二十五
見覚えがあった。
あれは、残骸の瓦礫の中に打ち捨てられていたものだ。残骸の間の道を通り抜けている時に、アマネがじっと見つめていた、薄汚いクマのぬいぐるみ。
それが、二足歩行でぎこちなく歩いている。まるで、生きているかのようにひとりでに動いている。
ぐっちょりと濡れているのか、足を踏み出す度に、ぺちゃぺちゃと水音が――待て、濡れている?
あのぬいぐるみは、濡れてなどいなかった。それがなぜ―――。
「……っ!」
そうだ、あのぬいぐるみは、薄汚れてこそいたが、あんな色をしていなかった。残骸の中で見た時、あのぬいぐるみは薄茶色をしていたはずだ。カビが生え、黒ずみ、土くれが付いていて―――。
それが、なぜ、あんなにも、赤く、黒く、茶色く、ぬらぬらと、汚れている?
「……ごめんね……ごめんね……」
アマネが床に手をつき、ぬいぐるみに向かって頭を垂れた。ぬいぐるみはそれを、くりくりとした黒いプラスチック製の目で、じっと無機質に見つめていた。
「……本当は……産みたかった……でも、ううっ……」
アマネは泣きじゃくりながら、土下座をするようにひれ伏した。手首に巻いていた数珠が、床に当たってチャラリと鳴った。
「……だからっ……ママなんてっ……うっ……呼ばないでっ……」
ぬいぐるみが、ぺちゃぺちゃとアマネに歩み寄った。
「……私はっ……私はっ……」
ぺちゃっ――と、ぬいぐるみが手を伸ばし、アマネの頭に触れた。
アマネが、顔を上げる。
「………ううっ……あああっ!」
アマネが泣き叫びながら、ぬいぐるみを抱え上げ、腕の中に抱きしめた。
「……ごめんね……ごめんね……もう……ずっと……」
——―おぎゃああああああああっ!
「う、あああっ!」
不意に響いた赤ん坊のけたたましい泣き声で、ようやく我に返った。慌てふためきながら後ずさると、ドンと背中に壁が当たった。
何なんだっ、あれはっ!
まるで、血に塗れたように汚れたクマのぬいぐるみがひとりでに動き、赤ん坊の泣き声を発している。それを、アマネが愛おしそうに抱きしめている。
「あ、ああ、あああっ!」
ガクガクと震える腕で、アマネに――ぬいぐるみに向かって木札をかざした。が、赤ん坊の泣き声は止まず、お堂の中にけたたましく響き続ける。
何が、どうなっている、木札が、効かないのか、あれは、化け物ではないのか、ならば、あれは、何なんだっ!
「……もう……離さないから……ずっと……一緒だからっ……」
「あ、アマネさんっ!アマネさんっ!」
口から唾を飛ばして怒鳴ったが、アマネはぬいぐるみを愛おしそうに撫でるばかりだった。ぬいぐるみの頭を肩に寄せ、両腕で大事そうに抱きかかえている。
まるで、赤ん坊を抱いているかのように。
「アマネさんっ!!」
恐怖と焦燥で脳が空回りし、喉が張り裂けそうなほどに叫んだ。すると、ようやくアマネがこちらの方に顔を向けた。
「そいつを早く離せっ!そいつは、赤ん坊なんかじゃないっ!」
木札を掲げながら、怒鳴りつけた。が、アマネはどろどろと黒い涙を流しながら、
「違うっ!この子はっ……私のっ……!」
「しっかりしろっ!それは、ただのぬいぐるみだっ!」
「そんなわけないっ!私のことをっ、ママってっ……!」
——―おぎゃああああああああっ!
「くそっ……!」
気が変になりそうだった。絶えず響く赤ん坊の泣き声、血塗れのクマのぬいぐるみ、それを赤ん坊だと信じ込んで手放さないアマネ、かざしても効かない木札——―。
——―おぎゃああああああああっ!
「うっ……ううっ……!」
——―おぎゃああああああああっ!
「うあああああああっ!」
気が付くと、足元にあったポリタンクの取っ手を掴み、背負子ごとアマネに向かって振り回していた。
―――バギャンッ!
と、鈍い音がして、アマネが倒れ込んだ。と同時に、赤ん坊の泣き声が止み、パラパラと軽い音を立てて、何かが床に散らばった。
「はっ、はっ、はあっ……」
息を荒げながら床を見ると、透明な玉がそこら中に転がっていた。どうやら、アマネが手首に巻いていた数珠が、ぶつけた拍子に千切れたようだった。
「うぅ……」
アマネが、よろよろと身体を起こす。その手には、何も抱えていない。
あれは、どこに―――。
「……っ!」
息を呑んだ。
目の前の壁に、あのぬいぐるみが張り付いていた。そこから放射状に、赤く、黒く、茶色い液体が飛び散っている。
まるで、肉の塊を叩きつけたかのように―――。
「きゃあああああっ!」
アマネが悲鳴を上げると同時に、ずるるっ、とぬいぐるみが壁からずり落ちて、
——―べちゃっ!
と、汁っぽい音を立てた。
「あ、あああっ!私のっ、私のっ!」
めちゃくちゃに喚きながら這い寄ろうとするアマネを、咄嗟に羽交い絞めにして押さえつけた。
「アマネさんっ!あれは赤ん坊じゃないっ!あれは、ぬいぐるみなんだっ!あれが、惑わせようとしてっ!」
「私のっ!あああああっ!」
なんとか説き伏せようとしたが、アマネは錯乱状態に陥ったのか、耳を貸さなかった。押さえつけてもなお、床をガリガリと引っ掻きながら、血塗れのぬいぐるみに這い寄ろうとしている。
「アマネさんっ!アマネさんっ!……くそっ!アマネっ!」
とうとう、呼び捨てで怒鳴りつけた時だった。
——―――ぁああぁああぁぁぁああぁあああ
あの呻き声が響き渡った。
枯れた喉で息を吐いているかのような、あの――化け物の声が。
すると、お堂のあちこちで、べちゃっ!べちゃっ!と、化け物が這う音がした。上下も左右も関係なく、壁から、床から、天井から、絶えず不規則な拍子で聴こえてくる。
まるで、このお堂全体を、化け物が這い回っているかのような―――。
「……っ!逃げるぞっ!アマネっ!」
今までの比ではないほどの恐怖を感じ、心臓が痛いくらいにバクバクと脈打った。ここに留まっていては死ぬと、身体の内側から湧き上がる生存本能が告げている。
「早くっ!」
アマネの首根っこを掴み、無理矢理にでも引きずってお堂の外へ出て行こうとした。が、アマネは凄まじい力で暴れ回り、抵抗してくる。
「いやっ!いやあああっ!」
「いいからっ!行くぞっ!」
そうしている間にも、あちこちでべちゃべちゃと音がしていた。お堂が今にも叩き壊されてしまうような気がして、恐怖と焦燥に駆られた脳がグルグルと高速で空回る。
「くそっ!」
とうとう、両手で首根っこを掴み、引っ張った。ブチブチと、ジャージの繊維が引き千切れる感触が伝わってくる。
「……っ、来いっつってんだろうがっ!このクソアマッ!」
苛立ちながら、怒鳴りつけた。瞬間、
「いやっ!いやああっ!私のっ!私のっ……ゆうっ!」
ブチブチッ!とジャージの背中側が裂け、拘束から解き放たれたアマネが、壁に向かって突進した。バガンッ!と派手にぶつかり、床に倒れ込む。
「ううっ……」
「あ、アマネっ!」
駆け寄ろうとした、その時、
——―ぉぎゃぁあ……
か細く、赤ん坊の泣き声がした。ハッと息を呑み、足を止める。
叩きつけられ、壁の下に転がっていた血塗れのクマのぬいぐるみが、むくっと起き上がっていた。汁気を含んだ手足でぺちゃぺちゃと立ち上がり、倒れているアマネに擦り寄っていく。
——―ぉぎゃぁ……ぉぎゃぁあ……
「ゆう……」
顔を起こしたアマネが、泣き笑いの表情を浮かべた。頬を伝うどす黒い涙のせいか、それがあまりにも異様に映り、近寄るのを躊躇わせた。
アマネを、助けなければならないのに―――。
——―ぉぎゃぁあっ
「ゆう……よかった……ゆう……」
アマネが身体を起こし、ぬいぐるみを抱きかかえた。ジャージの背中側が真っ二つに裂けていて、プリントされていた金色の天使の翼の模様が、だらりと垂れている。まるで、引き千切られたかのように。
——―おぎゃああ、おぎゃああああ
「ごめんね……ゆう……もう……絶対に……離さないからね……」
アマネが、愛おしそうにぬいぐるみの頭を撫で、肩に抱き寄せた。その瞬間、泣き声が止み、
——―あっきゃっきゃっきゃっ
打って変わって、笑い声が響いた。赤ん坊が、拙く笑う声が―――。
「……っ!」
アマネをっ―—いや、もう、手遅れだ。
なぜか、そう直感した。赤ん坊の笑い声を聞いた瞬間に、もうアマネは正気に戻らないだろうと確信した。
「くそっ!勝手にしろっ!」
そう吐き捨てると、俺は木札を力強く握り込み、扉を弾き飛ばすようにこじ開けて、お堂の外へと飛び出した。石段を飛び降りると、石造りの道を駆けて―――、
「—―うあっ!」
何かに蹴躓いて転び、前のめりに倒れ込んだ。慌てて起き上がり、振り返ると、足元にあの白石の足が転がっていた。
本来ならば、一刻も早く立ち上がり、逃げ出すべきだったが、俺の目は無意識にその向こうのお堂を見遣っていた。化け物が襲って来やしないか、という不安から。
「……っ!」
息を呑んだ。
ついさっき飛び出してきたばかりのお堂の中に、あの化け物——振袖の女が佇んでいた。
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