接吻 ―祖国ハンガリーから―

小鹿

前編 異邦人

 ――敗戦から六年。


 トカイ駅前で私を拾った馬車曳きの爺さんは、道中、過ぎ行く葡萄酒工房を指しては、味わいの違いを語って聞かせた。

「そやけど、最近は工場だ、ガス田だ、坊ちゃんも車窓に見はりましたやろ? お上は葡萄酒作る人手、みんなそっちへ持っていかはりますねん」

「……重工業化は、祖国を富ませるために欠かせない政策ポリティカですから」

 荷車に乗る私は、振り返りもせずに答えた。開発には私の父が幹部として関わるのだが、爺さんは知る由もない。

「祖国の富む前に、儂らぁが貧する……なんや、まあ、坊ちゃんに聞かす話とちゃいましたわな。――ほな、もう着きまっさかい」

 爺さんが鞭を振り下ろし、馬車は力強く坂道を上る。剥がれかけの石畳。古い童歌を歌って駆ける垢じみた服の子どもたち。彼らの襟に結ぶ紅巾ばかりが街並みの中に鮮やかで、私は鞄を胸に抱き直し、真新しい毛織の上着を隠した。

 いけない。決して目立ってはいけない。貴族育ちとも、人の上に立ちたがる気質とも思われてはいけない。成績を保ち、そこそこに人と交わり。善良で模範的な労働者プロレタリアートゥスだと示すのだ。

 中等学校ギムナージウムの校門を抜けた馬車は、聖堂に迎えられた。四面に時計のある尖塔の先端には、しかし、十字架はない。

 寄宿舎は聖堂裏手の元僧房。玄関突き当たりの掲示板には、雑多な掲示物に被せて、新入生名簿と部屋割が張り出されている。私の部屋は二〇一号室。軋む階段を昇った。踊り場の高窓の下にある壁龕へきがんは、こちらもやはり空だった。

 部屋には机と本棚、寝台が二つずつ。私を新たな主人に迎える東半分とは対照に、西半分は教科書やら脱いだままの衣類やらが、机上と床とを隔てもせずに散らかっていた。煙草の匂い。本棚の前には、葡萄酒の空き瓶がいくつも立ち並ぶ。

 一体どんな不良が私の指導生なのかと、恐ろしくなる。投げ出された数学書の表題を見るに、最上級生たる四年生らしい。本棚には、フランス語の辞書や詩集、楽譜が並ぶ。フランス好みなのか。転がる空瓶を手に取ってみたが、しかし、それらは全てトカイ産で、エル=コーリー社という聞き慣れない名前の工房製だった。

 空き瓶の奥、本棚の最下段には、たくさんの写真立てが並んでいた。いずれも東洋趣味があふれる。椰子の木が茂る石造の港街、白い薄衣を頭から掛けた婦人たち、回廊に絨毯を広げて結婚の祝宴を行う家族。思わず伸ばした手が、写真立てを倒した。小さな聖母子像が現れた。聖書と銀の十字架も。

 隠れカトリクシュ――!

 宗教者とは、反社会主義者ソツィアリシュタだ。私は告発しなくてはならない。同志スターリンに忠誠を誓った者として。震える手で写真を戻す。しかし、告発を知れば、不良の指導生はまず私を疑うだろう。殴るだけでは済まされないはずだ。

 勇気は持てず、けれども、何も見なかったふりをして部屋に過ごすこともできず、私は前庭へと出た。今すぐの告発は無策だ。折を見計らい、懇意となった先生にでも告げればよいのだ。深く息を吸う。ピアノの音が聞こえた。聖堂からだった。

 小道を降りて、正面扉。蝶番の壊れた脇戸が傾いて開く。中からは、少し調律の外れた古風な音色。聞かなくなって久しい西側の作曲家、ドビュッシー。『月の光』。

 投げ遣りにも思える、譜割を揺らした弾き方が、少年の気怠さ、歪んだ硝子窓より差し込む冴えた月光を描く。もしくは、老女の追想。柔らかな銀の髪を月下に靡かせた幸福の日々。

 誘われて、堂内に入ったが、正面の色硝子には暗幕が下がり、十字架も聖母子像も絵画も何も、宗教を思わせるものはない。だだっ広い薄暗に、旋律ばかりが色めき、華やぐ。

 どこだ。幾本もの柱を過ぎ、壇上に上がる。演台の陰。上級生らしき広い肩幅と――黒い巻髪に褐色の肌をした異邦人の青年だった。

 曲が変わる。『アラベスク』の第一番。彼の故郷なのだろうか。群青色の星空、白い砂山。寄せ来る夜気と、揺れる窓辺の薄絹。気付けば私は、彼の長いまつ毛のまたたきまでわかるほど、近寄っていた。最後の一音、遠くへ置かれた響きがこだまする中で、彼が私を見上げ、微笑んだ。

「新入生? ようこそ、名前は?」

 黒曜の目は、南方の陽光。私と同じく、この地を異郷とする男なのだ。

「イシュトヴァーン。その……良かったよ」

「ありがとう。ステファノス、か。僕も同じ名前。レバノンの綴りだから、アスティファヌスというけれど」

「……二〇一号室?」

「ああ、エステルハージ・イシュトヴァーンか! これから、よろしく。指導生のエル=コーリー・アスティファヌスだ」

 立ち上がり、差し出されるは、厚みある大きな手。私は気後れと、告発と親しみとに迷うが、手を取られたなら、拒絶などできない。部屋の汚さの割に繊細な演奏をした男は、大らかに笑いながら握り合った手を上下に振った。

 彼は、夕食の間も絶えず私を気遣い、父がトカイで葡萄酒工房を営んでいるだとか、大叔父もフランスにて葡萄酒を作っており、戦前は遊びに行っていただとか、フランス語の先生が愉快な人で授業が面白いだとか、様々聞かせてくれた。

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