中編 永遠
入学式を終えて、名簿片手に生徒を呼び上げる先生は、私の返事に被せるように質問した。
「エステルハージは、伯爵家業取り上げられはって、将来どないしよう思たはるね?」
教室中が私を振り返る。先生は青白い顔を意地悪く歪めて、貴族制をどう考えるかと重ねて問うた。
今からの返答は、教室での一年間、果てはこの学校での四年間の立ち位置を定めてしまう。懸命に弁明した。私が心から
「人間、一度覚えた贅沢はな、欲はな、消されへんもんや。エステルハージ、お前さんは首都の言葉しゃべらはるなぁ。言葉は習慣や、習慣は生い立ちや、生い立ちは偽れへん」
クスッと誰かが笑い、波紋は教室中に伝播する。私は席に沈むしかなかった。黒髪、濃い茶髪ばかりの中で、私だけが子どものような金髪だった。
部屋に戻ると、机から顔を上げて迎えたアスティファヌスの眉は、すぐに心配にひそめられた。私の背を押して、寝台に座らせる。
「夕食になったら、起こしてあげるから」
堪えられず、両肩を包む手が離れないうちに、彼の胸へと頭を寄せた。躊躇いもなく抱き締められる。煙草の匂い。
「詩でも読もうか。フランス語は――そう、じゃあ、二外の選択は、フランス語にしたら良いよ。初学者にも優しい先生だからさ」
寝台に二人、横たわる。縁の焼けた、アルチュール・ランボーの詩集。彼の指先が活字を滑り、マジャル語に変わる。
また見つかった。
何が? 永遠が。
太陽に溶ける海のことだ。
『永遠』。彼の囁き、私だけに拾われればよい声量。聖堂での演奏を思い出す。放蕩さを感じさせる、入れ込むような、無秩序でひたすらな優しさ。
「イシュトヴァーン、海を見たことはある?」
「ううん、ない。けど、屋敷がバラトン湖の湖畔だったから、わかるよ、落ち陽の海」
「そっか、良いなぁ。ベイルートの家からもね、海が見えた」
彼の手が私の肩を抱き、あやすように上下した。私たちは、この学校にありて等しく他所者。彼の指先が、私の金髪を梳る。しかし、それは手慰み。目は遠くを見つめ、静かに異郷を想う。私は寂しい。
「ね、レバノンはカトリクシュの国なの? 名前、ステファノス……」
「ああ、ムースリムも多いけど、政治経済の支配階級は大抵カトリクシュかな」
「……あなたも?」
「うん」
誘うような質問と、躊躇のない開示。私への信頼か。鼓動が治らない。罪の意識が、忠誠をより焚き付ける。
宗教は阿片だ、とマルクスは言った。祈りは、苦しい現実を一時的に忘れさせるが、根本の解決にはならない。十字架への接吻も、母への恋慕を癒しはしなかった。自らが強い心を持つまで。
「あなたは、神を信じるの」
「うん。君は信じない人――?」
厳しさも弾劾の気配もない。親愛なる同室生を理解しようと、優しく肩を抱き寄せる。
「――イシュトヴァーン」
聖ステファノス。そして、私はカトリクシュの守護者、ハプスブルク家に連なるエステルハージの子。湖畔へと置き去りにしてきた母の十字架。私を祝福した老司祭は、捕らえられ、既に亡いと聞く。
「……僕が信じるのは、神の力じゃなくて、
「そっか。それもまた、自由だ」
「――けれど」
彼の手から逃れ、見下ろした。東洋の硝子玉の目は、神の慈愛に微笑む。私を惹きつけ、焦燥させる。
「貧しい生活を救うのは、豊かな社会体制だ。祈りではない」
「うん。ただ、祈りは僕を善き行いに導く」
「善い、とは何?」
「君の心は、もう知ってるさ。だから、君は君の知る善に基づいて、僕を導いてくれ、もし僕が本当に不善を行なっていたら。――それまで、僕らは自由だ。社会からも、誰からも」
穏やかな目の奥に、燃える火が潜む。決して、他人の風に揺らがない火が。私には告発できない。外れた調律に煌めく月の光に魅せられてしまっては、私はこの男を善き者と認めずにはいられない。
力は抜けて、彼の腕へと身を収めた。彼の指は、再び私の髪を梳く。
「イシュト、葡萄酒は好き?」
その愛称は、遥か昔、私を抱いた母に呼ばれていたきり。寂しさに目を閉じる。
「……あまり、飲んだことはない」
「じゃあ、甘いのをあげよう。夕食の後に」
そうして、共に午睡に落ちた。
第二外国語にフランス語を選んだ
「君、なんでフランス語なん選ばはったん? ――いやいや、ほんまのとこ言いやぁ。
皆が口々に、同室の指導生や兄を売った。私もアスティファヌスの名を出すと、先生は大きく頷いて笑う。
「君が、エステルハージなぁ! よろしい、エル=コーリーの五割を付けたるわ」
談話に過ぎた初回の残り半分は、フランス文化や文学の紹介だった。入手経路は内緒だと言って、戦後のパリ市街の写真も見せた。エッフェル塔を臨む川縁に、風船を持って駆ける子供たち。石造りの街並みの間、小型車の運転席から顔を出す若い女性。彼女は、公園の腰掛けにて、眩しそうに笑いながら、両手に持ったジェラートの一方を撮影者へと差し出す。
「外国は遠なってもうたけど、君らぁは優秀やさかい、外交官でも目指すと良えわ。行ってみなわからへん魅力ってもんがある、人も町も。そん目で見てきはりぃ」
故郷を懐かしむアスティファヌスと同じ目をして、先生は紅茶を飲んだ。
土曜日の昼下がり、アスティファヌスは私を連れて、ラカトシュ先生を訪ねた。紅茶には、
彼の音色は、美と楽への欲求を教え込んだ。私はよく演奏を願った。母の愛した曲、『夢想』。落葉の憂い。川淵の淀みに浮き、友とする泡沫も消えて、それでも最後は、海を夢見て沈みゆく。彼の音色は、情景と共に迫り、私の心に善を刻み込む。彼の情感を愛させる。
けれども、私はまだ寂しい。
私は消灯時間きっかりに寝台へと入った。私が寝るまで、彼は葡萄酒の空き瓶と写真立ての奥に隠した祭壇に向かわないのだ。ため息がよく聞こえていた。時折、鼻を啜るような音も。悲しみも、孤独も。アスティファヌスは明かさない。私と分かち合わない。
霧立つ秋も深まる放課後。舟に乗ろうと、学校の建つ丘の裏手に連れられた。古い採石場の切り立つ岩壁は、暮れかけに淡く燃える湖水を楕円に抱える。私は小舟の先端に座り、彼は舟尾に立った。
「この水が、ベイルートに旅したいなら――」
彼の目に、東洋の陽光と海岸線とが映る。
「湖を出て、川を下る。やがてドナウに拾われて、黒海に流れ込む。黒海をも抜けて、地中海を東に往き行きて、やっと着くのさ」
「この湖、川に繋がってるの?」
見上げても、一面は岩肌ばかり。淵には、アカシアが金色に紅葉する。アスティファヌスが一漕ぎして笑った。
「いいや、雨が貯まってるだけさ。どこにも出て行きやしない」
「……ふふ」
櫓を引き上げて、彼が座った。両脚を伸ばしてもなお届かない距離。夕焼けに赤い湖面は、揺れる舟影に拭われて、水底の暗みを現した。
アカシアの金の葉が一枚、風に乗って、私たちの間を通り抜ける。行方を追った彼の目が、寂し気に見えた。
「……冬は、好き?」
「うーん、寒いのはちょっと」
「そう……ねぇ、アスティファヌスは大学、どこ受けるつもり? 国内?」
「大学には行かない。父さんの下で、農園の見習いさ。いつでも遊びにおいでよ」
明るさは、一転して憂いに変わり、それを隠した微笑みが浮かぶ。
「それじゃ、イシュトは国外に行くの?」
「たぶん。父はモスクワに出ろと言うし」
「そうなんだ。イシュトは……」
寂しさに、私の心境を探している。神への祈りを見せない彼が。孤独を明かさない彼が。これは、私の待っていた大風だ。孤舟を覆し、大海へ身を投げ出させるほどの。
「あなたが言い淀むのは、珍しい……」
誘いの言葉と、彼の寂しさを写した微笑み。次に口を開くとき、彼は、心奥を溢さずにはいられないはずだ。私を見つけ出せ、同じ寂しさを持つ私を――。
Elle est retrouvée!
Quoi? l’éternité.
C’est la mer mêlée
Au soleil.
『永遠』。いつになく低い彼の声は不機嫌か、宣戦布告か。
「『mêlée』とは、普通なんと訳される?」
「え……混乱するとか、混戦……」
「そう。規律、境界を失い、溶け合う。落ち陽の海を表現するに相応しい。けど、『mêlée』は、中世、騎士たちの馬上での槍試合、あれも指すんだ。強烈な意志を持った者同士が向き合い、速度をもって近付いて、深く突く」
立ち上がり、舟が揺れる。波紋が広がる。黒い巻き髪が作る陰の目許。私は針で刺されたように動けない。彼の足が、舟板を踏む。一歩、二歩。
また、見つけ出したぞ。
何って? ――永遠さ。
それは、海
太陽と
岸に打ち返された波が、舟体を叩く。揺れても構わず、彼は歩んだ。三歩、四歩。
「危ないよ……」
伸ばした手は静かに退けられて、私の面前には、気焔を揺るがせる目。
「『mêlée』は、
私は彼の目に貫かれ、身を強張らせて頭を振るのみ。揺れと共に迫り上がる水音が、まだ知らぬ実感、熱い肉体の鼓動を錯覚させる。
舟酔いは、けれども、陸には持ち越されない。肉のない
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