二十九


 ——―ずるっ、ずるるっ


 …………ここは、どこだ。


 ——―ずるるっ、ずるっ、ずるっ


 …………何が、起きた、何が、どうなった。


「ああああ……そうなんですねぇえ……それは酷い……」


 ……身体中が、痛い。


「お辛かったでしょうにねぇええ……産まれたばかりのお子さんを……奪われるなんてねええ……」


 ……腕も、足も、動かせない。


「えええ……酷いですねええ……泣き叫ばないようにぃいい……喉を……切られるなんてぇええ……」


 ……頭が、痛い、上手く、回らない。


「へええ……ここは元々……そういう所だったんですねえええ……」


 ……これは、誰の、声だ。


「罰当たりだなあああ……そんな所で……殺人なんかあああ……」


 ……ああ、これは、岩澤の、声か。


「ああああ……酷いなあああ……メドナシ……カラゴ……キオンナなんて……現代じゃあ……許されない言葉遣いですよぉおお……」 


 ……一体、誰と、喋っているんだ。


「ああ……昔は……違ったんですねえええ……でもぉ……たったの三年やあ……七年くらいはああ……待ってたってえええ……いいのにぃいい……」


 ……一体、何の話を、しているんだ。


「ああああ……それは多分ん……旦那さんの方がぁああ……元々ぉお……悪かったんでしょうねええ……それはぁああ……しょうがないですよぉお……浮気のぉおお……一回くらいはぁああ……」


 ……背中に、頭に、ゴツゴツと、何かが、ぶつかる。


「えええええ……無理矢理ぃいい……切り裂かれてえええ……取り上げられたんですかあああ……酷いなあああ……ああ……だからぁあ……鋏がぁああ……お嫌いなんですねえええ……」


 ……耳元で、ガサガサと、音がする。


「うわああ……それはああ……ますます酷いなああ……親子共々ぉ……井戸に放り込んでぇええ……殺しておいてえええ……逆に祭り上げるなんてええええ……とてもぉ……まともな人間のすることじゃああ……ないですよぉおおお……」


 ……ああ、俺は今、引きずられているのか。


「へえええ……アラミタマが……ニギミタマに……転じるなんてねええ……でもぉおお……結局はあ……酷い話ですねえええ……」


 ……視界が、滲んで、黒い、暗い、夜か。


「それでええ……ずっとぉおおお……何百年もおおお……水子……供養を……しておられたんですねええ……」


 ……意識が、はっきりしない。


「ええ……それはまたぁ……酷いなああ……廃れてええ……忘れられてええ……しまうなんてえええ……」


 ……朦朧として、目の、ピントが、合わない。


「それはああ……怒ってぇええ……当然ですよぉおおお……それはあああ……さすがにぃいい……許されないなあああ……」


 ……僅かに、見えるものが、ある。


「そりゃあああ……供物を……欲しくもぉおお……なりますよねええ……」


 ……暗い、夜空と、木の影。


「あああ……それでえええ……最近はあああ……ずっとぉお……あれでぇえ……色々とぉおお……満たしてるんですねえええ……」


 ……雑木林、藪、枯葉、草、地面。


「そうですよねええ……あれほどぉおお……お好みのものはぁあああ……ないですよねええええ……なんたってえええ……数えきれないほどのぉおおお……幼いぃ……生命だったぁああ……ものですものねえええ……」


 ……首根っこを、掴まれて、引きずられている、岩澤。


「でもぉおお……頂けないなああ……ああいうのはああ……本来ぃいい……きちんとおおお……火葬とかぁあ……埋葬ぅう……供養ぅう……されるべきなんだぁあ……」


 ……両目に、何かが、突き刺さっている。


「大体ぃい……おかしいんだぁああ……十二週間んん……経たないとぉおおお……人間じゃなくてええ……感染性ぃい……廃棄物という名のぉお……ゴミなんてえええ……」


 ……ああ、あの、木札か。


「でもぉおおお……それでぇえええ……満足されているならあああ……ウィンウィンのぉおお……関係なんですかねえええ……」


 ……俺は、右足を、誰かに、掴まれて、引きずられている。


「ねぇえええ……」


 ……誰が、俺を、引きずって―――、


「ウマズメ様ぁあ」


 ……——―——、


「う、うあっ、ああっ、あああああああああっ!」


 その名を聞いた途端に、意識が、視界が、鮮明になった。

 俺は、化け物に、足を掴まれて、引きずられているっ!

「あ、あああっ!うわあああっ!離せえええっ!」


 ——―ォギョアアアッ!


 悲鳴を上げた瞬間、化け物が叫び、俺の身体がフッと浮き上がって宙を舞った。右足を掴まれたまま、振り回されたのだと理解したのも束の間、気が付くと俺の身体は、ドチャッ!と地面に叩きつけられていた。

「あっ……かっ……」

 背中に、何かが突き刺さったような感触があった。脳味噌がぐわぐわと揺れて、意識と視界がまたぼやけていった。

 息が、できない。身体が、言う事を聞かない。

 逃げなければならないのに―――。

「ぁあはははっ……諦めなよぉおおお……」

 岩澤が、力なく呻くように笑った。目が潰れているはずなのに、俺の身に何が起きたのか分かったのだろうか。

 半開きになった口から声にならない声を漏らしていると、グンッと片足が引っ張られた。足首が、ガッチリと掴まれている。まるで万力で挟まれているかのようで、逃れられる気がしなかった。

 身体が、またズルズルと引きずられていく。

「かはっ……ぁ……」

 ——―なぜ、俺が、こんな目に、どうして、こんな目に、遭っている、俺は、ただ、バイトを、人から、言われたことを、やって、金を、報酬を、貰う、だけなのに、どうして、何の、いわれもない、俺が、俺は、他の、奴等とは、あんな、治安の、悪い、奴等とは、違うのに、なぜ……。

 絶望しながら引きずられていくと、地面に触れている背中に、何かが当たった。身体の真下で、それがチャリチャリと音を立てる。為す術もなく、だらりと頭を横に向けると、ぼやけていた視界が少しずつ元に戻っていった。

 一面に草が生えている。その中に混じっているものがある。

 枯葉、枯れ枝、杉の葉、そして、錆色の何か。

 ——―鋏。

 地面に突き刺さっていたそれを見て、理解した。

 ここは、あの囲いの近くだ。注連縄に藁紐で無数の鋏がぶら下げられていた、あの囲いの―――。

 掴まれていない方の足に何かが当たって、ガララと音がした。それが、囲いの周りに積まれていた積み石が崩れた音だと理解した瞬間、視界に木の柱が映った。それを横切って、身体が囲いの中へと引きずられていく。

 ―――連れて来られたのか。

 今まさに、俺たちを引きずっている化け物が這い出てきた、あの井戸の前へと。

 最初にここへ訪れた時、俺はこう思った。井戸を外部から守るかのように、囲いが作られている、と。

 だが、違ったのだろう。

 井戸は、守られてなどいなかった。

 この囲いは、恐らく井戸を、のではないか―――。

 グンッ、と片足が勢いよく引っ張られて、身体が前方へ打ち捨てられた。うつぶせの状態で倒れ込み、打ちつけた胸が痛みに喘いだが、最早、声を上げる余裕も無かった。這いつくばったまま、どうにか頭だけを動かして、前を向く。

 注連縄が回された、石組みの井戸。それに張り付くように茎と葉を伸ばす、赤い紙風船のような実をつけた植物。

 これから、一体、俺たちは―――。

「ウマズメ様ぁああ……着いたんですかああ?……あのぉ……お子さんとぉおお……一緒にぃいい……投げ込まれたぁああ……井戸の前にぃいいい……」

 すぐ横で、岩澤の弱々しい声が聴こえた。が、そちらの方を見遣る気力は無かった。ぐったりと、目の前の井戸を眺める。

「あのぉおお……俺はぁああ……ここまでぇええ……やったんですからぁああ……許してええ……くださりますよねぇえええ………エッ!」

 突然、岩澤が喉を詰まらせたような声を上げた。と思ったら、グジュグジュと粘ついた音が聴こえて、見上げていた井戸の上に何かが現れた。

 それは、バタバタともがいている岩澤の足だった。弱々しく頭を持ち上げると、岩澤が井戸の上に吊るされているのが分かった。首を、あの赤く、黒く、茶色い、巨大な腕に掴まれている。それから逃れようと、岩澤は必死にもがいていた。

 それを眺めながら、俺はぼんやりと岩澤の言葉を思い出していた。

 〝俺もお前も、いわば咎人だ〟

 〝俺たちは許しをもらわなきゃならない〟

 ……わけが分からないが、俺たちはこれから断罪されるとでも言うのか。この化け物に。

「がっ……あっ…はっ……うっ…ウマズメ様ぁああっ……俺はぁ……俺はぁああっ……!」

 化け物の腕を掴んで、岩澤が呻いた。木札が突き刺さった両目からは、涙のように血がダラダラと流れていた。


「——―——ハハハッ、俺が失敗なんかするわけないでしょう。任せてくださいよ」


 突然、岩澤の声が響いた。

 それは、明らかに吊るされている岩澤から発せられたものではなかったが、確実に、岩澤の声だった。今までに聞いたことがないほど、余裕と自信に満ち溢れている響きの、岩澤の声。

「ぁあっ……そっ、それはっ、違っ――」

 吊るされている岩澤が、苦しそうに、だが、焦った調子の声を上げた瞬間、


 ——―バジュンッ!


 と、岩澤の首が握り潰された。辺りに血飛沫が飛び、頭と離れ離れになった胴体がズリュリュッと肉の糸を引きながら、井戸の中へ落ちていった。

 頭は未だに化け物の手中にあったが、それもすぐに、後を追うように井戸の中へと落ちていった。化け物が、手を開いたことによって。

 ——―ああ、やはり、殺されるのか。

 俺も、岩澤のように、殺されるのか。

 ………殺される……殺される……殺される。

 殺される……?

 これから、殺される?

 俺が?

 なぜ、俺が。

 どうして、何のいわれもない、俺が。

 俺は、帰らなければ、ならないのに。

 俺を、待っている、麻理の元へ。

 ……帰らなければ。

「ぅうっ……」

 腕を前へ出し、地面に爪を立てた。どうにか身体を引きずり、この場から、化け物から、逃れようと。

 しかし、それは虚しい努力に終わった。

 首の後ろに衝撃が走り、俺の身体はズリズリと後方へ引きずられた。爪がガリガリと地面を引っ掻き、土に痕を付けていく。と思ったら、無理矢理グルンと身体の向きを変えられ、首がひん曲がりそうになった。

 気が付くと、目の前に足があった。病的なほどに白く、艶めかしい、裸足の足。それが、土の地面を踏んでいる。その周りに垂れている振袖の裾は、灰色で――いや、恐らく、元は白かったのだろう。それが朽ちて薄汚れ、灰色にくすんでいるのだ。

 グンと、身体が持ち上がった。首に負荷がかかり、掴まれているのだと理解した。ゆっくり、ゆっくりと、身体が持ち上がっていく。為す術もなく、ぼんやりと目の前の光景を見つめた。

 振袖の隙間から覗く、白く細い足、脛、膝、腿——血。

 化け物——振袖を羽織っている女は、いつの間にか緩く締めていた帯を解いていた。下には何も身に着けていなかったようで、裸体が露わになっている。が、下腹部は、どす黒い血に染まっていて見えず――いや、違う。

 のだ。

 振袖の女の下腹部は、十字に切り裂かれていた。花弁のように開いたそこから、どす黒い血に染まった臓物が垂れ、ぬらぬらと妖しく光っていた。まるで、ぽっかりと虚穴が開いているようにも見えた。

 縦の傷は、臍の上、胸の下辺りまで続いていた。上にも何も身に着けておらず、女は裸体の上に振袖しか羽織っていないようだった。薄い胸の上に、骨ばった鎖骨が浮いている。その上に――ちょうど喉仏の辺りで、横一文字に切り裂かれた首があった。

 まるで、亀裂のような傷口だった。本来、そこにあるはずの皮膚と肉が失われていて、虚穴のような隙間が空いている。そこから、微かにヒュウヒュウという音がしていた。

 そして――とうとう――目の前に――女の顔が―――。

「ぁあっ……!」

 今まで、黒く、暗く、おぞましい概念に塗り込められて見えなかったそれが、全貌を現していた。が、それは、とても一言二言の言葉で容易く表現できるものではなかった。

 強いて言うなれば、底の見えない虚穴のような不気味さを湛え、ありとあらゆるどす黒い感情——怒り、怨み、嘆き、喪失、絶望、悲愴、屈辱、憎悪、殺意——を一緒くたに混ぜ込んで、どろどろに煮詰めたかのような表情を浮かべた、未体験の恐怖という概念で構成された、おぞましい顔だった。

 ほとんど真円まで見開かれた、瞳のない目。吸い込まれそうなほど、目一杯に開かれた口。骨ばった鼻。白い肌。こけた頬。それらを覆い隠すように張り付いて揺らめく、濡れたような質感の長い黒髪。

 ひとつひとつを見れば、それらは人間のものとして認識できるのに、なぜか顔として見ると、それは確実に生きている人間のものとして認識できなかった。見つめているだけで、脳味噌がグラグラと恐怖で煮立ち、今にもシャットダウンしてしまいそうだった。

「うぁっ……ぁあっ……」

 気が付くと、ありとあらゆる液体が顔から漏れ出ていた。涙、鼻水、涎、汗……。喉の奥からも、胃液と血がせり上がってきて混ざり合い、口から泡となって溢れ出た。迫り来る死という概念を前に、身体がおかしくなってしまったようだった。

 そんな俺を、振袖の女は間近で見つめ続けていたが、やがてゆっくりと腕を持ち上げた。足が地面から離れ、首がギリギリと絞めつけられていく。

「がっ……うぐぁ……」

 吊り上げられた俺の身体が宙に浮き、ゆっくりと振袖の女から離れていく。

 俺も、岩澤のように、井戸へ―――。

「ぁあっ……ぐっ…ううっ………麻理………」

 気が付くと、俺は無意識に名前を呼んでいた。

 俺の帰りを待っている、最愛の恋人、麻理の名前を。

「う、ぁあっ……麻理っ……麻理ぃっ………」

 絞めつけられた喉で、何度も麻理の名を呼んだ。

 麻理。

 俺を愛する麻理。

 俺の愛する麻理。

「麻理ぃっ……!」

 ―――その時、不意に俺の首を絞めつける力が緩んだ。代わりに、その力が両肩へと移動していく。

「かっ……げほっ……」

 解放された喉をヒューヒューと鳴らしながら、弱々しく息をした。

 一体、何が―――。

 涙で滲んでいた視界が、元に戻っていった。振袖の女が、先程と変わらぬ顔で、俺をじっと見上げている。

 俺の両肩は、二対の巨大な腕によって抱えられていた。今にも握り潰されそうだったが、振袖の女はなぜか動きを止めていた。

 …………まさか、俺は、助けられ―――、


「はぁ?なんでデキんだよ、クソッ……」


 ——―俺の、声が、響いた。

 なぜ、どうして、俺は喋っていない、声を出していないのに、なんで俺の声が―――。


「マジかよ……いいっつったじゃねえかよ……ぁあ?お前がいいっつったんだろ」


 また、俺の声が響いた。紛れもない、俺の声が。


「お前がいいっつったから中に出したのにさあ……知らねえよ、やる時はナマしか嫌だって、いつも言ってるだろ。今更ガタガタ言うなよ」


 気味が悪くなって、開いていた口を結んだ。というのに、俺の声はどこからか響いていた。


「え?俺のせいなの?何わけの分からねえこと言ってんだよ。お前がちゃんとしてねえからデキちまったんだろ。ピル飲んでりゃ、こんなことにならなかったのに」


 一体、どこから、俺の、声が―――。


「はぁ……俺のせいにするんだぁ……。あっそ。で、どうすんの?金あんの?」


 ……目の前?


「だからぁ、金だよ。堕ろすのにいるだろ。幾らか知らねえけどさぁ」


 ……振袖の女が、俺の声を、発している?


「産ませねえよ!まだガキなんか要らねえし」


 ゾワゾワと、顔から血の気が引いた。

「ち、違っ、俺はっ、こんなこと言って――」


「はぁ?何泣いてんの。お前のせいだぞ?お前がちゃんと避妊してりゃあよかった話だぞ?」


 俺の声を遮るように、俺の声が響いた。


「被害者ぶってんじゃねえよ。どっちかというと俺の方が被害者だろうが。勝手にガキつくられるなんてさあ」


 ―――違う


「はぁ……。泣きゃあいいと思ってるんだ。これだから女はさあ……」


 ——―違う、違うっ。


「泣き止めよ、オラッ。泣き止めって。……おい、泣き止めって言ってんだろうがっ!」


 ——―俺は、こんなこと、言ってない。


「……謝れよ、オラ。勝手にガキなんかつくってすいません、って言えよ。避妊しなかった私の責任です、って言えよ」


 ——―俺は、こんなこと、俺は、


「あーあ、やっぱ、やめときゃよかったなあ。お前みてえなメンヘラ女と付き合うなんてさあ。リスカ痕見つけた時に、さっさと捨てときゃよかった。こんなことになるって分かってりゃ、一発ヤリ捨てで終わってたのに」


 ——―に、こんなこと、言ってない。




 ねえ、悟志。わたしね……できたみたい。


「はぁ?なんでデキんだよ、クソッ……」


 ……ありがとう。


「ちゃんと言えよ、わざわざ病院までついて来てくれてありがとうございます、ってさあ」


 うん、大丈夫。……大丈夫だから。


「ああ。じゃあ、さっさと行って来いよ」


 怖いけど……わたし、頑張るね。


「怖いとか言うなよ。たかが、ガキ一人堕ろすくらいの手術でさあ」


 ううん、悟志の為だもん。これから二人で……。


「ああ。俺、もう麻理と付き合ってんだ。だから、二度と俺にその汚ねえツラ見せるんじゃねえぞ」


 ……ねえ。


「ああ?なんだよ、金ならねえって言っただろ」


 ……この子の名前、どうしようか?


「死んだガキに名前なんか要らねえだろ、バカじゃねえの」




 違う、

 違う、違う、

 違う違う違う違う違う違う違う違うっ!

 俺は、里穂りほに、こんなこと、言ってないっ!

 俺はっ……。

 俺は、里穂に、謝った。

 里穂の両親からの罵倒も受けた。

 頭を下げた。

 殴られもした。

 きちんと示談を受け入れた。

 その金を、多額の慰謝料を吹っ掛けられても、俺は文句を言わなかった。

 毎月、コツコツと振り込んでいる。

 その為に今、貧相な暮らしを、強いられているのだ。

 だから、俺は、

 だから、俺はっ……!


 ——―おぎゃっ

 ——―——おぎゃあっ

 ―――おぎゃああっ

 ―――——おぎゃあああっ

 ——―おぎゃああああっ

 ―――——おぎゃあああああっ


 俺を掴んでいる二対の腕から、赤ん坊の泣き声が湧き上がった。

 その全てが、俺を責め立てているように感じた。

「うああっ……!やっ、やめ――」

 耳を塞ごうとした瞬間、掴まれていた両肩から、メリメリと音がした。肉が絞られ、骨が軋む。

「ぐぁああっ……!」

 痛みのあまりに、だらりと腕を降ろした。

 俺の、肩が―――。


 ——―――ぅううぅうぁああぁあぁああああ


 振袖の女が、呻き声を上げた。

 ああ、喉を切り裂かれているから声が出せないのか、と理解した瞬間、


 ——―ボギンッ!


 と、両肩から鈍い音がして、

「ぐぁああああああああっ!」

 俺は、悲鳴を上げた。

 経験したことのない激痛が、両肩から電流のように走った。あまりの痛みに声が枯れ、息すらできなくなる。

「ぁ……あ……」

 喉から勝手に空気が漏れていくのを感じていると、振袖の女がグッと俺の身体を持ち上げた。両肩にまた引き裂かれたかのような激痛が走ったが、悲鳴を上げることはできなかった。

 ゆっくりと、俺の身体が井戸の上へ運ばれていく。

 抵抗する力はなく、腕も脚もだらりと垂れたままだった。

 振袖の女が、俺を見つめている。

 その、底の見えない虚穴のような不気味さを湛え、ありとあらゆるどす黒い感情を一緒くたに煮詰めたかのような、未体験の恐怖という概念で構成されたおぞましい顔が不意に、どろりと一種類の感情に濁り染まった。

 ——―果てしなき憎悪、という感情に。


 ——―――ォギャアアアアアアアッ!


 無数の悲愴な泣き声を織り交ぜたかのような絶叫が轟いた後、振袖の女が俺を地面に叩きつけるかのように手放した。

 俺の身体は、井戸の縁にドチャッとぶつかって引っ掛かった後、ズルズルと吸い込まれるかのように、暗い井戸の底へと堕ちていった。

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