後編 接吻
灰色の麦畑に、枝だけになった葡萄棚に、初雪が舞う朝。ラカトシュ先生が退任した、と校長先生より報された。一身上の都合というが、昼食時には掲示板に赤文字のポスターが連ねられた。
ラカトシュ・ラヨシュ元教諭は、フランス女と通じ、西側陣営へと機密を漏らしていた! 生徒諸君、我らは団結して、反
突然に先生が消えた。衝撃は恐れと共に広がり、しかし、自分は恐れを抱く側ではないと表明する運動を引き起こした。いくつもの勉強会が開かれ、上着の胸に紅巾を挿すことが流行った。吊し上げが始まるのに、時間はかからなかった。
アスティファヌスも。ユダヤ
取り囲まれ、弁明は聞かれもせず。私はもう声も挙げられない。陰湿だった。先生に見咎められないよう、顔には手を出さない。腹を押さえて部屋に戻り、寝台に倒れ込んで泣いた。アスティファヌスは、あやすように背を打つ。
「みんなすぐ飽きるさ、根も葉もない」
毎度、この調子。この男は辛いとも、悲しいとも口にしない。私はついに、八つ当たりに手を払った。
「僕の罪は事実じゃないか!」
「君が? 一体、何をしたって?」
「エステルハージ家だ。民から収奪して生きてきた。幾代にも渡る罪だ」
未だ耳に残る「級長伯爵」と囃し立てる級友の声。級長の証である金の襟章は、襟ごと引きちぎられて、窓から吹雪の校庭へと投げ捨てられた。教科書も鞄も、靴までも。
先生にも父にも、訴えはしなかった。しかし、エステルハージへの視線など、庁舎でも変わらなかったのだろう。父は繰り返し言い聞かせた。我々は誰よりも同志スターリンに忠実な者たらねばならぬ、と。
そう努めてきた。私が級長に任じられたのも、
「民に赦されるまで、誰よりも国のために働いているのは僕たちだと、示し続けるんだ。いつか、贖えるまで……」
背中から抱き締められて、煙草の匂いが私を包む。慰めの指先が、髪を梳く。
「神は全てを赦したまうよ」
「……僕は、もう」
「それすらも」
彼の指が肩を撫で、私の指と絡まる。冷えた指先が熱に解けゆく。彼の熱が入り込む。
「……ねぇ、イシュト。レバノンに行ってしまおうか。誰からも責められない、迫害もされない」
軋む寝台と、木枯らしに震える窓。この国にあるから、罪人ならば。逃れられたら、私は──。
「……行かない。僕の祖国はこの国なんだから」
決意の声も、涙に揺らいで消えてしまう。
終業日の二十四日。生徒たちは列をなしてそれぞれの家へと向かう。私は、自分も残ると言う彼を重ねて諫め、送り出した。
夕食は空席ばかり。部屋の窓から町を見下ろしても、通りは真闇。家々から漏れた赤い光が、窓辺の雪に照り返り、辺りを染める。その光景も、私の吐息に陰った。
寝台に仰向けになり、父がモスクワから寄越した手紙を読み返す。両腕を広げて、目を閉じる。昔は、幸せだった。
水晶の玉飾り、蝋燭の灯。
Stille Nacht, heilige Nacht,
Alles schläft; einsam wacht
領地を去る日の朝、母の十字架を聖堂の聖母像の手に掛けた。やがて取り壊されると知りながら。……ああ、私は本心から望んだのか。形見の十字架と替えてまで、紅巾を首許に留めることを。
静けき夜、聖しこの夜。
皆人眠り、そして、独り
扉が三度、遠慮がちに叩かれた。時計は十一時に近付く。舎監だろうか。しかし、細く開けられた扉からは──
「イシュト、まだ起きてた?」
アスティファヌスが呼びかけた。
聖堂の脇戸を揺り開けて、彼は尖塔の螺旋階段を昇る。小部屋に蝋燭が灯されると、大小のキリスト像や聖母子像、天使像が私たちを取り囲んで姿を現した。どの像も、棚の聖書も銀器のいずれも、埃を被った様子はなく、慣れた手付きで点けられてゆく灯りに艶と影とを増やす。
薄い毛布の上で、赤い葡萄酒が金の聖杯に満たされる。パンと共に、キリスト像へと捧げられる。残った葡萄酒は小さな銀杯二つに注がれ、差し出された。
「乾杯しよう」
いくつもの灯りを宿す、微笑みの目。杯を受け取り、捧げ返した。重ねる口は、鐘の音の代わり。冷えきったキリストの血を飲み干す。ただの葡萄酒だと言い聞かせながら。罪の上塗り、自身への裏切り。
「イシュト、君はここへ来た。神が赦し、愛したまうからだ。君も、神の子だ」
違う。誘われるままに付き従って、渡されるままに飲んでしまっただけだ。今宵を孤独に過ごすに堪えられないと、認めざるを得なかった。
「……あなただって、僕と同じでしょう?」
今夜を一人で過ごせない、孤独に圧された者。
「僕を誘ったのは、なぜ──?」
「イシュト……」
優しい響き。顔を背けても、追い来る煙草の香り。手から奪われた銀杯が転がり、毛布を出て、聖像の足許に当たる。
「イシュト、イシュト……」
熱い抱擁は、今までとは違う強引さ。暖を求めているわけではない。明確に私自身を求めている腕。手。息遣い。
「イシュト、こっち向いて」
「……嫌だ」
「向いてったら」
振り向かされて、私の面前にはいつかの夕陽に燃える目。船酔いの波音。酔いに力が入らないうちに、押し付けられる唇。割り入って侵しくる血潮の舌。
「mêlée」とは、太陽と海の交わり? 駆け寄り、刺し合う? ──海が、どうやって太陽へ向かうというのだ。太陽だけが海を染めて、太陽だけが海に沈み入るではないか。燃える炎の中心が、何色かを明かしもしないで。ただ、孤独と愛欲とが交わり、くずおれただけ。
幼き日に母を亡くした私にとって、接吻とは、形見の十字架へとなすものだった。硬く冷たい、愛の証。
屋敷地の外れには聖堂があった。白い石柱の間ごとには、イエスの生涯を描いたフレスコ画。椅子を二脚と小さな机を用意した老司祭が、にこやかに私を出迎えて、伝導の軌跡を易しく教えた。
物静かな彼が、『ユダの接吻』──騒然とする兵や使徒たちに囲まれて、ユダがイエスへ接吻する絵を前にしては、痩せた指先を力ませ、厳しい声で語るのだ。
「ユダは、自身の接吻した者こそがイエス様だと示し合わせていました。裏切りの罪です。そのために、ユダヤ人は今や滅びようとしているのです」
敗戦と棄教。接吻は裏切りの証。紅巾と、金の襟証。孤独の唇でマジャル語を語り、優等生の装いで、けれども、心の奥底ではずっと恐れていた。いつか私のユダが現れることを。神を棄てた者、偽りの
「ねぇ、イシュト……」
耳許に、苦しく詰まる息遣い。蝋燭の灯がひとつ、揺らいで消えた。そして、気付く。私たちは二人ではない、聖像たちが見下ろしているのだ。光輪を戴くキリストの虚ろな目と、目が合った。
──裏切り者め。
鉄鎚に頭を打たれたような、目も眩む恐怖。叫びは声にならない。アスティファヌスを突き放し、螺旋階段を駆け降りた。雪はしじま、寄る辺なき夜更け。陽に去られた海は、独り悲しみに暗むしかない。寂しさのまま、彼の心を求めたばかりに。
冬休みが終わって、鬱々と考え込む日々は、勉強に追われる日々に変わるかと思われた。始業日の一月四日、その昼食。ラカトシュ先生への告発文の上に、さらに連ねて赤文字の貼り紙がなされた。
ユダヤ人、エル=コーリー・アスティファヌスは、変態性欲者である! 同室のエステルハージ・イシュトヴァーンも、これと関係を持つ同罪者!
堕落なる
食堂内へと連行された私は、席にも着かずに集まる生徒たちと、先生たちの机が置かれる上段との間に投げ出された。上級生たちは、止めにかかる先生までをも取り押さえる。勝ち誇ったような、嫌らしい笑みの人垣。配膳のなされた机の上にまで登って。
「──イシュト!」
アスティファヌスが、震える腕で上体を起こしていた。顔には痣、口の端から血が滲む。思わず手を伸ばすが、後ろ襟を掴まれ、引き立たされた。取り分けて体格の良い最上級生が、甘ったるく笑う。
「自分、二十四日の晩な、部屋にいはらへんかったんやて? どこで何したはったん?」
青ざめた私に、もはや弁明の余地は与えられない。羽交い締めにされ、容赦なく襟を締め上げられる。腐肉にわく蛆虫でも見る目で、私を凄む。
「集会堂の二階で、あいつと
冷やかしと嫌悪の叫び声。変態、異常者、出て行け──! 喉を潰された苦しさに泣きむせべば、穢らわしいと、床へ投げ棄てられる。背中を打ち付け、痛みに動けない。
私はもう二度と、平穏な学校生活を送れないのだ。目立たぬよう、善良で模範的な生徒であるよう、心していたはずなのに。
全ては──酔ってしまったせいだ。褐色の頬と、黒い眼差しに。調律の外れた演奏に。優しさに。葡萄酒に。アスティファヌスの、見せられもしない内奥に──!
「大丈夫か、イシュト……!」
背に添えられた手を、力の限りに払い退けた。
「僕は変態性欲者なんかじゃない! それは、こいつだ! こいつが無理矢理、僕に、接吻したんだ──!」
私の指先には、悲しみと衝撃に目を見開くアスティファヌス。見ていられずに、目を閉じた。
「僕は……違う……」
観衆は水を打って鎮まり、私の嗚咽だけが響いていた。裏切り者。銀貨三十枚で、今更、何を得ようというのだ。私は、赦されるような人間ではなかった。初めから。
「イシュト」
やけに鮮明に、囁きの声が聞こえて、温かく柔らかな接吻が、頬へと与えられた。
「すまない、イシュト」
長いまつ毛の奥には、憎しみなど欠片もない。愛惜に潤む目。
「──決して、自分を責めるな」
その微笑みが、最後だった。アスティファヌスはよろと立ち上がると、愕然と立ち尽くす人垣に向かって歩む。一人が後退さると、道は自ずから開かれて、彼は振り向かないままに学校を去った。
若き日々を謳歌する生徒たちは、新たな季節の到来に敏い。スターリンの死が報じられるころには、既に紅巾を胸に挿す者はなく、生徒会は、各地で起こる
いない者とされた私は、ただ沈黙に過ごし、卒業後は逃げるようにモスクワへと渡った。一九五六年の秋、ハンガリー動乱が起きたときも、学窓深くに留まった。
私はもう何にも酔いたくなかった。幾重もの贖罪のため、粛々と生を全うする。そう決めたものの、祖国に生きるにはあまりに息苦しく、外交官となり海外へ出た。初めエジプトに、次いでモロッコへ。三十四歳になって、希望が通った私はレバノンに着任した。
ベイルートは美しい石造りの港町。その一等地、エル=コーリー社のレストランにて、大使は私を歓迎した。街明かりに輝く海を見下ろす店内では、西洋人も東洋人も入り混じり、料理と各国の葡萄酒とに興じる。
食前酒が注がれる。トカイの貴腐葡萄酒。日を透かすような黄金。十幾年ぶりの甘い香りを乾杯した。
ピアノの音が立った。ドビュッシーの『月の光』。どこか気怠い旋律の揺らぎは、少年の日の窓辺、退屈に読み明かした詩集のインクの匂いを思い出させる。耳の奥で、求めていた音。店奥のグランドピアノには、あの頃より焼けて、また、年相応に膨よかになったアスティファヌスがいた。
彼は客席に顔を向けないが、選曲は全て私に宛てたものだとわかる。『アラベスク』に『夢想』に。優しく。私の謝罪を受けるより先に、全てを赦してくれるように。また、深く詫びるように。
彼の左手の薬指には、銀の指輪が光っていた。私は不意の寂しさを覚えたが、遥か昔、誕生日を迎えた私へと老司祭がそうしてくれたように、胸の前で十字架を切り、愛しき者とその家族へと、神の祝福を祈った。
演奏は終わり、珈琲が出る頃。私はセルヴィエットを膝上に畳んだ。
「閣下。失礼ですが、少し……」
「おお、あちらだ」
大使は入口へと手を向けてラバトリーを示したが、私は微笑みの中で首を振り、立ち上がった。
「Je l'ai retrouvé. Mon vieil ami. Adoré le bien et un soleil」
(見つけたんです。善なるものと太陽とを愛した、私の古き友人を)
接吻 ―祖国ハンガリーから― 小鹿 @kojika_charme
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