二十四
それは、お堂の扉の下方から聴こえていた。
——―おぎゃああ、おぎゃあああ
紛れもなく、泣き喚く赤ん坊の声だった。まるで、扉のすぐ向こうに赤ん坊がいて、泣き喚いているかのようだった。
……今度は、こんなもので俺たちを怖がらせようというのか。
俺は妙に、この事態を冷静に受け取っていた。
きっとこれも、化け物の悪あがきに違いない。近付けない腹いせに、この場で聴こえるはずのない声を響かせて、俺たちを怖がらせようというのだろう。
ふん、どうせ声ばかりで、近付けやしないのだ。構うことはない。怖がるな、木札さえあれば、俺たちが襲われることはない。
「大丈夫です、アマネさん、行きましょう」
アマネの肩を抱え、立ち上がらせようとした。が、アマネは動かずに、扉の方をじっと見つめていた。
「怖がらなくても大丈夫です。あれはどうせ――」
「なんでっ……」
「えっ?」
「……今、何て言ったの?」
アマネが、震えた声で扉に向かって言った。
——―おぎゃああああ、おぎゃあああああ
扉の向こうからは相変わらず、赤ん坊の泣き声が聴こえていた。
「なんで……どうして……」
怯えていたアマネの顔が、信じられないといった表情に変わっていく。
「アマネさんっ、これは幻聴です。あれが、赤ん坊の声を真似て――」
「……なんでそこにいるの?」
アマネは、涙声になっていた。
「そんな……なんで……だって……」
「あ、アマネさんっ!しっかりしてくださいっ!これは、幻聴ですっ!」
肩を揺すったが、アマネは呆然と扉の方を見つめるばかりだった。全身から力が抜けているのが伝わってくる。
「そんなこと言わないで……私は……ううっ……」
アマネが、グスグスと鼻を啜りだした。
さっきから、どうにも噛み合わない。もしや、アマネにはこの声が、別の声に聴こえているのか……?
——―おぎゃああああああああ
俺には、ずっと赤ん坊の泣き声が聴こえている。
一体……。
「ううっ、ああっ……ごめんなさい、ごめんなさい……」
とうとう、アマネは泣き崩れて床にへたり込んだ。ひれ伏すように手をついて、しきりに扉の方へ頭を下げ始める。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ううっ、あああっ、ごめんなさい……」
「アマネさんっ!しっかりしてくださいっ!」
——―おぎゃああああ
「アマネさんっ!」
——―おぎゃあああああ
「うっ、ううっ……ごめんなさいぃ、ああっ……」
——―おぎゃああああああっ
「ううっ……!」
頭が変になりそうだった。絶えず響く赤ん坊の声が耳に纏わりつき、焦りと苛立ちを増幅させていく。
「あ、アマネさんっ!いい加減にしてくださいっ!これは幻聴ですっ!あれが、勝手に言ってるだけなんですっ!耳を貸さないでっ!」
檄を飛ばすようにアマネに一喝したが、聞き入れられる様子は無かった。震えながら、泣きながら、扉の方へ頭を垂れている。
「アマネさんっ!耳を貸さないでくださいっ!」
「だ、だって、うっ……ママって……」
アマネが、涙声で言った。
「ママ、ママって……あああっ……」
……ママ?
と、その時、泣き声がしていた扉の下方から、
——―キィ……キィ……
と、木が軋む音がした。見遣ると、微かに扉が揺すられている。
「……っ!」
思わず、上の格子戸を見遣ったが、そこには何の姿も無かった。しかし、扉は小さくキィキィと揺すられ続けている。
……背の低い、小さな何かが、入ってこようとしている?
——―おぎゃあああああっ
ゾワゾワと、全身の毛が逆立った。
まさか……赤ん坊が入ってこようとしているのか?
そんな、そんなはずあるか。赤ん坊など、いるはずが―――。
——―おぎゃあっ
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が……私が……」
——―おぎゃあああっ
「私が……ううっ………ママが悪いの……」
「……っ!やめろっ!」
床にひれ伏していたアマネを無理矢理起こすと、頬をはたいて正気に戻そうとした。が、アマネは顔をぐちゃぐちゃにして泣き続けるばかりだった。目の周りに施していたメイクがどろどろと溶けて、黒い涙が頬を伝っていく。
「ううっ……ごめんね……本当はっ……本当はっ……」
「やめろっ!しっかりしろっ!」
「……本当は……産みたかったの……ああっ……ごめんね……ごめんね……」
「……くそっ!」
どうすれば―――。
何が聴こえているのかは知らないが、化け物はアマネの精神を揺さぶろうとしているようだった。このままでは、アマネが再起不能になってしまう。
どうにかしなければ。そう思案している間にも、扉はキィキィと揺さぶられ続けている。
「くっ!」
咄嗟に、握り込んでいた木札を扉に向かって掲げた。
「消えろっ!」
威嚇するように吠える。こうするしか、手段がない。
頼む、効いてくれ……!
「消えろっ!」
「……お願い……ママって呼ばないでっ……ううっ……私はっ……」
——―おぎゃあああ
「消えろっ!」
「……そんな……そんなことする資格ない……私は……私は……」
——―おぎゃああああっ
「くそっ!消えろっ!」
「……うん……でも……私はっ……私なんかっ……ううっ……」
——―おぎゃああああああっ
「消えろっ!消えろっ!」
「……うん……分かった……それでも……いいのなら……」
——―おぎゃああ、おぎゃあああっ
「消えろぉっ!」
「………おいで」
「なっ……!?」
思わぬ言葉を耳にして、身体が硬直した。瞬間、赤ん坊が泣き喚く声が止み、キィキィと揺さぶられていた扉がピタリと止まった。
「……こんな私でも……うっ……ママって呼んでくれるのなら……」
アマネが、よろよろと扉の方に這い寄ろうとした。
「やめろっ!しっかりしろっ!アマネさんっ!」
「離してっ!」
抵抗するアマネを、どうにか押さえつけた。華奢な身体のどこにそんな、と思うほどの強い力で暴れている。
「しっかりしろっ!赤ん坊なんていないんだっ!」
そう、アマネに向かって怒鳴った瞬間だった。
——―キィィ……
ゆっくりと扉が開かれ、薄暗い月明かりの筋がお堂の中に差し込んだ。
「……っ!」
思わず、後ずさると、足が祭壇に当たってガタンと何かが転げた音がした。が、目は扉から離せなかった。
一体、何が―――。
——―ぺちゃっ……ぺちゃっ……
と、小さな水音と共に入って来たのは―――、
「……ううっ……あああっ……!」
——―クマのぬいぐるみだった。
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