月の照らす愛しい夜に

藤咲 沙久

ただいま、おはよう。いってきます、おやすみ。


 あなたは朝日と共に眠る、まるで月のようなひと

「大袈裟だなぁ、さすがに明け方はまだ働いてるよ。それに、月は昼間にも見えるじゃない」

 寝巻きのスウェットを脱ぎながら理紀りきが笑う。せっかくの綺麗な例えは見事に一蹴されてしまった。それでも何となく嬉しい。理紀が出勤する前に帰宅できたのは久しぶりで、挨拶以外の無駄話に心が踊る。

 去年の春。仕事を変えた理紀の生活は昼夜逆転し、二人で過ごすことが難しくなった。だから一緒に住もう、そうやって同棲を決めたはずなのに。

(夜勤シフト制の理紀と、土日休みの私じゃ、結局……)

 休日すら噛み合わない日々の中で、理紀を見送るまでの僅かな時間はとても貴重だった。スーツをハンガーに掛ける時間すら惜しんで理紀を眺める。デニムを履く脚、揃いの指輪が光る右手、長い前髪に見え隠れする眉。起きて喋ってくれる彼を堪能したい。

「ふふ、どうしたの琴音ことね。ほら早くお風呂入らないと」

「その間に理紀が行っちゃうから。他のことするの、もったいない」

「琴音だって疲れてるのに、俺としては休んで欲しいけどなぁ」

 私が洗濯しておいた作業着を丁寧な手つきで鞄に詰めてから、理紀は膝を擦って私の方へ体を寄せた。時計をチラと確認したのが視線でわかる。真似して見た先の文字盤は十九時五分。余裕はあるけれど、理紀だってそろそろ出る時間だ。

「琴音。次に休みがそろったら何したい?」

 あやすみたいな柔らかい声音。すっかり化粧の崩れた目元を拭って、もやもやするままに口を開いた。

「理紀が料理してる横に居たい」

「好きなだけ居て」

「背中にずっと抱きついてたい」

「たまんないなぁ」

「朝までたくさんえっちしたい」

「ふふ、魅力的だ」

 そんなこと言われると仕事行きたくなくなるよ、なんて微笑む理紀に頭を撫でられる。全部受け止めてくれているのに、どうしてか心は晴れない。

 きっと彼は本当に叶えてくれる。でもそれは、私のワガママに合わせているだけにも思えて切なくなった。そんなことを思うのは失礼だとわかっていても止められない。夜は、夜はいつもこうだ。私を駄目にする。

(理紀は? 理紀はどう思ってるの?)

 昼はいい。仕事があるし、ちゃんと元気な私でいなきゃと頑張れる。虚勢を張れる。でも、染まる空に比例して心まで明かりを失っていくのが夜だ。こんなときに聞く理紀の優しい声は、嬉しさと同時に、あなたは平気なのという意地悪な気持ちを抱かせた。

 夜は、嫌いだ。こんな自分になってしまうから。指先が触れた脚ではストッキングが伝線していて、もう踏んだり蹴ったりだった。

「支度、終わったんでしょ。出掛ければ?」

 なじってしまわないようにと話題を変えたはずが、つっけんどんな言い方になった。どうして私はこう可愛げがないんだろうか。気分と目線が床に落ちて転がった。

 理紀がジッとこちらを見ているのがわかる。そのまま、私の落とし物を掬うように頬を両手で包まれた。やんわりと上向く顔。目が、合う。どうしてか潤んで見えた。

「ねぇ、琴音」

「……なあに」

「琴音が用意しといてくれた朝食、おいしかったよ。あのサンドイッチ大好き。夕飯はまた俺が作って冷蔵庫入れとくね」

 少し迷ってから、こくんと頷いた。私も理紀の作ってくれるご飯が大好きだ。まだ食事をしていないことを思い出すと、急に空腹を感じた。

「それからね。今すっごい仕事忙しくてさ。めちゃくちゃしんどくて、でも琴音に癒してもらう時間もとれなくて。……俺ね、寂しい」

「へ……?」

 寂しい、なんて言われたのは初めてだった。いつだってぐずるのは私、宥めてくれるのは理紀。温かく穏やかに受け入れてもらってばかり。彼の弱気な言葉を、私はあまり知らない。

「理紀も、寂しい……の?」

「寂しいよ。琴音が俺と居たいって言ってくれるのはすごく嬉しいけど。でも欲張りだからさ、言葉だけじゃ寂しさが埋められないんだ」

 理紀の掌が離れても、私は俯かなかった。見つめる先には涙の膜を薄く湛えた瞳。

「次に二人とも休みの日は、たくさんくっつかせてほしい。一日中だって抱きしめてたい。ねぇ、琴音も俺のお願いきいてくれる?」

 じわ、じわ。暗闇に溶けていた心がゆっくりと照らされる。愛しさで満たされる。その温度を確かめたくて一度目を閉じると、仄かに熱く感じた。

 “傍にいてあげる”と“傍にいたい”は、違う。後者は互いに同じくらい悲しくて、求めていると伝えてくれる。埋まらない寂しさをそっと、共有できた気がした。

「ん……。わ、かった」

「ふふ、ありがと。甘えるみたいでカッコ悪いから、ずっと我慢してたのになぁ。あんまり琴音が可愛くてさ。打ち明けてしまった」

「なあに、それ。馬鹿ね」

「ひどいなぁ、ホントのことだよ」

 理紀は優しくて、察しのいい人だ。沈みきった私に気を遣ってこんな話をしたのかもしれない。それでも言葉に嘘がないと思えたのは、笑顔を浮かべてもなお、理紀が瞳を濡らしていたからだった。

 夜は、嫌いだ。理紀がいない部屋に一人だから。でも理紀は昼の間、私のいない部屋に一人。あなたは昼が嫌い? なんて聞いたら、また笑って一蹴されるだろうか。

 さすがに時間が危ういと玄関へ向かいながら、そういえばと理紀は口にした。

「さっきは大袈裟って言ったけど、俺やっぱり月でいいや」

「私が例えたやつのこと?」

「そう。うっすら見える昼も、はっきり見える夜も。ずっと琴音を見守れるだろ?」

 ちょっとキザに片目を閉じて、理紀はいってきますのキスをくれた。

 だんだんと夜が深くなる。闇色が胸に迫る。だけど、空には私を照らすあなたが居てくれる。こんな夜も悪くないと、思った。



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月の照らす愛しい夜に 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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