理科の初恋
邑楽 じゅん
理科の初恋
わたしは理科の授業が好きというよりも、理科室で行われる授業が好きだった。
その理由は私と同じ班に好きな男の子がいるからだ。
教室ではなかなか近くの席になれないんだけど、理科室では違っていた。
月に一回くじ引きで席替えが行われる教室と違って、理科室では一年間ずっとかわらない。
だから、理科室での時間だけは彼の近くにいられる幸せを噛み締めることができるのだ。
「今日は小学校の授業でも習った、酸性とアルカリ性について説明をしようと思う。みんなは憶えているか?」
いかにも理科という感じの白衣を着た先生が教卓の前で説明を始める。
「この世のあらゆる物の酸性とアルカリ性を計る数値をphという。リトマス試験紙やBTB溶液はその物質の数値によって色が変わるというわけだ」
みんなは配られたリトマス紙を、ふたつの透明な液体が入ったビーカーに浸ける。
わたしたち女子が持っていたものは、赤色に。
彼と他の男子が持っていたものは、青色に変わった。
「すごいね、ホントにこんなキレイに色が変わるんだ」
わたしが思わず口に出した言葉に、彼はふっと笑顔を浮かべてくれた。
その視線と笑みが眩しくて、わたしはつい机の上に視線を落としてしまう。
わたしの顔もリトマス紙みたいに赤くなってないだろうか。
そんな風にぼんやりとしていたわたしの耳に先生の声が届くと、慌てて平静を装って教壇の方を見た。
「今渡したリトマス紙やBTB溶液の他に、よく見る『あるもの』が酸性とアルカリ性によって色を替えるんだが……誰か、答えられる者はいるか?」
先生は教室にいるみんなに向けてゆっくりと視線を送るけど、わたしも含めて誰も答えを言える人はいなかった。
「校庭にも埋まっている
すると、別の班の女の子が挙手をした。
「でも先生、校庭にあるのはみんな青とか紫っぽいですよ?」
「それは土壌のphが酸性に寄っているということだ。先生がまだ教員になったばかりのひと頃は大気汚染や環境破壊の影響で、酸性雨が降って紫陽花が青い花をつけると話題になった。それに日本の土壌は酸性のところが多い。もし赤い花を咲かせたいなら石灰の混ざった栄養土を与えてやると、徐々に赤くなっていくぞ」
やがて授業の終わりを教えてくれるチャイムが鳴る。
「試験管とビーカーは軽くすすいで、干しておくように。それと日直は片づけをしてから帰ってくれ」
偶然にも今日の日直はわたしと彼だった。
みんなが帰った後も、先生の手伝いを彼と一緒にできるなんて。
ありがとう、恋の女神さま。
もしかしてわたしに授けてくれた幸運なんでしょうか。
洗いものをしている間も、ついわたしは彼の横顔を何度も見てしまう。
そんな風にしていたせいだろうか、わたしはうっかりとミスをしてしまった。
「きゃっ、痛っ!」
落としてしまった試験管はステンレスの流し台の上で割れてしまい、咄嗟に拾おうとしたわたしは、指を切ってしまった。
慌てて先生が駆け寄って来る。
「後の片付けは私がやるから、長友は念のため川原を保健室に連れていきなさい」
理科室から保健室へと続く廊下の窓からは、校庭の裏にある紫陽花が見えた。
紫陽花は、薄紫の淡い色の花をたくさん付けている。
彼は申し訳なさそうに頭を掻いて喋り出した。
「ごめん、川原さん。僕がいたのにケガさせちゃって」
「そんなことないよ、長友くん。わたしの不注意だもん」
「でも、僕のせいだよ。だから……ちゃんとケガが治るまで、川原さんの手伝いをするからさ。僕が川原さんのこと助けてあげたいから」
思わず出てきた言葉に、わたしも焦って彼の瞳を見られずにいた。
恋の女神さま、ありがとうございます。
彼の告白とも取れる言葉って、きっとそういう意味ですよね?
わたしは嬉しさで全身が熱くなり、たぶん耳の先まで赤らめていると思う顔のまま、うなずいた。
その日、わたしたちは一緒に下校した。
今までクラスではあまり接点がなかったせいか、帰り道ではお互いにいっぱい喋って、いっぱい笑った。
それからは。
恥ずかしいけど頑張って彼をわたしの部屋に招いて、一緒に宿題をしたり。
自分のぶんとお揃いのおかずが入ったお弁当をふたつ作って彼に渡したりした。
教室では少し照れ臭そうに居心地悪そうにしてるけど、でも彼のはにかんだ笑顔が見られるのが、わたしの無上の幸せだった。
ある日の帰り道。
長友くんと一緒に帰宅していると、彼はいつものようにぎこちない笑顔でわたしに語り掛けてきた。
「ねぇ、川原さん……学校ではあんまり目立つことしないでいいよ。他の男子に見られるのがちょっと恥ずかしくてさ……」
私は自分の感情ばかり優先して、彼の尊厳を気にしていなかったことを恥じた。
同じクラスで付き合っているというのがバレるのは嫌みたいだった。
「そっか……ごめんね。わたし長友くんの気持ち全然、考えてなかったね」
それから、わたしは彼の腕をぎゅっと抱きかかえた。
「学校じゃないところの方が、お互いにのびのびできるもんね」
次の日からわたしは、放課後に校門の外で彼を待つようになった。
帰る道すがら、街の図書館で勉強するのも、コンビニで買い物をするのも一緒。
彼がサッカー部で帰宅が遅くなる時は、わたしは一度帰宅して、冷えたタオルとスポーツドリンクを用意して校門の外で待っていた。
こうやって、いつも一緒にいることがバレないようにするのは、大切な秘密を共有するようで、ドキドキして楽しかった。
珍しく、長友くんが違う帰り道を使うこともあった。
わたしも一緒に歩くが、突然に彼が立ち止まってわたしに向かい合った。
「川原さん、僕このあと本屋に寄るから。今日はここで」
「なんで? だったらわたしも一緒に行くよ。お買い物終わるまで待ってるから」
「そうじゃなくてさ、ほら……男子向けの漫画で……あんまり表紙や中身を見られるのも恥ずかしいって言うかさ……こういうの読むんだって思われると……」
照れて顔を真っ赤にしている彼の姿は、とても可愛い男の子みたいだ。
「わたしは別に気にしないよ。長友くんが好きな漫画をわたしも好きになるように、一生懸命読むから。ほら、行こうよ」
レジに向かうまでの間、選んだ漫画を必死に胸で隠して、買い物を終えたらすぐにカバンにしまうから、けっきょく彼が好きな漫画はわからずじまいだった。
長友くんが熱が出たって欠席した日は、わたしも心配で気が気でなく、こっそりと机の中からスマホでメッセージを送った。
彼からの返信が無いから心配でお見舞いに行った。
「長友くん、だいじょうぶ?」
「えっ? 川原さん、ホントに来たの? 風邪がうつるから悪いよ」
「そんな遠慮しないでよ。わたしに手伝えることある?」
わたしはベッドに寝ている彼の額にてのひらを添えた。
その時、ふと本棚の並ぶ漫画が目に入った。
「長友くん、こないだ選んでた漫画ってこういうやつだったんだ……やっぱり男の子だから、そういうの気になるよね……」
わたしも恥ずかしかったが、彼は風邪なのか照れなのか、わからないくらいに顔を真っ赤にしてベッドから起き上がった。
「ごめん、川原さん。だいじょうぶだから。僕の風邪がうつるから。もういいよ」
わたしの背中を押して彼は部屋の中に戻った。
無理をさせても悪いからと、今日は帰ることにしたが、もし次にお部屋に誘われた時にあの漫画みたいなシチュエーションになったら、どうしようと思うと、わたしの胸も昂った。
ある日、病気が治った長友くんを誘って一緒にお買い物をした。
彼は何度か大切なことを言おうとして、でも言えない躊躇した苦い顔をしていた。
きっと彼からの告白があるかもしれないと、わたしも緊張しながら待っていたが、その日はそのまま別れることにした。
残念だけど、彼の気持ちを考えれば、いつ言われてもだいじょうぶ。
だってわたしはリトマス紙。いつでも彼の色に染まれるんだから――。
「無理言って誘ってごめんね。今日はありがとうね、長友くん」
「あぁ、別にだいじょうぶだよ。川原さん……」
わたしは長友くんに、昼間買ったお揃いのストラップを渡した。
「これを通学カバンに付けようね。わたしと長友くんの秘密の合言葉」
翌週の月曜。
教室でまた長友くんと一緒になった。
でも彼のカバンにはストラップが付いていなかった。
もしかして家に忘れちゃったのかな?
わたしはまた、授業中の机の下でスマホからメッセージを送った。
でもお昼休みまで待っても、彼からの返信は無かった。
放課後、彼はサッカー部の部活に向かった。
今日は一緒に帰れなかった。
わたしは心配で彼の家の前で待っていた。
そこに部活を終えた長友くんがやってきた。
「おかえり、長友くん。ストラップどうしちゃったの?」
「あぁ、その……朝練があるから急いでて。忘れちゃった。ゆうべも部活の準備があったからさ」
「そうなんだ。明日はゼッタイ忘れないでよ?」
でも、彼は疲れていたのか口数が減って、くたびれた笑顔のまま手を振って、家の中に入っていった。
部活の練習量が多いのだろうか、わたしは心配になった。
翌日。
長友くんのカバンには、やっぱりストラップがついていない。
彼に確認しようとしても、他の男子と一緒に雑談をしてたり、お弁当を食べているので、わたしは近寄れなかった。
放課後もわたしが掃除当番で残っていた間に、彼はサッカー部の部活にすぐに向かってしまった。
日没まぎわ。すっかりと空が暗くなったころ。
部活を終えてロッカールームから出て来た彼の手を強引に引っ張って、わたしは校庭裏に向かう。
青紫の淡い色の花をつけた紫陽花の株たちのすぐそばにやってきた。
「ねぇ、長友くん。わたしって長友くんの大切な人でいいんだよね? ストラップはどうしたの? わたしの好きなキャラが恥ずかしいなら他の物の方がいいかな? それとも子供じみてた? 今度のお休みは、次のおでかけで着られるような、お揃いのペアルックとかお買い物にいく?」
わたしが言葉を切ったタイミングで、彼は神妙に喋りはじめた。
「あのさ、川原さん。そのことで大事な話があるんだけど……」
あぁ、よかった。
やっぱりわたしの勘違いだったんだ。
彼は、わたしにちゃんと二人きりで言える機会を待っててくれていたんだ。
そうよね、女の子から告白させるなんて、恥ずかしいもの。
わたしが彼のことを好きすぎて、アプローチし過ぎたかなって後悔しているけど、ちゃんとわたしの気持ちに気づいてもらえたんだ。
「ごめんね。これから言う僕の気持ちをよく聞いて欲しいんだ……」
――数週間後。
そんな日々を思い出しながら、わたしは廊下を歩いていた。
あの日以来、長友くんは学校に来なくなった。
みんなは彼が学校に来てない、家にも帰ってないって騒いでいる。
でもわたしには別に彼がそばに居ないなんてことに意味は無い。
彼との思い出は大切に胸の中にしまってあるのだから。
理科室から保健室へと続く廊下の窓からは、校庭の裏にある紫陽花が一株だけ赤い花をつけていた。
人間の血液や体液はわずかにアルカリ性。
そんな事を言っていた先生の言葉が、降り続く梅雨の空模様のように、わたしの頭の中にぽつりと落ちて来た。
思わず足を止めてそれを見ていたわたしは、クラスの男子から声を掛けられた。
それは理科室で隣の班に居た男の子だった。
「あのさ、川原さん……長友と仲良かったじゃん。あいつが行方不明になって心配してると思うんだ。でも俺に何ができるかわかんないけど……もし困ったことがあったら、俺に言ってくれよ。なんでも助けになってやりたいからさ」
あぁ、恋の女神さま、ありがとう。
わたしのリトマス紙はまた、新しい色に染まりそうです。
理科の初恋 邑楽 じゅん @heinrich1077
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