三十

 暗闇の中、俺の、身体が、堕ちていく。

 俺たちが、あの、得体の知れない液体を注ぎ込んだ、井戸の底へと。

 あちこちを、ぶつけながら、俺の、身体が―――。


 ——―ドプンッ


 身体が、急に水中に晒された。

 ここは――井戸の底なのか。

 水が張っていて、助かったのか。

 しかし、水にしては、やけに、重く―――。


「ぶはっ」


 必死に足をバタつかせてもがき、水面から顔を出した。

 ここは、どこだ。

 薄暗い。

 周りに、何も無い。

 赤く、黒く、茶色い液体だけがある。

 それが、身体中に纏わりついている。

 これは、まさか、俺たちが注ぎ込んだ、液体なのか。

 それ以外には、何も見えない。

 見渡す限り、赤く、黒く、茶色い液体が、海のように―――。

 ……待て。

 その中に、何かがある。

 赤く、黒く、茶色い海の水面を、何かが、漂って―――。

「ひっ……!」

 それは、白石の、左腕だった。

 濃い茶色のツナギの袖がへばりついていて、手の甲に大きな切り傷がある。

 よく見ると、あちこちに似たようなものがあった。

 白石の足首、白石の肩、岩澤の手首、白石の顔の右半分、岩澤の二の腕、岩澤の生首。

「う、ああっ、あああああっ!」

 悲鳴を上げると、口の中に液体が飛び込んできて、溺れかけた。ゲホゲホと吐き出し、もがいていると、身体が急に重くなった。

 ——―いや、違う。

 身体に纏わりつく液体が、俺を絞めつけているのだ。

 さっきまで粘性を帯びた水のようだった液体が、まるで重油のように比重を増して、じわじわと俺の身体を―――。


 ——―おぎゃあああああっ


 不意に、赤ん坊の泣き声が響いた。

 ふと、視線を感じて、下を見た。

 赤く、黒く、茶色い水面に、顔があった。

 どろどろに蕩けて崩れ切った、赤ん坊の顔だった。

 それが、恨めしそうに、俺を見上げていた。

「うあああああっ!」


 ——―おぎゃあああっ

 ——―——おぎゃっ

 ―――おぎゃあああああっ

 ―――——おぎゃあっ

 ——―おぎゃああっ

 ―――——おぎゃあああああああっ


 俺の悲鳴を掻き消すかのように、あちこちで赤ん坊の泣き声が上がった。

 よく見ると、赤く、黒く、茶色い海の水面には、無数の顔があった。

 まるで、あの振袖の女の腕のように。

 どろどろと混ざり合った無数のそれらは全て、俺のことを責め立てるように泣き喚いていた。

「あ、ああ、ああっ……!」

 その時、突然、俺の身体中に、掴まれたかのような感触が伝った。

 腕も、足も、腹も、肩も、無数の小さな手に掴まれているかのような感触が―――。

 それらが、じわじわと、俺の身体を引っ張った。

 身体中に、引き千切られるかのような痛みが走る。

「ぅあっ、あああっ!」

 振りほどこうと、逃れようともがいたが、両肩が砕けているせいで、腕は言う事を聞かなかった。辛うじて動かしていた足すら、動きを止められる。


 ——―おぎゃああっ

 ——―——おぎゃあっ

 ―――おぎゃっ

 ―――——おぎゃああああっ

 ——―おぎゃあああっ

 ―――——おぎゃああああああっ


 赤ん坊の泣き声が、絶えず響いていた。

 身体中の関節が、ギチギチと悲鳴を上げていた。

 俺の、身体が、バラバラに―――。

「ぐぁ………」

 叫ぼうと口を開けると、赤く、黒く、茶色い液体が飛び込んできた。

 それらが、胃の中に、肺の中に、ジュルジュルと侵入してくる。

 身体の内も外も、赤く、黒く、茶色い液体に纏わりつかれた。

 身体の権限を、何もかも奪われたようだった。

 ゆっくりと身体が、赤く、黒く、茶色い海に沈んでいく。

 まるでうみのように、赤く、黒く、茶色い、

 ―――幼い生命いのちの、成れの果ての海に。

 身体中に、激痛が走った。

 しかし、声も上げられなかった。

 腕も、足も、動かすことができなかった。

 ただ、絶望しながら、漂うばかりで―――。

 身体のあちこちから、メリメリ……という音が聴こえた気がした。

 身体中の、関節という関節が、引き千切られ、

 生命の、成れの果ての、海の中に、

 俺の身体が、

 ぐちゃぐちゃと、

 バラバラになって、

 俺の意識が、

 どろどろと、

 蕩けて、

 俺という存在の、

 何もかもが、

 全て、

 失われて、

 溶け出して―――——―――。

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