エピローグ

 あの日の夜、あの山で、一体何が起こったのか。私の身に、何が起きたのか。あれから随分と経った今でも、私はその全貌を理解できていない。

 ただ、真夜中に山の頂上までポリタンクを運び、中身を井戸の中に捨てるという、怪し気な内容のバイトをしていただけ。それだけなのに、私は想像を絶する恐怖に見舞われた。

 私は、これまでも色々な酷い目に遭ってきた。怖い経験も、普通の人よりは多くしている方だろう、という自負があった。

 でも、あんな目に遭ったのは生まれて初めてだった。

 得体の知れない化け物に襲われて、目の前で人が尋常ではない殺され方をするなんて―――。

 身体中入れ墨だらけのお客さんから酷く乱暴なプレイを強要されて気絶しそうになった時も、一度だけ相手をしたお客さんにしつこく言い寄られてスタンガン片手に家まで追いかけられた時も、猛烈に恐怖を感じた。

 でも、それが可愛く思えるほどの経験だった。

 生まれて初めて、精神的にも、肉体的にも、死の恐怖を感じた。人間は尋常ではないほどの恐怖を前にした時、本当に失禁するものなのだと理解した。

 今でも、目に焼き付いている。

 あの化け物の姿が。

 白石という男が、惨たらしく殺される様が。

 他の二人——岩澤と内藤は、一体どうなったのだろうか。

 あの化け物に殺される様を直接見たのは、白石だけだ。岩澤と内藤がどうなったのかは、分からない。どうにかして、あの山から逃げ延びたのだろうか。

 それとも、あの化け物に殺されてしまったのだろうか。

 だとしたら、あの夜に生き残ったのは、私一人だけなのだろうか―――。

 あの時、私は内藤と二人きりでお堂に立て籠もっていた。身を隠し、化け物の目を逃れたつもりだった。

 でも、結局あの化け物から逃れることはできなかった。あっけなく見つかり、襲われ、死んだはずの白石の声が響くなど、不可解なことが起こり続け――そして、内藤だけが外へと出て行った。

 取り残された私は、ひたすら泣き続けていた。気が付くと、お堂の中に入って来れなかったはずの、あの化け物——振袖を羽織った女が佇んでいて、私を見下ろしていた。

 泣きながら、死を覚悟した。

 ああ、私はこれから殺されるのだろうと。

 私の人生は、ここで終わりなのだろうと。

 でも――あの振袖の女は、なぜか私を襲わなかった。

 振袖の女は、壁にもたれて泣き続ける私をじっと見下ろした後、ゆっくりと外へ出て行ったのだ。指の一本も触れることなく、声を上げることもなく。

 なぜ、振袖の女が私を襲わなかったのかは、分からない。

 ただ、振袖の女は、どこか私のことを憐れんでいるような気がした。

 そんな表情を、浮かべていたわけではない。振袖の女の顔は、なぜか真っ黒に塗り込められていて、見通すことができなかったからだ。

 ただ、その黒い影の差した顔には、憐れみが満ちているように思えた。

 私の勘違いなのかもしれない。あんな得体の知れない存在に、感情があるのかなんて分からない。

 でも、私は振袖の女から、憐れみの念を向けられたような気がしてならないのだ。

 その後の、私の記憶は曖昧だ。お堂の中にいたことは確かだが、ずっと泣き続けていたような気がするし、気絶していたような気もする。

 気が付くと、外が明るくなっていて、いつの間にか朝になっていた。そして、お堂の外でガヤガヤと人の気配がして――私は数人の作業服を着た男たちに見つかり、保護された。

 お堂の中でへたり込む私を前に、作業服姿の男たちは恐る恐るといった感じで話しかけてきた。私は何事か答えたような気がするが、ほとんど相手にされず、何度も首を傾げられた。

 そうこうしていると、黒い着物に身を包んだ禿げ頭の老人が現れた。周りにいた作業服姿の男たちとは、明らかに雰囲気が違った。手には数珠を握っていて、まるで有名なお寺の高名なお坊さんのような佇まいだった。

 老人はへたり込む私を見るなり、皴だらけの顔をしかめていたが、やがて私に向かって手を合わせ、お経のようなものを唱えた。その後、強い口調で作業服姿の男たちに、私を連れて行くように命じた。

 私はされるがままに、作業服姿の男たちに肩を抱えられて、山を降りた。よろよろと長い石段を降り、藪道を抜けて、あの道路沿いの待避所に出ると、たくさんの車が押し寄せて停まっていた。

 その中に、救急車やパトカーといった車は見当たらなかった。ほとんどが地味な色の軽バンや軽トラックだったが、なぜか一台だけ、大きなジープタイプの車があった。私たちが乗せられてきた黒いボロボロのバンは、着いた時と変わらない位置に停まっていた。

 自販機の前には、大勢の人がいた。年齢はバラバラだったが、全員が男で、私を抱えていた者たちと同じ作業服姿だった。皆一様に、私のことを訝し気に見つめていた。

 その中で唯一、やや離れたところにいた大畑だけが、無表情で私のことを見つめていた。

 私はそのまま何を言われるでもなく連れて行かれ、一台の白い軽バンの後部座席に押し込まれた。見張り役なのか、作業服姿の男が二人、気怠そうに外に立っていた。

 ぐったりと窓に頭を預けていると、山から数人の作業服姿の男たちと、あの老人が降りてきた。

 老人はどこか憤っている様子で、周りの作業服の男たちに話をしていたが、やがて大畑に詰め寄り、大声で怒鳴り始めた。大畑はそれを終始無表情で応対していたが、しばらくすると、やれやれといった様子でポケットからスマホを取り出し、どこかに電話を掛け始めた。

 老人は大畑から強引にスマホを奪うと、電話に出たらしい相手に、また大声で怒鳴りつけていた。〝いいからごちゃごちゃ言ってないで早くこっちに来い〟という旨のことを言っているようだった。

 それから程なくして、ピカピカのセダンタイプの高級車が、品のないエンジン音を轟かせながら待避所に現れた。中から降りてきたのは、品のない小金持ちという言葉が似あう、スーツ姿の中年の男だった。立場が上の人間なのか、作業服姿の男たちは皆一様に、その中年の男に向かって頭を下げていた。

 降りて来るなり、中年の男はヘラヘラとしながら、大畑に何やら話しかけていた。大畑だけは立場が対等なのか、変わらず無表情で応対していた。

 それを見た老人は、二人に――主に中年の男に――向かって、凄まじい剣幕で怒鳴り始めた。今にも殴り掛かるのではないかと思うほどの勢いで、周りにいた作業服姿の男たちは皆、縮み上がっている様子だった。

 だというのに、中年の男は終始ヘラヘラしていて、まったく相手にしていない様子だった。大畑はその横で、それをじっと見つめていた。老人はそれを見てますますヒートアップしたのか、皴だらけの顔を鬼のような形相にして怒鳴り散らし始めた。

 あまりに大声で怒鳴るので、断片的にだが、車の中にいた私にもそれが聴こえてきた。


「お前たちが―――せいでこうなった」

「こんなことは―――本来あれは―――ならんもので」

「——―がダメにした―――先代の頃は―――こんなことには―――」

「仕方がないとはいえ―――人間が―――許されるとでも―――」

「こんな供養の——―あるか―――病院から―――」

「ひもろぎ―――井戸の―――」

「―――お怒りに―――またやり直しだ」

「今一度——―ホオズキと――――」

「断ち切りの―――めなわを―――」

「——―——まずめさまの―――これまで通りに―――」


 老人はひとしきり怒鳴り散らすと、作業服姿の男たちにまた何やら命じ始めた。途端に場が慌ただしくなり、作業服姿の男たちは散り散りになって、また山に入っていったり、車に乗り込んだり、電話を掛けたりし始めた。

 そんな中、老人は私の乗っている軽バンの方へと歩いてきて、後部座席のドアを開けると、私に向かってまたお経を唱え始めた。それが終わると、じっと私のことを見つめながら、さっきとは打って変わって穏やかな口調で、

「すまんかった。私らが至らんばっかりに、こんなことになって……。本当に申し訳ないと思っとる。まさか、お嬢さん以外の連中がなあ……」

 と、謝罪の言葉を述べてきた。

 私はどうしていいか分からず、呆然とそれを聞いていた。

 老人はその後も何度も頭を下げながら謝罪し、最後に、

「お嬢さん、それは……」

 と、言いかけて、口を噤んだ。

 私がその言葉の意味を汲み取り、涙目で老人の目を見つめ返していると、

「……いいだろう。あまりいいものではないが、それでお嬢さんが救われるなら―――」

 それだけ言うと、老人は一礼して私の元から去り、中年の男と大畑に向かってまた何事か怒鳴りつけてから、大きなジープタイプの車に乗り込んで走り去っていった。

 呆然とそれを見つめていると、

「おい」

 と、私に声を掛けてきた者がいた。大畑だった。

 大畑は、あっちに乗れと言いたげに、黒いボロボロのバンを指差した。促されるままに、私はトボトボとバンへ移動した。乗り込む直前、すれ違いざまに中年の男から、何か冷やかしのような言葉を言われた気がした。

 元いた後部座席に座っていると、外で中年の男と大畑が何やら話し込んでいた。内容は聞き取れなかったが、大畑はどこか、ヘラヘラとしている中年の男に辟易しているように見えた。

 やがて、中年の男は大畑に小さな紙袋を渡した後、ピカピカのセダンタイプの高級車に乗り込んで、また品のないエンジン音を轟かせながら、待避所から走り去っていった。

 残された大畑は、ため息をつきながらバンに乗り込んでくると、気怠そうにこちらを一瞥して、エンジンをふかした。そのまま、まだ多くの車が停まっている待避所から、勢いよく走り去った。

 やけに赤く見える照明のトンネルを抜け、元来た山道を戻るように走るバンの中で、私はぼんやりと揺られながら窓の外を見つめていた。大畑が話しかけてくることもなかったし、私から話しかけることもなかった。乗っている人間は三人も減っていたが、車内には山に向かっていた時と同じような沈黙が流れていた。

 やがて、私が待ち合わせ場所に指定していた街中のドラッグストアの駐車場に辿り着くと、大畑は車を降り、後部座席のドアを開けた。そして、呆然としている私に、

「約束していた報酬です」

 と、中年男から渡されていた紙袋を差し出してきた。中身を見ないままそれを受け取ると、大畑は助手席から私の靴と、黒いクラッチバッグを取り出した。

 両方とも左足の長靴から、渡された元の靴に履き替えていると、大畑がクラッチバッグの中を見ながら怪訝な顔をしていた。没収していたはずのスマホが、全て消え失せていたせいだろう。白石の仕業だ。そういえばと、ジャージのポケットに手をやると、ちゃんとスマホが入っていた。

 大畑はそれに勘付いたようだが、特に何も言ってこなかった。〝別にそこまですることが俺の領分でもない〟という表情が、顔に滲み出ていた。

 その後、大畑は自分の着ていた作業服の上を脱ぐと、私に差し出してきた。そこでようやく気が付いたが、私が着ていたジャージの上は背中側で裂けて酷い有様になっていた。

 おずおずと受け取り、作業服を羽織ると、自分の荷物を携えてバンから降りた。その時、また気が付いたが、車内に残されていたはずの、他の三人——内藤と岩澤と白石の荷物は、なぜか見当たらなかった。

 大畑はほとんどの間、無言だったが、最後に、

「……報酬は、わけあって多めにしてありますから」

 とだけ言い放ち、バンに乗って走り去っていった。

 私は、しばらく駐車場で呆然としていたが、やがてトボトボと自分のアパートに向かって歩き出した。時間は確認していないが、どうやら早朝だったようで、時折すれ違う犬の散歩をしている人やジョギングをしている人たちから、怪訝な顔で見られたり、指を差されたりした。

 無理もないだろう。朝早くに、髪も顔も酷い有様の女が、下にはジャージ、上には作業服を着て、妙な荷物を両手に抱えているという、おかしな格好をして歩いていたのだから。

 フラフラとアパートに帰り着くと、私は何もかも放り出してシャワーを浴びた。その後、気絶するかのようにベッドに倒れ込み、泥のように眠った。

 目覚めると、なぜか部屋にまた弱々しい朝日が差していた。スマホを確認すると日付が変わっていて、どうやら丸一日眠りこけていたようだった。

 サウンドモードをサイレントにしていたせいで気が付かなかったが、スマホには何十件もの着信があった。そのほとんどは、勤めているソープランドの店長からだった。リダイヤルすると、猫撫で声で「無断欠勤だったけど何してたの」と言われた。申し訳ないが、二、三日休ませてほしいという旨を伝えると、途端に大声で怒鳴られ、汚い言葉で罵倒された。

 なんとか弁解し、休むことを了承してもらって電話を切ると、メモ帳のアプリが開きっぱなしになっているのに気が付いた。

 そこに残された、


 〝朝までここにいれば大丈夫かも〟


 という文言を見た瞬間、恐ろしい目に遭ったことを思い出し、ガクガクと身が震えた。

 その記憶を消し去りたい一心で、メモ帳のアプリをアンインストールすると、報酬の事を思い出した。大畑から渡されていた紙袋を開くと、そこには最初に告げられていた報酬の、十倍以上もの額の現金が剥き身で入っていた。

 どうしてこんなに……と疑問に思っていると、大畑の言葉を思い出した。

 〝……報酬は、多めにしてありますから〟

 試しに、一番最初に電話したバイト先の――恐らく大畑の電話番号に掛けてみたが、電子音声が、

「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」

 と言うばかりだった。

 恐らく、これは色々なことに対する口止め料なのだろうと理解した。

 別に、言いふらす気もなかったし、言ったところで信じられないだろうと思った。山中で怪しげな内容のバイトをしている最中に、得体の知れない化け物に襲われて人が殺された、などと言ったところで、誰も信じてはくれないだろう。

 ただ――内藤のことだけが、胸に引っ掛かっていた。

 内藤は、結婚すると言っていた。愛する恋人がいて、もうじき一緒になるのだと。

 あの老人は、

 〝まさか、お嬢さん以外の連中がなあ……〟

 と、ぼやいていた。ということは、やはり内藤も、あの振袖の女に殺されてしまったのだろうか。

 ——―内藤だけは。

 薄情な話だが、他の二人と違い、内藤だけは助かるべきだったのではないだろうか。

 白石も岩澤も、同じ人間には違いなかった。もちろん、私も。

 だが、内藤だけは、違ったのだ。内藤だけは、その身に抱えているものの重みが違っていた。

 一目見て分かった。白石も、岩澤も、私と同類の人間なのだと。

 同類——いわゆる、脛に傷を持った人間。世間に対して、胸を張れない人間。影の中で生きなければならない人間。

 だが、内藤だけは違った。

 私たちと違い、後ろ暗いものなど、ひとつも抱えていない人間。まともな人生を歩んでいる人間。陽の光の下を歩き、他者から愛されている人間。

 本来、助からなければならなかったのは、私のような人間ではなく、内藤のような人間だったのに―――。

 内藤の婚約者は、今も帰りを待っているのだろうか。もしかしたら、そのお腹には―――。そう考えると、ズキズキと胸が痛んだ。私が死ねば良かったのにと思った。

 ——―でも。

 私は、死ぬわけにはいかなくなった。

 少し前までは、もう死んでもいいと思っていた。自分を呪い、何度も手首を切りつけては、死のうとした。結局、死にきれなかったが。

 でも、今は違う。

 私の元に、ゆうが帰ってきたのだから。

 死んだはずの、結が。

 私が殺したはずの、結が―――。




 私は以前、付き合っている恋人がいた。

 彼は、何の取り柄もない私を愛してくれた、稀有な人だった。私よりも年上で、顔立ちも、佇まいも、ものの考え方も、服も、車も、何もかもが気品に満ち溢れていた、聡明な人だった。

 最初に声を掛けてきたのは、彼の方だった。一方的に好意を寄せられた私は戸惑った。どうして彼のような完璧な人が、私のような平々凡々な女を、と。

 正直にそれを口にすると、彼は優しい顔でこう囁いた。

「好きになるのに、理由なんかないよ」

 それまでの人生でまともな恋愛をしたことがなかった私は、その言葉にときめいてしまい、あっという間に恋に落ちた。生まれて初めて、純粋な恋愛というものを経験した。

 告白を承諾し、彼と付き合い始めた私の人生は、きらめいた。とても幸せな日々だった。

 彼はお金持ちで、私に色んな物を買い与えてくれた。当時、会社勤めだった私の給料ではとても買えないほどの物ばかりで、私はいつも委縮し、何度も謝った。

「いつかきっとお返しするからね」

 と言うと、彼は、

「いいんだよ。君が隣にいてくれるだけで、十分なんだから」

 と、優しく微笑んだ。

 私も、同じ気持ちだった。高級なプレゼントが無くったって、彼を好きなことに変わりはなかった。彼が隣にいて、肩を抱いてくれるだけで、心の底から幸せだった。

 でも――そんな幸せな日々は、唐突に終わりを迎えた。彼の奥さんが現れたことによって。

 彼は、既婚者だった。何年も連れ添った奥さんがいて、まだ小さいけれど、子供も二人いた。

 私は所詮、遊び相手にしか過ぎなかったのだ。家庭に疲れた、彼の息抜きの相手。一介の、浮気相手。

 私は彼の奥さんからファミレスに呼び出され、粛々と罵倒された。あの時ほど、自分の感情がこんがらがったことはない。

 怒り、悲しみ、戸惑い、嘆き、怨み、後悔、罪悪感、未練、失望、屈辱、嫉妬、愛憎……。ありとあらゆる感情が混ざり合ったものが、刃となって私の胸をズタズタに切り裂いた。

 奥さんは、なぜか私と彼が一緒に写っている写真をたくさん持っていた。お店で食事をしている写真。街で手をつないで歩いている写真。ラブホテルの前でキスをしている写真。そして、車でセックスをしている写真。

 テーブルの上に広げられたそれらを、私は呆然と見つめていた。いつの間にか奥さんの隣に現れていた男の人に、示談金がどうだこうだと話をされたが、頭が真っ白になっていたせいで、内容はよく覚えていない。

 その後、彼とは一度も会えなかった。連絡しても電話に出ず、一人暮らしだと聞かされていた彼のマンションは、もぬけの殻になっていた。職場にも出向いてみたが、門前払いをくらった。それでも外で待っていると、警察を呼ばれて警告された。

 結局、奥さんが寄越した代理人と名乗る人を通して彼とやり取りした。難しい言葉を並べ立てられ、いくつかの書類を見せられたが、呆然自失としていた私の頭には、何も入って来なかった。

 そして――気が付くと私は、途方もない額のお金を奥さんに払うことになっていた。普通の会社勤めでは、一体何年かかるのだろうと、気が遠くなるほどの。

 そこで目が覚め、ようやく私も抵抗した。でも、代理人から、また難しい言葉と書類を淡々と並べ立てられた。どれだけ反論しても、涙を流しても、

「あなたには払う義務がある」

 の一点張りだった。最終的には、ほとんど脅しのような口調で、

「払わなければ、さらに身を崩すことになりますよ」

 と、吐き捨てられた。

 結局、為す術を失くした私は、それを受け入れることしかできなかった。

 そして、代理人の言った通りに、私は身を崩した。いや、崩さざるを得なかった。途方もない額のお金を用意する為に。

 色んなものを犠牲にした。目に見えるものも、見えないものも。

 細々としていた貯金、彼から貰った高価な品物、住んでいたアパート、職、友情、親からの信頼……。

 それでも、失っていくばかりだった。足掻いても足掻いても、落ちていくばかりだった。

 気が付くと、私の元には絶望と、色んな方面から借りた多額の借金だけが残っていた。

 いや――もうひとつ、残っていたものがあった。

 私は、彼の子供を妊娠していた。

 私はそれを、彼に伝えたかった。でも、どうすることもできなかった。連絡する手段は失っていたし、近付くことすら禁じられていた。そもそも、彼がどこにいるのかも分からなかった。

 代理人を通して、伝えてもらおうかと思った。でも、事態が今よりもっと悪くなるだけだろうと思い、やめた。

 私は、悩んだ。身も心もボロボロになるくらい酷い目に遭ったのに、どこかで彼に対する未練を捨てきれていなかった。完全に、彼を諦められていなかった。

 でも、私はとても子供を産める状況にいなかった。自分一人の生活を保つだけで精一杯で、子供を産んで育てることなんて、夢のまた夢だった。

 既にありとあらゆる縁が切れていて、頼れる人などいなかった。私は孤独の中、まだほとんど膨らんでいないお腹を抱えて、ひたすら悩んだ。

 産みたい。でも、産めない。でも、産みたい。愛する、彼の子を。

 散々悩み抜いた末に、私はとうとう残酷な決断を下した。

 それしか、道は残されていなかった。もし産まれてきたとしても、まともな生活を、幸せな思いをさせられないのは目に見えていた。

 産んだら、いつかきっと私の手で殺めてしまう時が来る―――。

 私は、中絶手術を受けた。

 お腹の中にいた赤ちゃんは、あっという間に死んだ。費用は十五万円。壮年の医師が、慣れた手つきで私の赤ちゃんを掻き出した。手術時間は、三十分もかからなかった。

 妊娠十二週間未満の胎児は、役所に届けを出さずともよく、その小さな亡骸は廃棄物として扱われるのだと知った。

 何もかも、一人でやった。一人で病院に行き、一人で帰って――いや、違う。

 私のお腹には、確実に一人の人間の命が宿っていたのだ。

 期間など関係ない。十二週間?十二週間経たないと、戸籍が必要ない?十二週間経たないと、人間として認められない?

 そんな、そんなことが、そんな残酷なことがあっていいのかと思った。

 でも、そんな残酷なことをしたのが、私であることに違いはなかった。

 私は、人を殺したのだ。

 自分で、殺したのだ。

 この手で、殺したのだ。

 この身に宿った命を。

 愛する我が子を。

 病院からアパートに帰り、部屋の中で一人座り込んでいると、もう枯れたと思っていた涙が溢れてきた。

 私なんか、死ねばいいと思った。同じ苦しみを、味わうべきだと思った。

 だから、手首を切りつけた。でも、死ねなかった。何度やっても、決心がつかなかった。それでも、切りつけずにはいられなかった。何度も何度も、手首を切りつけた。

 そうやって逃げ続けた。私は、愚かに逃げ続けた。地獄だった。毎日生きていることが、地獄だった。

 それでも、借金は返さなければならなかった。何もかもどうでもよくなって、稼ぎがいい夜の世界で働くようになった。最初はガールズバーやキャバクラに勤めていたが、自暴自棄は日に日に加速していき、ピンクサロンやファッションヘルスの店を転々とするようになり、程なくして今のソープランドに勤めるようになった。

 見ず知らずの男に、自分の身体をいい様にされるのは心底嫌だったが、そうしていると気が和らいだ。今、自分は罰を受けているのだと思うと、多少は罪を贖えている気がした。

 そんなことでは、何の罪滅ぼしにもならないと分かってはいたが、それでもやめることはできなかった。ソープランドも、リストカットも。

 自分なんか、どうなったっていい。

 そんな風に思いながら、さらに心と身体をボロボロにした。ピルを飲みながら、見ず知らずの男に抱かれ、手首を切る日々を過ごしていた。

 そんなある日、プレイ後にお客さんから言われたのだ。

「お金が必要なら、いいバイト知ってるよ。ちょっと怪しいけどね―――」




 借金がまだまだ残っていた私は、そのお客さんから件のバイトの連絡先を教えてもらった。

 確かに、怪しい内容のバイトだと思った。危険な香りがプンプンした。

 でも、だからこそ、私はやることにした。

 自暴自棄になっていた私には、何の躊躇いもなかった。例え酷い目に遭っても、別にいいと思った。

 苦しむことによって、罪滅ぼしをしている気分に浸れるのだから―――。

 でも――結果的に、私はバイトを引き受けたことによって、救われたのだ。

 目の前のベビークッションの上で、すやすやと眠っている結を見つめた。

 ——―ゆう。結ぶと書いて、結。

 私はお腹の中にいた赤ちゃんに、名前を付けていた。

 妊娠十二週未満の赤ちゃんは、人間として扱われなかった。だから、戸籍も必要なかった。

 それでも私は、愛する我が子に名前を付けていた。

 せめて母親である私だけは、この子のことを人間として扱おうと思ったからだ。

 お腹の中にいた赤ちゃんは、まだ性別も不明で、男か女かも分からなかった。

 だから、どっちだったとしても、通用する名前を付けた。

 きちんと、意味も込めた。

 せめて、あなたとだけは縁が切れないように。ちゃんと縁をおくからね、あなたのことを忘れないからね、と。

 あの日、お堂の中に立て籠もっていた時、扉の向こうから、声が聴こえてきたのだ。

 まだあどけない、幼い子供の声だった。


 ——―ママぁ、あけてよぉ

 ——―ねえ、ママぁ

 ——―ママぁ、ねぇ、ママぁ


 それは、結の声だった。

 なぜか、そのあどけない声が、結のものだと分かった。

 どうして結のものだと確信できたのかは、上手く説明できない。

 強いて言うなれば……母親の本能的な勘だろうか。

 私は、結の声を聞いて狼狽えた。

 私に、ママと呼ばれる資格なんかないのだから。

 私は、我が子である結を殺してしまったのだから。結を殺す決断を下したのは、母親である私なのだから。

 それでも、結は私のことをママと呼び続けた。


 ——―ねぇぇ、ママぁ

 ——―いれてぇ、ママぁ

 ——―ママぁ、だっこぉしてぇ


 私は、どうしようもなくなって、ひたすら謝り続けた。ごめんなさい、ごめんなさいと。

 それでも、結は絶えず私をママと呼び、必要としてくれた。

 そして、私はとうとう折れた。

 そんな資格などないと分かっていた。随分と身勝手なことだと思った。

 それでも、私を必要としてくれる結に、私は会いたかった。この手で、抱きしめてあげたかった。

 だから、私は結に「………おいで」と言った。

 そして、お堂の中に、結が入ってきた。

 死んだはずの、私が殺したはずの、愛しい、愛しい、私の子供、結が。

 姿は、クマのぬいぐるみに見えるような気もした。でも、姿形など関係なかった。

 そこには、結がいたのだから。結が、そこに存在していたのだから。


 ——―ママぁ、もう、はなしちゃやだぁ


 腕の中でそう言った結を、私は二度と離さないと誓った。

 私の子を、愛する結を、絶対に離さないと―――。




 なぜ、あの場に結が現れたのかは分からない。

 でも、そんなことは、どうでもよかった。

 私は泣きながら、胸の中に愛する結を抱き続けた。

 結は、私の胸の中でずっとママ、ママと繰り返していた。だから、内藤から何を言われようと、化け物を前にしようと、私は結を抱いていた。結を守る為に。

 誰もかれもが去った後も、結は私の胸の中で声を上げていた。

 でも、結はなぜか、朝になると声を上げなくなってしまった。それでも、ずっと胸の中には、クマのぬいぐるみを――結を抱いていた。

 作業服姿の男たちに見つかり、山を降りる時も、私はずっと結を胸に抱いていた。押し込まれた軽バンの中でも、大畑が運転する黒いボロボロのバンの中でも、フラフラとアパートへ歩いて帰る時も。

 戻ってきてくれた結を、離すことなんてできなかった。

 アパートの部屋に帰り、結と一緒に眠りについた。丸一日眠りこけ、また朝になり、目覚めても、結は何も喋らなかった。きっと、眠っているんだろうと思った。

 思った通り、結は夜になると起きて、声を上げた。


 ——―ママぁ、ここどこぉ?


「ここはね、ママのおうちだよ」


 ——―そうなのぉ?


「うん、これからずっと、ママと一緒に暮らすんだよ」


 ——―やったぁ!ママといっしょ!ずっと、ママといっしょぉ!


「うん、そうだよ。ずうっと、ママと一緒だよ―――」




 それから、私はずっと結と暮らしている。

 残っていた多額の借金は、バイトの報酬で全て払い終えた。ソープランドで働く必要もなくなり、今は近所のドラッグストアで雑務をこなす店員をやっている。細々とだが、なんとか生活を立て直すことができた。

 上手くやっていけるか不安だったが、結はとてもいい子で、私が働いている明るい時間帯は、ずっとベビーベッドですやすやと眠っている。ご飯も必要とせず、夜になると起きて、私と話をしてくれる。私のことを、ママと呼んでくれる。

 結は、私を救ってくれた。

 もう、手首を切りつけることはない。死のうなどとは、思わない。

 結の為に、私は生きなければならないのだから。

 それもこれも、あのバイトをやったおかげだ。バイトをやったおかげで、私は結と再会することができた。

 ある時、ふと疑問に思い、あのバイトを行った山のことを調べたことがある。

 帰りに目にしていた道路の看板や建物などの記憶を頼りに、地図アプリで場所を割り出そうとしたのだ。

 意外にも、あっさりとあの山は見つかった。

 市街地から遠く離れた山奥の、トンネルに挟まれた道路。その脇にある、大きめの待避所。その傍にある山。大きな山々がひしめき合う中に、ポツンとある小さな山。

 その山の名前は、馬淵山といった。

 試しにその山の名前で検索を掛けてみたが、ウィキペディアにも登録は無く、数件の登山サイトがヒットしただけだった。その登山サイトも、どれも名前を登録されているだけのようで、口コミやマップなどの情報は一件も寄せられていなかった。

 唯一分かったのは〝馬淵山〟の読み方だけだった。登山サイトの中にひとつだけ、読み仮名のルビが振られていたサイトがあった。

 〝馬淵〟と書いて〝まぶち〟と読むものだと思っていたが、違った。


 〝馬淵〟と書いて〝うまづめ〟と読むのだという。


 あの山は、馬淵山うまづめやまという山だった。

 調べて分かったのは、それだけだった。

 まあ、別に分かったところで、どうだっていい。何の問題もない。

 私の元には、結がいるのだから。

 それだけで、私は十分、幸せだ。

 ベビークッションの上で、すやすやと眠る結を見つめていると、いつの間にか外が暗くなっていた。

 夜が訪れる。そろそろ、結が目覚める頃だ。


 ——―ぅん……ママぁ


「おはよう、結」


 ——―ねぇ、ママぁ


「なあに?」


 ——―だっこぉ


「ふふっ。もう、甘えんぼなんだから」


 微笑みながら、結を抱え上げて胸の中に抱いた。


「もう、ずうっと一緒だからね。絶対に、離さないからね―――」


 私は固く誓いながら、胸の中の結を優しく抱きしめた。

 耳元で、結が小さく、くすくすと笑った気がした―――——――。

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生命の膿 椎葉伊作 @siibaisaku6902

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