第20話


 千加良ちからの背中に雪が落ちては、消える。


 身体の震えを抑えることが出来なかった。

 両脚に感覚は無く、立っていられるのが不思議なくらいの僕は、蹲る千加良ちからの背中を見ていることしか出来ない。


「……馬鹿だな。何で泣いてるんだよ」


 顔だけ振り返るようにして僕を見上げた千加良ちからは、これまでに聞いたことが無いくらいに優しい声で言った。

 ……泣いてる?

 言われて初めて、頬を涙が濡らしていることに気づく。


「だ、だって千加良ちからくんが」

「あークッソ可愛い」


 そう言って一旦顔を伏せた千加良ちからが、再び顔を上げる。そこにあったのは、切なさを滲ませ甘く柔らかな笑みを浮かべて僕を見る千加良ちからだった。

 僕のことを散々、揶揄ってたくせに今なんで、こんな時に……。


 そんな顔は、反則だ。

 

「な、な、何を言ってるんですか?! 病院ッ……そうだ病院に行かないと。血が……ち、血が……血、が? あれ?」


 身体を押さえている千加良ちからの両手を恐々見れば、血の色らしきものは滲んではいない。


「刺さらなかった」

「…………へ?」


 それを聞いた途端、脚はまるで使い物にならなくなり地面にへたり込んだ僕は、千加良ちからの顔を恐る恐る覗き込んだ。


「本当に……?」


 座ったまま向き直る千加良ちからの微かに震える手が伸びて、僕を抱き寄せる。首元に顔を埋めるようにして背中に回された腕は、どんな隙間も作らせまいときつく抱きしめるのだった。

 確かな感触も、馴染みのある匂いも千加良ちからだった。

 そう。消えたりしない。

 僕はまた、泣きたくなって困ってしまう。


「眼の前で史堂しどうが居なくなるかと思ったら、すげー怖かった。こんな恐怖があるとか嘘だろ。刺されたのが、お前じゃなくて本当に良かった……」

「良くないですよ。僕だって、びっくりしたんですからね?」

「はははッ」

「でも、何で……?」

 

 回されていた腕が、そっと解かれる。

 身体を離すと千加良ちからはコートの内ポケットから何かを取り出した。

 千加良ちからの持つ手にあるのは、あのシガレットケースが歪んだものだった。

「……ッ?!」

 まるで熱いものに触れたかのように千加良ちからが地面に放り出した途端、どろりと黒く黯い血のようなものが、流れ出す。

 それはやがてシガレットケースの下に溜まりを作ると同時に、あれほど輝いていたシルバーもまた徐々に硫化する様を見せ、黯い翳りを宿し始めた。 


「これ……」

「禍い転じてなんとやら、だな」

「もしかして、呪いが解けた? でも、何で? 何しても傷もつかなければ、壊れそうにもなかったのに」

「あの『銀杏堂』の爺さんが試そうとしていた心当たりってのも、もしかしたら、これと似たような毒を以て毒を制すってヤツだったのかもな」  


 地面に投げ出された歪んだシガレットケースは、見つめる僕たちの前で瞬く間に長い年月を経た本来の姿に変わる。そうしている間にも雪は忌憚なく、その上に次から次に舞い落ちては溶けてゆくのだった。


 やがて千加良ちからの背後、僕の左眼に沢山の人が視えた。

 その人達は幼い子供から老人まで、不思議と男性しかいないのは、おそらく昔の因習と関係する呪いの縛りがあるのだろう。


 ……舞う粉雪は僕の眼を濡らし彼等の姿を、朧にする。


 その時、一際鮮やかな赤が左眼に、ふわと揺れた。手描き友禅と思われる独特な色彩のグラデーションが美しい、花や蝶を描いた振袖の袂だった。その、あまりの鮮やかさに彼等も魅せられたようだった。 

 赤い袂が翻り金糸や銀糸が燦く様は、懐かしい、いつかの夕焼けにも似ていて郷愁を誘われる。

 鮮やかな輝きは、やがて淡く消えゆく。

 振袖姿の女性が視えなくなると同時に、彼等もまた、雪に溶けるようにして失われたのだった。

 僕は、知らず詰めていた息を吐き出す。

 おそらく千加良ちからは、もうあの夢を視ることは無いのだろう。

 往日の、その願いが何だったのか成就したのかは分からないが、永きに渡って科せられた呪いは消えたのだから。


 こうして、千加良ちからの悪夢は終わりを告げるのだ。

 何ごとも、終わってみれば呆気ないものであると、誰もが知っている。

 終わらせるために始めるのか、始まりがあるから終わりがあるのか。

 おそらくは、その両方。


「……終わりにしたくない時は、どうすれば良いんでしょうね?」


 僕の言葉に、千加良ちからは片方の眉を上げた後、その真意を汲み取ったかのように「さあな?」と少し笑いながら立ち上がる。

 遅れて立ち上がろうとする僕の脚がまだ少し震えているのを見て取ると、肘を掴んで起こしてくれた。


 始めなければ、その終わりは来ないのだろうか。気づかないうちに、始まっていたら?


 雪は、粉雪から灰雪へと変わる。

 ひらひらと、花びらが舞うように降るそれは、瞬く間に薄らと世界を白く染め始めた。


「何にせよ、まだ始まっちゃいないだろ」

「……?」

「区切りが一つ、ついただけだ」


 不意に僕は、あることに気づく。

 この真っ白に染まりゆく世界は、実際には透明な氷の結晶の光が散乱する燦きで出来た世界なのだということに。

 つまり今、僕が眼の前にしているのは雪に埋もれ消えゆく世界ではなく、光に満ちてゆく世界に他ならないのだ。


 何度だって新しく始まる、その世界。


 そうやって物事を見れば全ては連綿と繋がり、区切りはあっても終わりというものは存在しないのかもしれない。

 

 千加良ちからの髪に、花びらのような雪がついているのを見て、僕は自然と口元が綻ぶのが分かる。


千加良ちからくんのお父さんも、今頃、眼を覚ましているでしょうか?」

「さて、な。何処に居るのかは知らないが、この場所は変わらずに在るんだ。もしかしたら、いつか『鬼灯ほおずき』に来るんじゃないかって気がするのは、俺だけじゃないよな?」

「僕も、そう思います」

「ははッ。待ってくれていると思った女が、居なくて驚くだろうよ」

「そうですかね? 僕は千加良ちからくんに会いに来るんだと思いますけどね」

「……ふうん?」

「あれ? ここは千加良ちからくんが、そういうとこだよって言うとこじゃないんですか?」


 肩透かしを喰らったような気持ちで僕が千加良ちからを見れば、そこには普段どおりの良く知る不敵な笑みを浮かべた千加良ちからの顔があった。


史堂しどう、覚悟しとけよ」

「……え? な、何を? 悪い予感しかしないんですけど」

「俺としては、なつめチャンが起きる前に、どうにかキメたいところだが、まあ気長にいくかな」

「って、何を言ってるのか分からないとまでは言いませんけど、どうしてそこになつめが」

「はははッ。分かってれば良いよ」


 どちらからともなく鈍色の空を見上げる。

 重たく垂れ込める黯い空から、白く絶え間ない世界の始まりを告げる静寂が落ち来るのを、二人暫く眺めた。

 

 



「……寒いな。コーヒーでも飲まないか?」













《了》

 

 


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夢告げ 石濱ウミ @ashika21

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