《おまけ》夕紅とレモン味 ―新しい家族―(ちょっぴり改稿版)
以前、同題異話SRで書いたものをすこし加筆修正しました。
内容は特に変わっていないので、読んだことがある方はあらためて読まなくても大丈夫です。
未読の方はよろしければこのままどうぞ。
今作の二十年まえ、茜が誕生した日のお話です。
――――――――――――――――――――――――――――――
くし形にカットしたレモンを手にとると、
見ているだけで口がすぼまって、目がしょぼしょぼしてしまう。
そうしているあいだにも二つめ、三つめ――と、つぎつぎと彼女の胃におさめられていく。あっというまにまるまる一個たべてしまって奈子さんはちょっと残念そうだ。まだ物足りないらしい。
不思議だ。まさしく神秘だ。
だって奈子さんはすっぱいものが苦手だった。
レモンとかお酢とか、酸味の強いものが苦手で、自分からすすんでたべることなんてまずなかったのに。
ダイニングテーブルの上にぽつんとあるガラスの器には、果肉を失ったレモンの皮がべろんと寝そべっている。
なごりおしそうに器をみつめていた奈子さんがふと顔をあげた。その目が『ダメ?』とぼくに聞いている。ぼくは『ダメ』と、やっぱり目で答えた。
あからさまにしょんぼりする奈子さん。
かわいい。とてもかわいい。かわいいけど、ダメなものはダメなのだ。
すっぱいレモンにも果糖が含まれている。なにごとも過ぎれば毒だ――なんて、そんなことを考えている自分がやっぱり不思議で、なんだかいまだに夢を見ているのではないかと思ってしまう。
まだほとんど平らな彼女のお腹に新しい命が宿っているなんて。
ぼくたちの子どもがそこに育っているなんて。
ほんとうに、夢みたいだ。
◇
ぼくがそれを知ったのは三回目の結婚記念日だった。
病院には数日まえに行っていたらしいのだけど、結婚記念日のサプライズにしようと内緒にしていたらしい。
驚いた。
驚いたなんて言葉では表現しきれないくらいに驚いた。
ぼくと奈子さん。どちらの身体にも問題はみつからないのになかなか妊娠しなくて、だんだんと周囲――おもに親類縁者からあたえられる悪気のないプレッシャーに奈子さんがふさぎこむことが増えてきて、ぼくもどうしたらいいのか悩むばかり。そんなタイミングでの妊娠報告である。
驚いて。うれしくて。しあわせで。
しあわせすぎて窒息してしまいそうだった。
◇
奈子さんにも赤ちゃんにも万が一のことがあってはいけないから、家事も買い物もぜんぶやってやろうとぼくは非常にはりきっていた。
だがしかし。
妊娠は病気ではないし、むしろ多少は動かないといけないのだと、奈子さんにあっさり却下されてしまった。とても残念である。
さいわい奈子さんのつわりは比較的軽くすんで、安定期にはいるころには味覚も戻ったのだけど。
レモンをまるまるたべてしまうあの変化は劇的で衝撃的で、ぼくはこの先レモンを見るたびに、奈子さんのマタニティ生活を思い出すのではないかと思う。
なんにせよ、育児教室にも夫婦でかよったし、ぼくは出産にも立ち会う気まんまんだったのだけど、これまた奈子さんに全力で拒否されてしまった。そしてその理由がかわいすぎた。
――だって、すっっごおぉーーく痛いんだよ、絶対。わたし、たぶん獣化するし! 百年の恋もさめるから! ダメよダメ。
もちろんそんなことで嫌いになったりしない自信はあったのだけれど、ただでさえ大変な出産である。奈子さんの希望が最優先だ。そこはゆるがない。だが、だが、やっぱりちょっと残念ではあった。
◇
その日は、予定日より半月近くはやくやってきた。
『生まれた。女の子』
奈子さんからそのメッセージが届いたのは、まの悪いことに午後の会議中だった。
朝ぼくが出社した直後に破水して、タクシーで病院に向かったらしいのだけれど、なにしろ初産である。奈子さんとしてはまだまだ時間がかかると思っていたのだという。それが予想外のスピード出産になった。
とにもかくにも会議終了後にスマホを見て仰天して、すぐさま会社を出たものの、病院に到着したときにはもう空が赤く染まりはじめていた。
◇
きれいだ――
そう思って、動けなくなった。
やわらかな夕陽がさしこむ病室。
奈子さんが生まれたばかりの赤ちゃんを胸に抱いている。
その光景があまりにも美しくて。
清浄。神聖。崇高。
そんな言葉が浮かんでは消える。
開け放たれていた入り口に立ちつくしたまま動けずにいると、気配を感じたらしい奈子さんがこちらを向いて、パ――ッと笑顔になった。なにかを洗い流したような、透明な笑顔だった。
「善さん。おかえりなさい」
「……
「……へ?」
出産という、大仕事をおえたばかりの妻にかける第一声としては、最悪だったかもしれない。
でも、きれいだった。ほんとうにきれいで、感動してしまって、いろんなことがぜんぶ吹っ飛んでしまったのだ。
夕暮れ。夕焼け。夕陽。夕紅。
赤色。紅色。桃色。朱色。
――茜色。
「その子の、名前」
「茜」
「うん。ダメかな」
名前だって、姓名判断とか音の響きとか、ふたりでいろいろ考えていたのだけど、それもすべてどこかに消えてしまった。
奈子さんは赤ちゃんを見て、窓に目を向けて、ぼくを見て。それからまた赤ちゃんに視線を落とした。
「あかね」
一音一音、ゆっくりと確かめるように発声した奈子さんは、にっこりと赤ちゃん――ぼくたちの娘に、茜に、笑いかけた。
「茜ちゃん。パパがきてくれたよ」
(おわり)
茜色した思い出へ 野森ちえこ @nono_chie
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