茜色した思い出へ

野森ちえこ

最後の夜

 きみの人生がはじまったとき、世界は茜色だった。

 目に焼きついているあの日の光景が、今のぼくの土台であり、道しるべにもなっている。

 それはぼくと奈子なこさんの、親としての人生がはじまったときでもあった。


 わかっている。きみが生まれた瞬間まだ空は青かったし、ぼくは奈子さんが産気づいたことも知らず会議に出ていた。

 だから正確には『ぼくがきみとはじめて会ったとき』の光景である。

 まあ、いいじゃないか。

 その場できみを『あかね』と名づけてしまったくらい感動したということだ。


 あの日から、生活のすべてがきみ中心になった。


 なにもかもがはじめてで、驚きとよろこびと不安と、一喜一憂する心に右往左往しているうち、飛ぶように毎日がすぎていく。そんな日々のど真ん中で、きみはすくすくと育っていった。


 はじめて笑った日。はじめて寝返りした日。おすわりできた日。ハイハイした日。しゃべった日。立った日。歩いた日。

 赤ちゃんの毎日は『はじめて』に満たされている。

 といっても、ぼくが直接立ち会えたきみの『はじめて』はそれほど多くない。

 当然である。平日の日中、ぼくはそのほとんどを会社ですごしているのだから。

 一度、『奈子さんがうらやましい』といったら『じゃあ一日ひとりでお世話してみる?』と、それはそれはとても素敵な笑顔で提案されて、ぼくは喜々として引き受けたのだけど。

 ちょうどハイハイができるようになったばかりのころだったものだから、好奇心旺盛なきみは一瞬たりともジッとしていなくて、うらやましがるのは筋ちがいであると猛省するまでに半日もかからなかった。


 そんなきみも今や大学生である。

 あの茜色の出会いから二十年。

 残念ながら弟や妹をつくってやることはできなかったけれど、奈子さんの親友である紗菜子さなこさんの息子、ゆずるくんがいたからだろうか。ひとりっ子でありながらお姉ちゃん的な責任感を持つ子になったような気がする。


 あっというまだったようにも、すごく長かったようにも感じる二十年。

 いつかこんな日がくるとは思っていた。思ってはいたが……。


「まだまにあう。考えなおすなら今だぞ茜」

「もう。くどいよお父さん。今生の別れでもあるまいし」


 我が娘はなんともつれない。


「そうよぜんさん。べつに結婚するわけでもないんだから」

「けっこ……」

「あら、固まっちゃった」


 我が妻はたのしそうだ。


 茜が二十歳の誕生日を迎えたのは半月ほどまえのことだ。そのとき、彼女はぼくにひとり暮らしの許可をもとめたのである。

 ほんとうは大学進学を機にひとり暮らしをしたいといっていたのだけど、大学まで片道約一時間。近くはないけれど、すごく遠いというわけでもない。

 通って通えない距離ではないのだし、部屋を借りるのだってタダではないのだから――とかなんとかあれこれ理屈をつけて、そのときはどうにか阻止したのだ。

 しかし茜はあきらめていなかった。子どものころからコツコツ貯めていたおこづかいと、高校時代からつづけているアルバイト代をあわせて、ひとり暮らしをはじめるのに必要な資金を自力で用意してしまったのである。

 しかもみつけてきた物件は、交通の便、周辺環境、部屋のセキュリティすべてぬかりなく、また学費以外の生活費は自分でまかなうというのだから、もうぐうの音も出なかった。

 自立心が強いのはいいことだ。いいことだけど。しっかりしすぎているのも、それはそれで心配になってしまう。

 もっとも奈子さんは最初から手伝っていたというし、部屋を紹介してくれたのも高校の同級生の親御さんが経営している不動産屋だとかで、とても親身に相談にのってくれたらしい。

 どうりでどこにもすきがないわけだ。ちょっと拗ねてもいいだろうか。


 なんにせよXデーがいよいよ明日に迫っていた。

 つまり生まれてから二十年暮らしてきたこの家で茜がすごすのは、ひとまず今夜が最後なのだ。

 そのせいか、今日は朝からずっと、走馬灯のこどく思い出が脳内をぐるぐるめぐっているのである。


「お父さん、お母さん、長いあいだお世話になりました」


 しおらしく頭をさげてみせる茜。


「しあわせになるのよ、茜!」


 がしっと娘の手を両手で握ってみせる奈子さん。


「うん!」


 力強く首肯する茜。

 そしてどちらからともなく笑いだす。


 まったく、悪ノリが好きな母娘である。悪ノリ。そう。今はまだ悪ノリだ。が、いつかほんとうに結婚する日がくるかもしれない。

 この時代、独身をとおす女性も増えているし、茜がその道をえらぶ可能性もあるけれど、おなじくらい結婚する可能性もあるわけで。


 どちらがいいとは一概にいえないし、どんな道をえらんでも茜がしあわせならそれでいいのだけど。

 そもそもぼくだって奈子さんと結婚したから今ここでこうしているのだし。

 しかし結婚。結婚か……。


 ダメだ。考えれば考えるほどドツボにはまっていきそうである。こちらはひとまず置いておこう。


 生まれてから今日まで、親子であらゆる『はじめて』を通過して、茜は今回はじめてのひとり暮らしをする。


 茜のいうとおり今生の別れではない。けれど、子の自立というのは、本質的なところではそれとおなじなのではないかという気がする。

 だからといって、娘の成長を否定するような親にはなりたくない。

 いったいぼくはどうしたら……。


「……茜!」

「な、なに」

「お父さんは、ずっとお父さんだからな」

「う、うん……?」


 落ちこんだとき。悩んだとき。ぼくはいつだってあの日の、茜色に染まった思い出へと立ち返っていたような気がする。


「なんでもいいから、いい加減ごはんたべようよ」

「そうね。ほら善さん。ここまできたら気持ちよく送りだしてあげましょうよ。ね?」

「……うん。じゃあ、乾杯しようか」


 先日二十歳になった娘のグラスにビールをそそぐ。


 茜。

 ぼくと奈子さんを親にしてくれてありがとう。

 きみがひとり立ちしても、たとえいつか結婚したとしても、きみはずっとぼくらの娘で、ぼくらはずっときみの親で、ここはきみの家だ。


 だから――

 だから、いつでも帰っておいで。

 遠慮はいらない。

 ほんとうに。いつでも。

 なんなら明日にでも。

 いつでも、待ってるから。


     (おしまい)

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