第6話 魔法が消えた理由
日が昇ると、キリルは部屋を出、ラナのいる書庫へと向かった。クラースが危なかったと言うわりには傷は浅かったのか、行動に支障をきたす事はなかった。廊下に並ぶ窓から見えるのは海ばかりで、この城は岬の上に建てられたのだと悟る事ができた。
では、ここは南の大陸なのであろうか。
昨日案内された扉の前に立つと、キリルは軽い深呼吸をして、扉を叩いた。
「はぁい」
向こう側から女性の声がする。
「昨日助けてもらった者だけど──中に入れる?」
「ちょっと待ってくださぁい」足音が近付き、やがて本を抱えた赤毛の娘が顔を覗かせた。眼鏡に、鼻の辺りにそばかすを散らした、朴訥とした印象を受けた。彼女は扉を開き、「どうぞ、お入りください」
と、道を開けた。
「ありがと」
キリルはラナを目指して歩き始めた。もう回りに司書たちはいない。ラナは魔法の為か、昨晩よりも元気になったように見えた。
「あらキリル」と、ラナは顔を上げ、「何? そばかすの彼女に心奪われたの?」
「ずいぶん元気になったじゃないか」
キリルが腕を組んだ。
「おかげさまでね。久しぶりに見たけど、魔法ってやっぱりすごいわね」
「それはなにより」
そう言いながら、キリルは彼が古竜であった事を思い出す。そうであるならば、魔法が消えた理由も、知っているのではなかろうか。そのような経緯など知らなくとも良いとは思うが、どうにも己の持つ好奇心には逆らえないのである。
「どうしちゃったの? 黙っちゃって」
悩むキリルに、ラナは声をかけた。
「なぁ、ラナ」キリルはラナに近付き、「魔法がなぜ消えたのか、知ってる?」
「……知ってどうするの?」
いつもより低い声色でラナが言った。これはやはり触れてはいけない禁忌の問いかけであった。
「いや、興味を惹かれただけだよ。魔法で傷を治してもらったからな」
「そう……確かにね」ラナはなにか考え込むように首をもたげると、「私も深くは知らないわ。ドラゴンは魔法なんて使わないし、まだ子供だったから。でもある時を境に、魔力を持つ、魔法使いには欠かせない植物が一斉に枯れた事は確かね」
「わかった」
と、うなづいたキリルに、
「この図書館で調べてみれば? 古い本から見つかるかもしれないわよ」ラナは言った。「どうせ今の翼じゃ、あなたを乗せて飛べる自信がないわ。良い休暇になるんじゃない?」
「そうか……そうだな」キリルは再びうなづいた。そうして二人の背後に立っていた赤毛の娘に、「ちょっと聞きたいんだけど──えぇと?」
「ケ、ケイトです」
片付けかけた本を抱きしめ、彼女は答えた。
「じぁあケイト。ここの本は全て魔道書なのか?」
「いいえ、古書もあります。さっきお話されていた事に関連するものも……」
「魔法の事?」
「そうです。私は司書の中でもまだしたっぱで……本を整理するのが仕事ですから、見かけた事があるんです」
ケイトは、はにかんで髪をかいた。
「それはどこにある?」
「この棟の、もう一つの書庫にあったと記憶しています」
「ありがと。じゃあラナ。ゆっくり休めよ」
と、キリルが踵を返しかけた時、
「あの、ちょっと待って下さぁい!」
ケイトが彼を引き留めた。
「何?」
「もう一つの書庫はわかりづらい場所にあります。この城も広いですから、迷わないように、ご案内させていただいても良いですか?」
「君の仕事が大丈夫ならそれは嬉しいけど……」
昨夜クラースと共に歩いた時にも感じたが、やはりここは広大な土地であるらしい。いつもの事であるが、背後からの嫉妬を孕んだ気配を無視し、キリルは言った。
「では、こちらです」
と、ケイトは本を机に置くと、扉を開いた。
日の当たる廊下を進み、階段を上がる。同じような造りである。寝室にとあてがわれた部屋も過ぎ、しばらく歩くと、床が石畳に変わった。どうやら古い塔へ入ったようであった。二人分の靴音が高い天井に響く。そこから螺旋階段を幾階か上ると、目的の部屋が存在していた。
ケイトが先導して扉を開ける。部屋の中は、今までの円形のそれではなく、本棚が並ぶように置かれていた。
「今カーテン、開けますね」
さほど広くない部屋を、彼女は小走りで窓へと向かい、カーテンへと手をかけた。途端、薄暗かった部屋に陽光が差した。それと共に舞い上がるのは、古書特有の羊皮紙とインクの匂いである。
「この部屋には魔術書はないと覚えています。じっくりと時間の許す限りお使いください。館長には私から伝えておきますから」
ケイトはそれだけ言うと、頬笑んで扉を閉じた。
沈黙が、辺りを支配する。キリルはそれを打ち消すように部屋の中を歩き、目ぼしい本を手に取った。
「魔法の終わり……ドラゴンとの共存の理由……」
キリルは紅い背表紙の本のページをめくった。
──太古、ドラゴンは人にとって恐ろしい存在であった。しかし人には魔法があった。魔法とは、自然界に一種類のみ存在する、魔法の種を発する植物を元にしていた。人々は魔法にすがり、ドラゴンを退治する者までもあらわれた。しかしそんな中、ある魔法使いが禁断の魔法を使ってしまった。その魔法が唱えられると、一斉に植物は枯れ果てた。
禁断の魔法とは、死者を生き返らせる魔法であった。
人が魔法を失った事で、飢えていた一部のドラゴンたちはこぞって狩りを楽しんだ。それは時に快楽を満たすものにまでおよび、その事に頭を抱えた者がドラゴンの長に持ちかけたのが、数十年前の契約である……。
「……へぇ」
本を閉じ、キリルは天井を見上げた。魔法の植物を枯らしてまで愛した者を生き返らせたいと言う魔法使いの気持ちは、今の己に少し似ているような気がしたのである。
いつの時代も、人とはなんと愚かな生き物なのであろう。
「探し物は見つかりましたか?」
「うわっ」
背後から聞こえた声に、キリルはおどろき思わず肩を震わせた。クラースが、笑みを浮かべ立っていた。
「ケイトから聞きました。魔法の事で、気になる事があるとか」
「あ、あぁ」と、キリルは本を本棚に押し込んだ。「十分、わかったよ」
「食事の準備が調っています。キリル、朝からなにも召し上がっていないでしょう?」
「もうそんな時間なのか?」
彼ははっとして窓を見た。海の向こうに、日は沈みかけていた。それほど本に夢中となっていたらしい。
「お食事はドラゴンと同じ部屋に用意させていただきました。あなたもそちらの方がよろしいでしょう?」
「ラナの容態は」
「大分良くなってきていますよ」クラースは言った。それは朝見た限りで明らかであった。ただ、「しかしまだ飛ぶ事は困難かと思われます」
「そうか……」
ラナの突然の容態の変化などを心のどこかで心配していたキリルは、ひとまず胸を撫で下ろした。
書庫に戻ると、中央にテーブルが置かれ、その上には暖かい料理が並べられていた。向かい合ったラナが、今にも食べ出しそうに料理を見つめている。キリルはクラースに導かれ、椅子に腰かけた。
「ありがとう」
キリルは言った。クラースは微笑むと、
「いいえ、ここに客が訪れるなど珍しい事。どうぞ、お口に合うかはわかりませんが、ご賞味下さい」
「じゃあ、いただきます」
と、キリルは食事に口を付けた。中々美味い。パンに挟まれた干し肉が、噛むごとに旨味を増して行き、懐かしい味へと辿り着く。それに、久方ぶりの暖かいスープである。旅人には最上級のもてなしであった。ラナもピニャールで、既に上機嫌である。
「とぉても美味しいわぁ」
などと口ずさんでいる。
「そうだな」
「お口に合いましたようでなによりです」
迷い人たちの食卓を、クラースは頬に笑みを浮かべながら見つめていた。
食事を済ませると、キリルはラナへと近付いた。ピニャールを飲み過ぎたのか、銀毛の下に垣間見える肌がほのかに紅く染まっている。部屋には、一人と一匹のみである。
「大丈夫か?」
傷口に触れないように、キリルはラナの産毛へと手を伸ばす。相も変わらず触り心地の良いそれは、かさぶたの出来た箇所を忘れさせるようである。時折傷口に触れてしまったとしても、酒で痛みが麻痺しているのか、ラナが痛みに顔を歪める事はなかった。
「えぇ、だぁい丈夫よぉ」
吹きかけられる息が酒臭い。ラナはとろんとした眼差しでキリルを見た。
「息が臭い──飲み過ぎだって」
キリルは顔をしかめる。
「ねぇ、キリルぅ」キリルの言葉をさえぎり、ラナはしゃべり続ける。「今ぉ夜は、側にいてぇ」
寂しいの、と彼は言った。
「しょうがないな……」
と、キリルはその傍らに寝そべる。甘えるように、ラナの鼻先が頬に触れた。そう言えば、離れて眠ったのは出逢ってから昨夜のみであった。いつ治るかもわからない傷の痛みに耐えながら、見知らぬ者たちに囲まれ、夜を過ごしたのであろうか。
思えば、彼と共に旅商人を始めてから、一年が経っていた。
キリルが過去を語らないように、キリルはラナの出逢うまでの時を知らない。前記したように、彼は普通のドラゴンの倍──千年生きるとされる古竜である。キリルとの旅など、その中の一ページにも満たないものであろう。
それも、少し寂しいものかもしれない──そう思考しながら、キリルはまぶたを閉じた。
しかし、死者を甦らせる魔法が存在するのならば、気の狂った者を元に戻す魔法も、存在するのではなかろうか。眠りに落ちる寸前、そんな考えが浮かんだ。……
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