第9話 楽士リナ・カートン
翌朝、まだ明けきらぬ空の元、キリルたちは魚市場へとおもむいた。ルネの話通り、木箱には色鮮やかな魚がならび、興味を惹かれるものであった。
「これは?」
頭と尾を震わせる、腹に一筋の朱が入った魚を指差し、キリルは卸しに尋ねた。
「お、お兄さんお目が高い!」歌うように卸しは言った。「今季初のサマーサだよ! まだ生きてるし、買い時だよ」
「サマーサ?」
キリルが首をかしげると、卸しはまじまじと彼を見、
「サマーサを知らないなんて、お兄さん別の大陸の人かい? 俺が当ててやるよ」と、腕を組んだ。「……わかった、東の大陸だろ? な?」
「大当たり。じゃあ、サマーサを十匹」
「はいよ!」
気前の良い卸しは笑顔を浮かべ、サマーサを手に取った。
その後いくつかの魚介類を買い、ラナの胸元に下がるカバンへと詰めこむと、キリルはマリヤ・ゴルドーの町を後にした。
空を飛びながら、山間の村や城下町を探す。やがて城壁に囲われた城下町を見つけると、キリルは開けた近くの草むらに降り立った。目前にある門は開かれている。その向こうは祭でもあるのか、人混みが見えた。
町へと入ると、花で飾られた荷車に華やかな刺繍を施されたワンピース姿の娘たちが乗り、なにやらばらまいている。それが食物の種だとキリルが知ったのは、偶然手のひらに種が舞い降りたからであった。
思えば、今は収穫月である。
人と人との合間をくぐり抜け、中央の広場までたどり着くと、空いている箇所を見つけ、他の商人たちに紛れ木箱を置いた。そこに氷を敷き詰め、サマーサや他の魚介類を入れる。普段余り食さない物珍しい商品に、たちまち人々は群がった。
「これは何だい?」
と、ある婦人はパニャーニャと言うらしい貝を指差した。
「今朝収れたての一押しだよ! 刺身で食べると美味しいらしいよ」
卸しに教わった知識を生かしながら、キリルは答えた。この大陸の事はほとんど知らない。言語に不安はあったが、どこか故郷を思わせるような訛りであり、懐かしさが心にしみた。
「まぁ、お刺身ね」婦人はしばらく考えるように軽く首をかしげると、「貝なんてあんまり食べないからねぇ。どうやって中身を取り出すのか忘れちゃったねぇ」
「簡単、簡単。刺身なら閉まっている隙間にナイフを入れればすぐに開くよ。中に大きい貝柱があるから、それを食べれば良い」
身振り手振りでキリルは言った。
「まぁ!簡単ね」婦人はにこりと笑い、「じゃあ、五つ頂戴な」
「毎度あり!」
キリルが貝を網に入れて婦人に手渡すと、
「ありがとうね」
彼女は再び微笑んだ。このような客からの笑みが、商売を始めた頃からの糧であった。
いつもと同じく品物はすぐに売り切れ、ラナの胸掛けカバンに箱を詰めこむ。二刻も経っていないだろう、太陽はいまだ天に昇ってはいなかった。
「いつも通り大繁盛ね」ラナがあくびをこらえつつ言った。「これからどうするの?」
「これからって?」
キリルは目を細める。
「せっかくのお祭りの最中なんだから、楽しめばどう?」
「それもそうだな……」
と、彼はうなづいた。
先ほどとは違う花をあしらった荷車が近づいて来る。その上で花の種子をまく娘にキリルが手を振ると、彼女は頬笑み、種子ではなく花びらをキリルへと散らした。
「ありがと!」
キリルが声を張り上げると、娘は顔を赤らめる。
「……女ったらし」
と、ラナが背後で小さく呟いた。
屋台で出されている、串に刺さった揚げ鳥を食べながら、祭一色に染まった町をラナを連れて歩く。
なにやら路上に人々が集まっている。どうかしたのかと人の間より覗きこむと、そこにはフードを深く被り、リヤーマを弾く楽士の姿があった。フードの奥は計り知れないが、片目の額より鼻先にかけ、仮面をかけているようである。やわらかな歌声とは、どこか不釣り合いであった。
「他になにかリクエストがある方はいらっしゃいますか?」声からして、女のようである。そうして彼女は顔を上げ、金を投げ込みに前へ出たキリルを見遣ると、「あなた、東の大陸にあるガルド地方の出身?」
と、尋ねた。
「よくおわかりで」
キリルは言った。
「懐かしいわ、私もそこから来たのよ。懐かしさの特別に、あなたのリクエストを聞いてあげる」
「ありがと──じゃあ、”森の木陰”は弾ける?」
「大好きな曲よ」
楽士は笑った。そうしてリヤーマをかまえると、静かにその小さな口を開いた。
森に迷い込んだのは誰?
ほら、ウグイスが鳴いている
踏まれたハコベが佇んでいる
木陰の下で泣くのは誰?
ほら、コマドリが歌っている
熟れた木いちごが垂れている
迷いこんだら出られない
深い深い森の木陰
振り向いた貴方はだあれ?
町角に拍手がわき上がる。楽士は立ち上がり、
「ありがとうございました」と、一礼した。「また来ますね」
「また来るって?」
キリルが首をかしげる。
「大昔に罪を犯したの。だから、一つの場所に長く居られない」
「俺も罪人だ」リヤーマを片付ける彼女の傍らで、キリルは言った。「故郷で領主との結婚が決まっていた幼なじみを妊娠させてね、最終的に彼女を狂わせちまった」
「そうなのね」去って行く客たちを遠目で見ながら、彼女は言った。「私はまだ魔法が生きていた時代、永遠の命と引き換えに、ある毒素を埋め込まれたの。だから、長居し過ぎると、町を滅ぼしかねないのよ」
彼女はフードを取り、キリルを見た。仮面で隠してはあるが、酷いやけどのような、痛々しいあざが刻まれている事がわかった。
「酷い傷だ」
伸ばしたキリルの指がそこに触れそうになると、彼女はそれをはねのけ、
「ここが毒素の元凶なの、触ると貴方が死んでしまう」と、口早に言った。そうして立ち上がり服に付いた汚れを叩くと、「短い時間だったけど楽しかったわ。ありがとう」
「待ってくれ、」
足を踏み出そうとした楽士を、キリルは呼び止めた。
「なに?」
「名前を聞かせて欲しい」
その言葉に彼女は振り向き、
「リナ・カートンよ。貴方も旅人なら、またどこかで逢えるかもしれないわね」
フードを再び目深にかぶった。
「あぁ……」
立ち去る彼女を見送ると、キリルは先ほどから嫉妬の視線を送るラナへと目を向けた。
「ずいぶん仲がよろしいようで」
「そう怒るなよラナ」
気がつけば夕暮れが近づいていた。町中を行く荷車は、教会へと向かうようであった。茜色に染まる町から背を向けると、門を出、キリルはラナにまたがり飛び立った。
マリヤ・ゴルドーの町に着くと、夜市へと足を向ける。色とりどりのランプから漏れる明かりの中、ドラゴン連れでも入る事のできる屋台に座り込むと、果実酒とピニャールを頼んだ。
「酒で釣る気ね……」
上目遣いでラナが言った。
「そんな事ないって」
運ばれてきた果実酒を口にしつつ、キリルはひらひらと手を振った。甘い香りが口の中に広がる。南国の酒も、中々美味しいものであった。
「たまにはピニャール以外のものも飲ませてよ」
ラナが果実酒へと首を伸ばす。
「わかったよ」
キリルがグラスをかたむけると、長い舌が一口分の酒をすくい取り、口へと運んだ。
「ん、美味しいわね」
「毒なんだから、あんまり飲むなよ」
「はぁい」
そう言ってもう一口と伸ばされた舌からグラスを取り上げ、キリルは言った。同じ酒とくくられていても、ピニャールと人が飲む酒は材料からして違うのである。人のたしなむ酒は、ドラゴンには体内で消化できない成分が含まれており、それが毒になると言われているのである。
「ダメだ、」
「なんでよ」
押し問答が続いていたその時、
「──よう、キリルじゃねぇか」
聞き覚えのある声が背後より聞こえてきた。キリルがおどろいて振り返ると、声の主は彼の腕を掴み、再会の包容を交わした。
「ル、ネ?」
「久しぶりだなぁ。まさかこんな所で逢えるなんて」
ルネ・ローランドは変わらぬ笑顔を見せる。キリルには四日ほど前の記憶であるが、実際には三ヶ月が経っているのである。彼がこの場所にいても、さほど間違いではない。ルネにガルガニア図書館の話を持ちかけてみようか──そんな考えがふと頭に浮かんだ。
「ルネ、実は俺、三ヶ月くらい記憶がないんだ」
「えぇ?!」先に声を上げたのはラナの方であった。「何? キリル、それ本当なの?」
「あ、あぁ、ラナ。おかしいと思わなかったのか? 水有月に収穫祭なんて」
「全く思わなかったわ……」
「今は収穫月なんだ。言わなかった俺も悪かった」
「キリル、まさかお前もあの図書館に行ったのか?」
と、ルネが合間から言った。
「ルネも行った事があるのか?」
キリルはルネの方を向いた。
「話したじゃねぇか、いにしえの魔道書が眠る図書館があるって。そこの事だぜ?」
「じゃあ、やっぱりあんたも記憶が飛んだ?」
「俺は五日間滞在しただけで半年間の記憶が飛んだな。それにしても、良く抜け出せたな。あの霧の中から」
「みんなに言われる」
キリルは苦笑した。ラナはいまだに納得のいかない面持ちで二人の会話を聞いている。
すると、ルネの傍らからエレーヌが顔を出し、言葉を紡いだ。
「まぁ、お互い脱出できただけでもよしとしませんか? 実際もう二度と行く事のできない場所なのですから」
初めて聞いたその声は、想像していた通りの優しげな美しい声であった。
「それもそうね……」
押され気味にラナは小声で呟いた。
「よし! 再会を祝して酒を飲もう!」ルネは変わらない様子で果実酒といくつかのつまみを注文する。そうしてキリルの飲んでいるグラスを見遣ると、「どうだ? 南の酒は美味しいだろう?」
口角を吊り上げた。
「とっても」キリルは答える。そして注文してあったパニャーニャの浜焼きを口に運んだ。「ターテ貝も味は似てるけど見た目、名前すら違うんだな」
「育った環境が違うからな」テーブルへと置かれた果実酒をグラスに注ぎ、ルネはそれをかかげた。「──とりあえず、再会に乾杯!」
「乾杯!」
彼に倣い、キリルは言った。グラス同士の触れる、心地の良い音がする。
ある程度酒の回ってきた頃、ふとした疑問に、キリルは口を開いた。
「なぁ、ルネ。あんた、なんでまた南の大陸に来たんだ?」
するとルネはグラスを置き、
「仕事だよ」
と、だけ言った。
「仕事?」
酔った頭での好奇心には逆らえない。どのような答えが返ってくるかもわからないが、それがまた楽しいのである。
「色々事情があってな。ちょっと人には話せない仕事をしてるんだ」
「それってどんな?」
「キリル、お前酔ってるな」酒の酔いからくる、甘ったるい声色に、目ざとくルネはキリルの額を指で弾いた。「まだまだ子供は知らない方が良いんだ」
「もう俺は大人だ」
「俺から見りゃ、まだ青二才さ」グラスに映る、揺らぐキリルの顔を見、ルネはそれを一気に飲み干した。「ほら、送って行くからもう宿に帰れ。子供は寝る時間だ」
「……なんだよ」
肩を貸され、立ち上がらされる。視界が歪む。足の力が入らず、思わず転びそうになる。
「ほら、大丈夫か? 宿は広場から入った所にある月光亭だろう?」
「そうそう」
横からラナが答えた。
「南の酒は酔いやすいんだ。あんまり飲むと路上で寝る事になる」
一歩一歩歩きつつ、ルネが言った。
「手伝う?」
「大丈夫だ。軽い軽い。ほんとにメシ食ってんのか?」
「とりあえず見てる限り三食は食べてるわよ」
頭の上を、ルネとラナの会話が飛び交っている。意識の淡い頭でそれを聞きながら、キリルは重いまぶたを下ろした。
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