身を潜めやすい林とかはないかしら」

『いくらでもある。居るまで探せばよい。若宮の敵は我が威光の翳りである。愚か者には心胆寒からしめてやらねばなるまい』


 龍は詩を吟じるように、声に抑揚をつけ、愉しんでいる。顔を見ずとも、口角を持ち上げているのがわかる。


『我が身を若宮の剣とし、進む道をならしてやろう』

「きゃあっ……!」


 心くように身を翻した龍は、東に向かってぐんと推進した。

 龍の顔が風を切り、髭がぴしゃりと頬を打つ。

 ユメは歯を食いしばり、必死に齧りついた。

 角に腕を回し、足を踏ん張って、しがみつく。

 しがみついて、しがみついて、そしてふっと体が軽くなった。


 上昇し尽くした龍は、鷲のように風に乗っている。

 ユメが後ろを向いても龍の尾は見えないほど遠く、まだ地の底にあるようだ。その身は急流のようでもあり、また、空に大きな弧を描いているようでもある。


「すごいわ……寝物語の中にいるみたい。きっと地上からは、白虹はっこうのように見えているでしょうね」

『なんだ。知らぬのか。虹と龍とはそれほど違いが無い。お前は国産みの神以来はじめて虹の背に立った者かもしれぬぞ』

「大神と並べられるなんて、いみじき心地だわ」

『嬉しいのか?』

「そんな言葉では到底表せない思いよ」

『不可解だ』


 龍は鼻息を吹いた。

 突風になるのでやめてほしい。


「そんなことより、見当ての場所はどこかしら」


 街境は昇る最中に見送った。

 ユメは身を乗り出し、そして感嘆の声を上げた。


「海よ! そうよね!? 白砂の上を行ったり来たりしているあれは、白波というのよね?」

『然り。とはいえ海には居るまい。浅はかなお前といえど、本分を見失うほどであっては困るぞ』

「ちょっと地形の確認をしていただけじゃない。怒らないでくださいませ」


 ユメは一人はしゃぐのが恥ずかしくなり、つんと顎を逸らした。

 龍はそんな小娘の挙動を好々爺のように笑う。


『ほっほっほ。よき地形ならば此方こなたにもあり、彼方かなたにもある。れにもれにも生き物は居るが、我にはどれが探すべき愚か者なのか、判別つかぬ。いっそ、すべて吹き飛ばすのはどうだ』

「やめてほしいわ。確実に退けられたかどうか確認できなくなるもの。それに、アラライは敵が狡猾な卑怯者だからって、命を奪うのをいやがると思うの」

『理解できぬ。生かしておいては逆に命を奪われるのではないか?』

「理解しなくてもいい。わたくしも、あの人を生かしておくのは不安だもの。今後もずっとわかり合えそうにない相手なら、いなくなってもらったほうが話が早いわ」

『人間なのに、お前の考えは我に似ているな』

「人間だって、それぞれ考え方は違うものよ。ただ、自分と考えが違っても尊重することはできるわ。アラライの想いを尊重して、彼の望まざるをしないこと。これなら、できそうだと思わない?」

『得心は行かぬ。だが、お前は我が巫女だ。お前の話に乗ってやろう』

「うんうん。それでいいのよ…………って。えっ?」


 ユメの頬を風が撫でた。

 ぱちくりとまるくした目を開いては閉じ、耳をぴんとする。

 期待がユメの声をはずませた。


「ねえ。今、我が巫女って――」

『ところで。下を見よ』

「もうっ」


 ユメは出鼻をくじかれ、頬をふくらませた。

 しかし、その不満はすぐに取って代わられる。


『我らの敵は、もしやれではないか?』


 正解に辿り着いたからである。


「さっすが龍神さま! 行くわよ、急降下」

『しっかり捕まっておれ』

「敵は吹き飛ばさないでね。打ち付けてもだめよ。殺さず追い払うの!」

『どうやってだ。注文が多い!』

「回り込むのよ。竜巻のようにぐるりと。そっちじゃない! こっちよ。こう!」


 龍は直滑降した。

 真珠色の鱗が無数の鏡のように陽光を乱反射させる。虹色の暴力的な煌めきと共に、空中の水分がすべて飛沫となって龍身に付き従った。

 ユメの指揮で敵軍に迫る龍は、天空の原から落ちる滝のように、彼らの視界のなにもかもを奪い尽くした。

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