第9話 松坂悠希

 あれは、5年前の春だった。入社したばかりの俺は、先輩から企画書のコピーを頼まれたのだが、肝心のコピー機が故障してしまい、仕方なく総務部のコピー機を借りることになった。でも時期が時期だから、コピーを占領する訳にもいかずどうしたものかと思案していたところ

に、同期の桜塚菫が声をかけて来た。


 「あのう、松坂君。良かったら、営業部のコピー機を貸してくれるって」


 そう言って、俺の仕事を半分手伝ってくれた。その後、企画書にホッチキス止めをしてくれたのも彼女だった。


 うちの社長がお土産マニアで、色んな所の珍しい食い物を買って来ては配るという趣味のお蔭か?大半の奴の腹が出ている気がする。その土産をいつも各部署に配りに来ていた。


 どこにでもいる平凡な女子社員なのに、いつの間にか彼女を目で追う様になっていた。その彼女が新しいゲームの社内モニターで遅くまで悪戦苦闘しながら、ゲームを進めている姿を見ていると、何だか自分が企画した物が余計に愛しくなる。あんなに夢中になってくれるものを開発できるって結構凄くないか?って誰かに自慢したくなる衝動に駆られながら、時間が過ぎていった。


 あの飲み会に行ったのは、なんとなくだったけれど、そのお蔭で長年の片想いから解放された感は半端ない。きっと一生分の運を全て使ってしまったかもしれない。


 彼女は知らないだろうけど、結構彼女は社内の男に密かにモテていた。偶然、目の前の彼女が橋から落ちそうになった所に遭遇して、雨が降ったから近くのホテルに行ったけれど、正直展開が早くて困った。好きな女が目の前でシャワーを浴びているのを意識するなと云う方がおかしいと思う。


 でも、その日は何とか持ちこたえた。何となく違和感を覚えたからだ。目の前にいる女は本当に桜塚菫なのだろうか?確かに声も姿も彼女だが、そのなんていうか、表情や仕種がちょっと違う。なんていうか丁寧なんだ何もかも。


 良家の子女の仕種で、言葉使いも丁寧になった彼女を周りは「いよいよ婚活か?」なんて冷かしているけれど、絶対に違う。


 あの日からそんなに親しくもなかった俺に、丁寧に接してくれて、頼ってくれる彼女が誰なのか気にはなる。でもそれ以上に、単なる夜景を見ただけで、「宝石箱をひっくり返したみたいにキラキラしているのね」と呟いている姿は年齢より幼く見えた。


 段々、彼女に惹かれていく俺は、彼女に告白した。


 「俺と付き合って欲しい。俺の彼女になってくれ」


 そう言うと、


 「はい、わかりました」


 と事務的な返事を返したが、その後は順調に交際を進めていたはずなのに、会社の階段で転んだ時に、昔の桜塚菫に戻っている。なんにでも目を輝かせながら、俺に微笑んでいた彼女は突如いなくなった。


 俺は夢でも見ているんだろうか?


 一か八か俺は彼女の行きたがっていた水族館に行こうとデートの誘いをかけたのにやっぱり薄い反応に、好きだと思っているのは俺だけで彼女の方はそうでもないのかもしれない。そんな自虐的な事を考えながら、イルカのショーに誘ってみる。暫くは無反応の菫は水を掛けられた瞬間に別人になったみたいに燥いでいる。傍から見れば一見二重人格だが、きっと違う。彼女が別人になる時、なるはずのない音楽がスマホから流れている。まだ発売もされていないゲームの挿入歌が──


 だから、俺は思い切って彼女に聞いてみた。


 「君は一体誰なんだ?どうして桜塚菫の身体の中にいる」


 「……」


 彼女の表情は固まったままで、踵を返して立ち去ろうとしているのを、俺は腕を掴んで逃がさなかった。


 「君が本物の菫でなくても構わない。今の君が好きだから正直に打ち明けて欲しい」


 そう伝えた。俯いて、暫く何かを決心した彼女は


 「私の名前はヴァイオレット・ブロッサム。貴方が企画したゲームの世界の人間よ」


 そう言った。彼女の言葉と同時に周りの歓声が上がって、俺の「嘘だろう」という声はかき消された。


 その後、菫の部屋でもっと詳しい話を聞くことにした。もしこれが本当なら本物の菫は今どこにいるんだろう。まさかゲームの世界にいるなんてことはないよな。


 あまりにも現実離れしている出来事とは対照的に俺の鼓動は高鳴っていた。こんな不可思議な事を体験できる喜びに。

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