Rosetta

姫乃 只紫

Eureka

「私は、幻聴が聞こえるのです」

「ほう」

 あの日から、もう二度とまろび出ぬようにと封印していた相づちがあっさり転び出る程度には焦った。

 この令和に分煙も行き届いていないカフェに誘うだなんて、コロムビアとモカの違いがわからぬどころか、店を選ぶ気配りもできない男なのですねと。だから、距離を置こうとしているのではないかと、幻聴というプラスアルファで暗に僕を遠ざけようとしているのではないかと、そううれえたからである。

 向かいに座る君の顔に陰りはない。否、さきほど紅茶を一口味わって、ひそかに眉をねじっていたから、そういう意味でどこぞに陰りはあるやもしれない。


「今日は紅茶を注文しろだとか、砂糖はいくつ入れろだとか、お前のような出来損ないは死んでしまえだとか、命令や罵りの類に晒されるわけではないのです。むしろ、声をかけられた憶えはありません。自分がラジオになって、他の人の世界に周波数が合ってしまったみたいに、カップルの痴話喧嘩だとか、家族の団らんだとか、夫婦のピロートークだとか、そういうものが聞き取れるのです」


「なるほど。貴女に向けたものではないと」

 内心、首を傾げる。どうも──悲観的に捉えてほしい話ではないらしい。

 となると、僕も殊更眉尻を下げるわけにはいかない。手前勝手に君は可哀想ですねという顔をすれば、これはもう可哀想な話になってしまう。傾聴に徹しろ──ということだろうか。そのくせ君はもう喋る気はないらしく、自身の紅茶と僕のコーヒーをしげしげと見つめたあと「選択を誤りました」という呟きを最期に、しばし石になってしまったものだから──。

 僕が、何事かを発しなければならない立場にあるらしい。

「ええっと──」

 考えながら、言葉を探る。要するにいつものことだ。


「その、ジュリアン・ジェインズが書いた『神々の沈黙』のなかで、実は人間にはもともとあらゆる声が聞こえていたのではないかという説があるのです。脳の右半球から発せられる心の声が、まるで外から聞こえるみたく左半球に知覚されて、これは神様からのメッセージじゃあないのかと、そんなふうに内からの声と外からの声をうまく識別できない時期があった。つまり──聞こえていない僕らが本流で、貴女がルートを外れたのではなく。むしろ、聞こえている貴女こそが本流で、ルートを外れていったのは聞こえていない僕らの方なのではないでしょうか」


 云って、はたしてこれは何だと思う。

 貴女は、かつてマジョリティだったかもしれない。どこから見ても、可哀想であると判じたがゆえのフォローめいている。できることなら僕も「選択を誤りました」という呟きだけ遺し、石になってしまいたい。

 スピーカーから流れる、噓のように厳粛な旋律。辺りをはばかる笑い声がさざめき、カップとソーサーがかちゃかちゃと触れ合えば、ドアベルが高く来客を告げる。やすらかな潮騒。フェイクではないというのに。いまだ黄昏に縋る面影が、ありもしない音のつなぎ目を探し出したところで──。

 あっという君の発声に、知らず伏せていた顔を上げる。

「どうしました?」

「聞こえた」

 幻聴が──という言葉を舌で絡めとり、口蓋にひっつくより先、嚥下する。

は──何と?」

 紅い唇がひかえめな笑みを引く。


「可愛いですね。貴方は」


 不覚にも、ちょっとくらりときた。

                ※

 ビビットピンクのイヤホンが、僕たち二人を繋いでいる。あまりにも皮肉が過ぎる架け橋だけれど──。夕暮れのオレンジイエローとのちぐはぐなコントラストが、僕には世界で一番綺麗に見える。二人ともが似たような格好で膝を抱えているのが少しおかしく、イヤホンからは潮騒が聞こえている。馬鹿みたいだ。目の前に本物があるのに。


 この砂浜は、もうしばらくは大丈夫なのに。


 実際の波の音とイヤホンから聞こえる波の音で、副交感神経の活性レベルに違いはあるのか──そんな実験の被験者になった気分だ(もっともそれぞれを同時に聞いている時点でその実験に意味はない)。自嘲。真に被験者であればどれほど良かったことか。そこはもっと押すところだぞ青年とか、研究者諸君に随時アドバイスしてほしかった。

 海風が赤みの入ったチョコレート色の髪を梳かす。ピアスの有無は、優し過ぎて見えない。

「その上から目線、止めた方がいいよ」

 素直にびっくりした。

 この浜辺から半径六三〇〇キロをくまなく捜索したところで、僕より謙虚な男子高校生など見つからないだろうに。

「上から目線──ですかね」

「うん、自分のしたいことなーんにも言わないじゃん。してほしいこと、この人はしてくれないって決めつけて何も言わない。前に言ってたっしょ。かわいいは下に見てるみたいだから、あんまり使いたくないって。似たようなもんだよ。いつも自分は皆より大人だから辛抱できますって顔して、誰も彼もかわいいって下に見てる」

 怒涛だ。

 決して責める語調ではないが、頬が引きつる。目線が君の足許へ逃げる。

 巷では──またルーズソックスが流行りはじめたらしい。僕はまた目端に君の幻覚を見るのだろうか。嘘。あの頃、君はそんなもの履いていなかった。ルーズソックスはとっくに廃れてしまっていた。つまるところ、僕が求めているのは。

 君を忘れられない僕を体よく正当化する口実。

 

「この人、僕の気持ちを察してくれないかな~じゃなくて、察してくれる相手こそ自分にふさわしいと思ってるんでしょ」

  

 よく見てるなぁ。いつも僕の斜め前を歩いていたのに。

 振り向かなければ、君の景色に僕はいなかったのに。

 君が俯いた。髪の束がちらりほどけて、白い耳たぶが覗く。結局、誕生日も聞けずじまいだった。

 

「先輩は私のこと憶えてるかな」


 凄いな、この流れで云うのか。

 涙ながらに、云ってしまうよな。貴女なら。

 空を仰いだ。両手を後方について、立てた右膝はそのままに左脚を伸ばす。儀式的だった。「女性の恋愛は上書き保存、男性のそれは名前を付けて保存──なんて云いますけど、あれは一応的を射ていて、女性の方が過去の恋愛を忘れやすくはあるんです。女性は複数のパートナーの子どもを同時に身ごもることができませんから、生物として昔の相手を記憶しているメリットがあまりないんです。対して男性は、倫理的なところに目を瞑れば複数のパートナーと子どもをつくることができる。身重みおもになって行動が制限される心配がないですから。一度別れた相手でも復縁の可能性がゼロでなければ、憶えておいた方が好都合なんです。より多くの子孫を残すという意味で。ですから──」

 だから──。


「先輩はいまでも貴女のこと、忘れられないでいますよ」


 そして、君は先輩のことを忘れる。ペットのようについて回る砂時計を、偽りの潮騒を、蛍光色に彩られた『銀河鉄道の夜』を、何だかんだ造りのイヤホンを、沈みそうで沈まないこの砂浜を忘れる。それくらい貴女を充たすにふさわしい、素晴らしい男性ひとと巡りあう。

 どうかお幸せに。

 

 ざわと場面が変わる。

 

 ストークスの法則。君を受け止めて、首の後ろに両の腕を回された、あの瞬間に帰る。

「ねぇ」

 困ったように笑う君の睫毛は、涙を湛えている。

 この黄昏では、涙は上に落ちるらしい。だから、君の頬が濡れることはないし、君の頬を伝うそれを拭う適任者はいやしないかと僕があたふたする心配もない。にしても、上ってゆく情緒性の滴が一人分にしては随分──と思った時点で。

 悔しいかな、察した。

「さっきの慰めてるつもり?」

 耳たぶに甘く爪がくい込む。ああ

 精一杯だよ。

                ※

「貴方は優しい人ですね」

 評価に心当たりがなかった。僕はと云えば、君の話に適宜相づちを打ち、話が途切れては蘊蓄を垂れて場を繕った気になっていただけで。カップの底が見えないほど濃くなった、まずい紅茶みたいなムードしかメイクできない男である。

「それは、優しい以外取柄がない男に云う言葉なのでは?」

「だから、その唯一の取柄を大事にしてくださいという意味です」

 ぐうと危うくを上げるところだった。

 君が席を立つ。へっと頓狂な声を上げた僕に向けて、ワイングラスみたく掲げられる文庫本。ああ、返しに行くのか。カフェのこじんまりとした本棚には、純文学を中心にした古書が並んでいる。しずしずと本棚に向かう君を見届けて、細く息を吐いた。なぜ一瞬とはいえ。


 置いて行かれてしまうなどと考えたのか。


 君というひとは、よく目だけで心のうちをあらわにする。

 去り際の目が、また可愛いと云っていた。

 ──誰も彼もかわいいって下に見てる。

 すなわち、可愛いだけで終わりたくないなら、したいことを、してほしいことを。


 望みを告白せよと。


 コーヒーにそっとスプーンを浸す。水位が僅かに増したのは、スプーンのある場所にそれまでコーヒーがあったからだ。流れて、スプーンをかわして、他の行き先を探す。しかし、混ぜたところでどこへも行けはしない。それこそ、カップの縁を超えてこぼれでもしない限りは。同じところをぐるぐるぐるぐる。

 スピーカーから流れる、噓のように厳粛な旋律。辺りをはばかる笑い声がさざめき、カップとソーサーがかちゃかちゃと触れ合えば、ドアベルが高く来客を告げる。やすらかな潮騒。フェイクではないというのに。黄昏に手を振る面影が、ありもしない音のつなぎ目から──。

 探し当てる。

 その上から目線、止めた方がいいよ。

 わたしになにかしてほしいことはありますか。

 望みを告白せよ。


「聞こえた」


 動かしていたスプーンをぴたと止めて。頬杖をつき、時計回りの渦にしばし見入る。吐息混じりの笑みがこぼれた。ここに、もうあの黄昏はないので。こぼれたものは従順に下へと向かう。もう少し気障ったらしい言葉でも良かっただろうに。

 声は──何と。

「ここにいて」

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Rosetta 姫乃 只紫 @murasakikohaku75

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