二十八
振袖の女は、ちょうど鳥居が裂けている辺りで、揺らめいていた。
そうとしか言い様が無かった。佇むでもなく、座るでもなく、揺らめいていたのだ。重力に反し、直立の姿勢で、地面と平行に、水中を漂うかのように、灰色の振袖を、長い黒髪を、揺らめかせながら、俺たちを見下ろして―――。
「うぁ、あああああっ!」
逆さまの状態のそれが目に映った途端に、俺は悲鳴を上げていた。
半狂乱の岩澤に押さえつけられて、身動きができないというのに、鳥居を超えたのに、異界を脱したはずなのに、振り払ったと思っていた、もう現れないと思っていた化け物が、目の前に―――。
「うまずめさまぁああっ!俺はっ、俺はっ、違いますよねえぇええええっ!?」
岩澤が、口から泡を吹きながら叫んだ。顎先から汚らしく垂れたそれが、俺の胸元にねばねばと落ちてきた。
「あああっ、うあああっ!」
頭上に迫る恐怖を前に、痛んでいた身体が否が応でも動いた。逃れようと、腕を、足を、頭すら動かした。が、どれだけ暴れ回ろうと、岩澤の拘束から逃れることはできなかった。
「ねへぇええっ!?違いますよねぇええっ!?」
岩澤は許しを請うかのように、喚き続けていた。胸の前に掲げたその手には、木札が―――。
「……っ!」
そうだ、あの化け物は、木札があれば、近付けないはず!
死に物狂いで、岩澤の手首を掴んだ。そのまま、もう片方の手で木札を掴み、奪いにかかる。
これさえあれば、俺は無事でいられるっ!
「やめろぁあっ!今更なんだぁあっ!じたばたするなぁああっ!」
岩澤が、凄まじい力で抵抗してきた。それでも、木札から手は放さなかった。
俺は、無事に帰るのだ、日常へ、麻理の元へっ!
「らぁあああっ!慎ましくしていろぉおおっ!うまずめさまの前だぞぉおおっ!」
共に木札を掴んで揉み合っていると、岩澤が絶叫しながら俺の腕を殴りつけてきた。それでも木札を放さずにいると、とうとう顔面を思いきり殴られた。
「がっ……!」
鼻っ面をもろに砕かれて怯んだ。と同時に、とうとう木札から手を放してしまった。口の中へ鼻血がどろりと逆流してきて、生温い鉄の味が広がる。
「ああああ、見苦しい所をお見せしましたぁあ、あは、ははっ」
岩澤が化け物を見上げながら、媚びへつらうように笑った。奪われた木札が、その手に握られている。
「こんなものっ、こんなものを持ってたら、お困りになりますですよねぇえええっ!?」
突然、岩澤が木札の端と端を両手で掴んだ。
——―まさか、
「やめろっ!ぞればっ!」
口から血の飛沫を飛ばしながら叫び、手を伸ばした。が、間に合わなかった。
「わたくしのぉおっ!誠意をお見せしますぅうううううっ!」
——―バキンッ!
と、岩澤の手によって、木札は真っ二つにへし折られた。
「ぁああっ……!」
落胆と危機感を同時に味わうのも束の間、岩澤が両手に持ったそれを、
「これでぇえええっ!」
ズジュッ!と、両目に突き刺した。
「うっぎゃああああああっ!い、いたっ、あああっ、ぎゃああああああああっ!」
「うわああああああっ!」
矢継ぎ早に襲ってくる恐怖に、頭がおかしくなりそうだった。最早、何に対して悲鳴を上げているのかも分からなくなっていた。目の前が、経験したことのない狂気と恐怖と血飛沫で埋め尽くされていく。
「あっ、ぎゃっ、い、いたっ、痛いぃいいいっ、あああっ、うっ、うまずめさまぁあっ!これでどうですかあああっ!?落ちぶれた上にこれですよぉおおおっ!?どうか許してくださいますよねぇえええええっ!?」
——―――ォギャアアアアアアアッ!
岩澤に応えるかのように、化け物が叫んだ。瞬間、空中で揺らめいていた化け物が、ゆっくりと、こっちに向かってきた。
「うわああああっ!あああああああっ!」
まるで、水底にいるような気分だった。ゆらりゆらりと、振袖を、長い黒髪を、揺らめかせながら、化け物が沈んでくる。俺に向かって、絶望が舞い降りてくる。
岩澤は未だに喚き続けていた。唯一の頼みの綱だった木札を、両目に突き刺したまま。
「うあっ、ああ、あああっ……!」
顔面が、汗と、血と、唾に、塗れていた。
身動きが、取れない。
逃げられない。
もう、ほとんど目の前に、化け物が―――。
その時、化け物が羽織っていた振袖の袖口から、ぐじゅるぐじゅると赤く、黒く、茶色いアメーバのようなものが現れ、俺たちに向かって伸びてきた。
―――腕か。
間近で見ると、それには、無数の、顔があった。
アメーバ状の腕の中に、無数の、目と、口と、鼻が、どろどろと、溶けて、混ざり合っていて―――。
——―おぎゃああっ
——―——おぎゃあああっ
―――おぎゃああああっ
―――——おぎゃああっ
——―おぎゃあっ
―――——おぎゃあああああああっ
それらの、顔が、全て、泣き声を―――。
「うまずめさまぁああっ!」
岩澤の短い叫び声を最後に、俺の意識は限界を迎え、ブツリと途切れた。
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