二十七
「い、岩澤さん、無事だったんですか?」
恐る恐る、訊いた。
岩澤を最後に見たのは、山頂で化け物から逃げ惑っている時だ。突然、悲鳴を上げて、半狂乱になりながら、藪道の横の雑木林の中へ消えていった。俺たちはそれを見捨てて、斜面を転がり降り、逃げている途中に……。
岩澤の悲鳴を聴いた。断末魔の叫びのような悲鳴を。
てっきり、化け物に襲われて、死んだものかと―――。
「ぁああ?」
岩澤が、背中を向けたまま答えた。が、なぜかその語尾には、疑問符が付いていた。まるで、こっちがおかしな質問をしたような気になる。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
再度、訊いた。すると、岩澤は、
「……ああ、多分なあぁ」
と、答え、ブルッと背中を震わせた。その時、ようやく気が付いたが、岩澤はポリタンクの背負子を背負っていなかった。一見すると黒い人影に見えたのは、身に着けていた黒いツナギと長靴のせいだ。
「よ……よかった。早く逃げましょう。あれが――」
「ああああああああああっ!」
突然、岩澤が大声を上げ、ビクッと身体が跳ねた。思わず、握り込んでいた木札を落としそうになる。
「何がどうなってるんだろうなあああ!」
間髪を入れず、岩澤が大声を上げた。と思ったら、それっきり、急に黙り込んだ。
ずっと背中を向けられている故に、表情が見えない。
「い、岩澤さん?」
呼ぶが、岩澤は答えない。
「岩澤さん?」
再度呼ぶが、答えない。
「あの、何が――」
「だからぁああ!俺は違うんだよぉおお!」
俺の言葉を遮って、岩澤が声を上げた。まるで、苛立ちながら弁明しているかのような、開き直っているかのような調子の声を。
「俺はぁああ!ちゃんと償ったんだぁあ!ちゃんとろくでもない身分になってさあぁあ!落ちぶれてさああ!惨めに人生落ち込んでさああ!だから、違うんだよおぉおっ!」
微動だにしていなかった岩澤が、背中を曲げて慟哭するように吠えた。が、未だに、こちらを向こうとはしない。
「なんでなんだろうなあぁ……なんでこうなったんだろうなぁあ……」
今度は、ブツブツとぼやき出す。
まさか、岩澤は今度こそ、クスリの効き目が切れたのだろうか?
そうに違いない。でなければ、こんな不可解な行動をするはずがない。質問にまともに答えず、意味不明な言葉を叫ぶなど、クスリによって覚醒する以前の岩澤の振る舞いだ。
「岩澤さんっ!いいから、山を降りましょう。ここにいたら――」
「何言ってんだ?」
突然、岩澤が落ち着いた調子で、だが、語気を強めて言い放った。
「俺は、まだ、許しをもらってない」
その声は震えていたが、それは恐怖というよりは、怒りによるものだと感じた。そして、その矛先は、俺に向けられているようだった。
「許し?」
少し、苛立ちながら訊いた。シャブ中と要領を得ない会話をしている暇はない。さっさと切り上げて、山を降りなければ。
「罪は償わなきゃならないんだ。この山に入ったからには、そうしないと出られないんだ。許しを貰わないと、出られない。うまずめさまの――」
「いいから行きましょうっ。わけの分からないことを言ってないでっ」
「わけが分からないだとっ!」
岩澤が、背中を向けたまま怒鳴った。拳を握り込み、ブルブルと震わせている。と、その時、岩澤の手から、何かがポタポタと滴り落ちているのに気が付いた。
「わけなら分かるはずだっ!お前にも心当たりがあるだろう。でなきゃ、うまずめさまの怒りを買わない。こんな目に遭うはずがない。俺もお前も、いわば
喚いていた岩澤が突然、背中を丸めてガシガシと禿げ頭を搔き毟った。あまりに強く掻いたのか、血が垂れ――いや、違う。
あの血は、頭から出血したのではない。元から手に付いていた血が、ぬるぬると頭に移り伝ったのだ。
「……っ!」
思わず、ジリリと後ずさった。
会話が成立していると思っていた。シャブ中はシャブ中だが、無理を通せば勢いでそれなりに会話ができるものだな、と思っていた。
だが、会話など、成立していなかったのだ。
シャブ中も似たようなものだが、違う。岩澤はとっくに、別の方向に気が触れていたのでは―――。
「俺は……俺はっ……違うんだよぉおおおっ!」
バッ!と、岩澤が振り向いた。その顔には、まるで塗りたくったようにどす黒い血が付いていた。それが、ギトギトと掻いた汗に混じって、ぬらぬらと顎へ滴り落ちている。
ひっ、と息を呑んだのも束の間、岩澤が迫ってきて、胸ぐらをグッと掴まれた。
「なあ!俺は、違うよなあ!違うよなあっ!」
「やっ、やめろっ!離せっ!」
振りほどこうとしたが、岩澤は凄まじい力で俺のシャツを捉えて離さなかった。ミチミチと、繊維が軋む音が襟元からした。
「俺は違うんだっ!俺は白石クンみたいに、させてないんだっ!俺は、言われたことをやっただけなんだっ!それが、ちょっと失敗しただけなんだっ!シミュレーターじゃ完璧だった!それまで失敗したことなんて一度もなかった!あの時は緊急だったが、手順だって完璧だった!点滴ラインも、カテーテルも、麻酔も、切開も……!俺一人だけでも、完璧にできてたはずなんだっ!それがっ……
わけの分からないことを喚きながら、岩澤が俺の胸ぐらをぐわぐわと揺さぶった。血と汗と狂気に塗れた凄まじい形相の顔を寸前まで近付けられ、顔に唾が飛んでくる。
「やめろっ!離せっ!離せぇっ!」
「俺は確かに殺した!人殺しだ!でも、わざとじゃないんだっ!俺は違うっ!白石クンみたいな、たかだか十万ぼっちの金を払って人殺しを依頼してくる奴等とは違うっ!罰だって受けたっ!それまで順調だった道を踏み外して、落ちるところまで落ちたんだっ!毎日毎日、程度の低い連中から怒鳴られながら、バカにされながらっ……!」
逃れようと、めちゃくちゃにもがいた。腕を振り回し、殴りつけもしたが、岩澤は俺を離さなかった。
とうとうシャツの襟元がブチブチと裂け、胸元に風を感じた時、
「うああっ!」
身体のバランスを崩して、俺はドサッ!と後ろに倒れ込んだ。後頭部と背中を石造りの地面で強かに打ちつけ、目が散って視界が滲む。
「……かっ…ぁあっ……」
声にならない声が口から弱々しく漏れ出た。身体の内側から、重苦しい鈍痛が全身に広がっていく。後頭部の冷たい痛みが前へとせり上がってきて、チリチリと目の奥で火花を散らした。
「俺はっ!俺はぁっ!違うんだぁっ!うまずめさまぁっ!」
岩澤は、未だに俺の胸ぐらを掴んでいた。俺に乗っかり、マウントを取ったような状態になっているのが、滲んだ視界の中で分かった。
「ぐうっ……!」
なんとか逃れようともがいたが、身体に力が入らないせいで、マウント状態を脱することはできなかった。振り回す腕が、弱々しく空を切る。
それでも、必死に逃れようとしていると、
「おいっ、何を持ってるっ!」
喚いていた岩澤が、俺の手首をギリギリと掴んだ。木札を握り込んでいる方の手首を。
「こんなものでどうにかなる問題じゃないんだっ!」
岩澤が木札に手を掛け、引っ張った。
「や、やめろっ!それはっ!」
抵抗したが、敵わなかった。岩澤は俺の手から強引に木札を奪うと、
「俺はこんなもので逃れようなんて思ってませんよぉおおっ!うまずめさまあああっ!」
と、絶叫した。静寂に包まれた山に、ビリビリとそれが響き渡る。
——―待て。
…………静寂?
咄嗟に、耳を澄ました。が、不気味なくらいに何の音も聴こえてこなかった。先程まで聴こえていたはずの虫の声や、木々のさわめき、風鳴りの音が―――。
——―——ぅううぅうぅあぁあぁあああぁぁあああ
ほとんど真上で、あの声がした。
顔から血の気が引き、心臓が凍る。
「あぁああっ、そこにいらっしゃったんですねえええっ……」
岩澤が、引きつったような声を上げた。
俺たちの真上、真っ二つになった鳥居の上に、振袖の女が揺らめいていた。
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