二十六

 俺が弾き飛ばしたことによって、お堂の扉は左右両方とも開け広げられていた。

 その向こう、お堂の中に、振袖を羽織った長身の女が佇んでいる。

「あ……ああっ……」

 へたり込んだまま、ずりずりと後ずさりをしていると、その振袖の女が横を向いていることに気が付いた。こちらには目もくれず、何かを―――。

 ……っ!

 あの女は、壁の方へ身体を向けている。アマネが寄りかかっているであろう壁の方を。

 さらに、よく見ると、女は若干俯いていた。

 まるで、アマネをじっと見下げているかのように―――。


 ——―あっきゃあっきゃあっ


 お堂からは、未だに赤ん坊の笑い声が小さく聴こえていた。

 と、その時、女が、ゆっくり、ゆっくりと、こちらの方へ振り向いた。

 その顔は、黒く、暗く、おぞましく、塗り込められていて―――、


 ——―――ォギョァアアアアアアアッ!


「うわああああっ!」

 化け物が叫ぶと同時に、俺は悲鳴を上げていた。慌てふためきながら立ち上がり、そのまま降り口の方へと転がるように駆け出す。

 ヤバいっ、マズいっ、殺されるっ、逃げろっ!

 アマネを見捨てたことを、後悔してはいなかった。というより、他人を気遣っている余裕など、とっくに失っていた。

 知るかっ!あんな言う事を聞かないクソアマのことなんかっ!

 後ろを振り返らず、一心不乱に走った。長いこと暗闇に浸っていたせいか、目は完全に慣れてしまっていた。

 残骸の山の横を通り抜け、石造りの道へ躍り出て、降り口の坂道へ飛び込んだ。なだらかに角度が付いた地面を蹴り飛ばし、勢いのまま、飛ぶように走る。

 早く、早く、あの化け物から、逃げなければっ!

「はっ、はっ、はぁっ!」

 息が上がり、喉が鳴り、肺と脇腹がキリキリと痛んだ。それでも、全力で右に左にくねった坂道を駆け降りた。

 身体の痛みなど、どうだっていい。とにかく、あの、化け物からっ!

 急げ、早く、早く、早く、早く、早く早く早くっ!

 ……っ!

 くねった坂道の下方、暗闇の向こうに、あの真っ二つに朽ちた鳥居が見えた。瞬間、不意に脳裏に、あれをくぐれば大丈夫なのではないか、という思考がよぎった。

 そうだ、思い返してみれば、異様さを感じ始めたのは、あの鳥居をくぐった時からではないか。虫が鳴かない、獣の気配もない、生命の息遣いが感じられない領域に入ってしまったと。

 鳥居——いわば、あれは門だ。日常と、異界を繋ぐ門。そう、こちら側は、異界だった。得体の知れない化け物が潜み、襲い掛かってくる異界。

 あの鳥居をくぐれば、俺は日常に、元の世界に戻れる……!

 必死に息を吸い込み、足を踏み出した。もう少しで、辿り着く。急げ、走れ、止まるな、あと少しだ、あと少しで、目の前に、早く、鳥居を、くぐれっ―――。

「——―はぁっ!」

 全力疾走を維持したまま、飛び込むように鳥居をくぐり抜けた。真下に散らばっていた残骸を勢いよく飛び越えると、咄嗟に後ろへ振り返る。

「……っ」

 鳥居の向こうに、化け物の姿は無かった。暗闇に染まった石造りの坂道がグネグネと続いている。

「うぇっ、げほっ!はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 急に失速したせいか、身体から力が抜けて咳き込んだ。立ち止まり、必死に息をして、強張った肺から全身に酸素を行き渡らせる。

 追ってきていないのか―――?

 バクバクとうるさいほどに脈打つ心臓を落ち着かせながら、耳を澄ました。あの化け物が迫って来ているならば、べちゃべちゃという音が―――。


 ——―フィリリリ


 これは――虫の鳴き声だ。

「……はぁっ」

 それを聞いた途端に、肩の力が抜け、膝に手をついた。

 ——―戻ってきた。

 俺は、戻ってこれたのだ。生命の息遣いが感じられない領域から、危険な異界から、脱したのだ。

 虫だけではなかった。気が付けば、木々のさわめきや、風鳴りが聴こえる。山にいると感じられる、いや、当たり前に感じられなければならない自然の喧騒が、聴こえている。

 思わず、涙が出そうになった。普段なら聞き逃しているであろうそれらが、この耳に聴こえていることが、たまらなく嬉しかった。今、その辺で鳴いている虫が何の種類かも分からないが、そのフィリリリという鳴き声が、俺を歓迎しているように感じる。

 ああ、俺は、無事に―――。

 シャツの袖で、汗まみれの顔を拭った。と、その時、手に木札を握り込んでいたことに気が付いた。

 これのおかげで、助かった……。

 よく見ると、ボロボロの木札の表面に、指の形のシミができていた。リレーのバトンのように、ずっと握り込んでいたせいで、手汗が滲んだのだろう。

 もう大丈夫かもしれないが、念の為に持っておこう。まだ、何があるか分からないが、これさえあれば自分の身を―――。

 ……アマネはどうなった?

 ブンブンと頭を振って、脳裏によぎった思考を掻き消した。

 考えるな、あんなクソアマのことなんか。もうとっくに気が触れていたのだ。助けたところで、どうにもならなかっただろう。あんな気持ちの悪いものを、赤ん坊と勘違いしていたのだから。

 無事かどうかなど、心配する必要はない。後悔など、する必要はない。俺には、何のいわれもないのだ。

 気を取り直して、背中を伸ばすと、ふうっと息を吐いた。

 さっさと山を降りよう。恐らく、ここまで来れば大丈夫だろうが、油断はできない。

 向き直り―――、

「……っ!」

 息を呑んだ。

 暗闇の中に溶け込むかのように、黒い人影が立っていた。

 いつの間に――何の物音もしなかったのに―――。

 突然の出来事に、身体が硬直した。

 黒い人影は、こちらに背中を向けていた。立ち尽くしたまま、微動だにしていない。その後ろ姿は、細身で、長身で――見覚えがあった。

 ——―まさか。

「……岩澤さん?」


「…………ぁあ」


 黒い人影が、微動だにしないまま返事をした。その声は、紛れもなく岩澤のものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る