辞令

 眩しい太陽の光が稽古場の中に差し込む。

 イリーナは素振りをしていた。額に汗が光る。長いダークブラウンの髪を一つに束ね、まっすぐに前を見据える。まるで、目の前に何かがいるかのような気迫のある踏み込みだ。

 黒曜石のような瞳の眼光は射るように鋭く、獲物を狙っているかのようだ。

 今は昼の休憩時間に当たるため、他の団員はいない。

 心の迷いは動くことで晴れると、ずっとイリーナは信じてきた。だが今イリーナの心に巣食っている迷いは、どれほど汗を流しても消えることはない。

 昼休みになるとやってくる、はしばみ色の髪の女性。

 彼女はここのところ毎日手作りの弁当を、婚約者に届けに来る。禁止事項ではないし、特に目に余る行動をしているわけではない。周囲への気配りも十分に感じられる。

 ただ、彼女を見るとガドル・ソルクラトの顔が甘やかなものに変化するのだ。それがイリーナには辛い。        

 イリーナの父、ゲオルグ・ランスローは国でも一、二を争う剣士であった。

 ガドルは、イリーナにとって兄弟子であり、幼いころからともに剣の稽古に励んだ仲だ。 

 ゲオルグが急死して、十六歳でイリーナが軍に入ってからは、常に妹のようにイリーナの世話を焼いてくれた。ガドルがイリーナを大切に思ってくれているのは間違いない。

 ただ一つの不幸をあげるなら、イリーナにとって、ガドルが兄であったことは一度もないということだ。

 ガドルとフラウは出会ってすぐに恋に落ちた。それはもう誤解する余地も無いほど、わかりやすく。

 あっという間に相思相愛になり二人は婚約した。長年想いをよせていたイリーナの気持ちには少しも気づかなかったというのに。

 公私にわたり一番近い位置にいたはずなのに、いつの間にかガドルの心は遠い所へ行ってしまった。

 その心がイリーナのところに来ることはない。

『君が軍をやめるのは、ガドルから逃げるためだ』

 セドリックの言葉が頭の中でリフレインする。

 その通りだった。イリーナだって、幼馴染として部下として、ガドルの幸せを祝福したいと思っている。だがそのためには、心の中にある想いをどこかで捨てなければいけない。

 そうわかっている。でも、できない。今の生活を続ける限り、ガドルはすぐそばにいるのだ。そばにいるだけで満足できるなら、それでもいい。どこかでイリーナはそう思ってしまう。

義姉ねえさん」

 稽古場の入り口から声が聞こえた。

「カーライト、ここは職場よ」

 イリーナは苦い声で答える。妹のエリナの夫であるカーライトはイリーナの部下だ。その実直な人となりをイリーナは公私ともに信頼している。とはいえ、ここは職場だ。けじめは大事である。

「すみません、副長。団長がお呼びです」

「団長が? まだお昼休みよね。何か緊急事態なの?」

 イリーナの質問にカーライトは首をかしげた。

「よくはわかりませんが、上の方から何か指令があったようです。とても険しい顔をしておられました」

「わかった。すぐ行くわ」

 イリーナは汗を拭き、稽古場をあとにした。



 イリーナが執務室に入ると、厳しい顔のガドルが目に入った。

 ガドルは鍛え上げたいかつい身体で、精悍な顔立ちをしている。いかにも武人らしい面構えのため、セドリックのように女性に黄色い声をあげられるタイプではない。

 まさに質実剛健を絵に描いたような男である。

 まだ昼休みということもあって、婚約者のフラウも執務室に置かれたソファに座っていた。

 フラウはイリーナと目が合うと柔らかい笑みを浮かべる。

 彼女の横にある包みは、ガドルへの差し入れだろう。フラウは毎日のように軍を訪ねてくるが、節度がないわけではない。愛嬌のある美人なこともあって、団員の評判は上々だ。イリーナとしても、ガドルが彼女に惹かれたのは当然だと思う。

「団長どうかなさいましたか?」

 イリーナは一歩進み出て尋ねた。

「実は、お前に辞令が出た」

 ガドルは眉間に皺寄せながら、命令書をイリーナに渡す。

「龍の試練のために、お前を第一師団に移動させるとある」

「さようでございますか」

 あらかじめ聞いていたので、イリーナに驚きはなかった。

 セドリックの『根回し』のおかげだ。

「俺には拒否権がある。お前はうちの団には必要だし、第一師団は男の騎士しかいない」

 移動を拒否してもいいんだと、ガドルはにおわす。

 そもそもガドルとセドリックは、長年のライバルである。年齢も同じ二十八歳で、毎年建国祭で行われる剣術の試合ではここ数年、常に決勝で戦っている。何か思うところはあるのだろう。

「だいたい、第一師団に女性騎士がいないのは、あいつが女性を入れたがらなかっただけだ。何を今さら、女性騎士が欲しいと言うのか。いいかげんにしろ」

「そうなのですか?」

 セドリックは女性に甘いけれど、けっして女性を低く見ているわけではない。

 女性騎士には、女性騎士でしかできない仕事があるし、また男性の騎士に比べて、格段に劣っているわけではない。セドリックはそれを認めないタイプの人間ではなく、どちらかといえばガドルよりもそういう面では柔軟な考え方をする印象だ。

 男性騎士で団を構成しているのが『意図的』だというのは、イリーナにはかなり意外だった。

「奴は、モテすぎるから面倒なのだろう」

「確かに女性騎士にも人気がありますね」

 セドリックは甘いマスクで家柄もよい。そして実力もある。第一師団に入隊したい女性騎士は数多い。仕事に私情をはさまないようにはしていても、色恋がからめば仕事はやりにくくなる。

 それはイリーナも実感していることだ。

 セドリックはイリーナの気持ちを見抜いていたようだから、第一師団に入っても色恋がらみのトラブルは起こさないという判断もあったのかもしれない。それに、龍の試練に女性騎士が必要なのも、事実であろう。

「だいたい、なぜイリーナなんだ。人の団の副官を指名しなくてもいいじゃないか。女性の騎士は他にもいるのに」

 ぶつぶつとガドルは呟く。

 まるで、イリーナが大事だと言っているかのようで、イリーナの心はドキリとする。

 ガドルがイリーナを大事なのは事実だけれど、それはイリーナがガドルを大事だと思う心とは別の種類のものだ。

 大切にされているからこそ辛い。違うとわかっていても、その言葉に甘えていたくなる。

 やはりここにいてはダメだ。こんな想いを抱えていては、いつか仕事に影響が出る。騎士であるイリーナにとって、仕事のミスは誰かの死につながる可能性だってあるのだ。

 イリーナには『逃げ場』が必要なのかもしれない。

「辞令、お受けしたいと思います」

「イリーナ?」

「龍の試練は国家の大事です。私の力が必要ならば、お役に立ちたいです。副官は誰でもできましょう」

 イリーナの言葉にガドルは心配そうな顔をする。

「しかし、第一師団は女性が」

「だからこそ、アリシアさまは不安だと思います」

 イリーナは笑う。

「そもそも我が第二師団も、女性の騎士は私とエミリアの二人だけではありませんか。どこへ行っても似たようなものです」

「それは、そうだが」

 ガドルは不満そうだ。

「副官には、義弟おとうとのカーライトを推薦しておきます。それでは私は移動の準備をしますので」

 イリーナはそっと頭を下げる。

 不自然にならないように、話を打ち切った。

 セドリックの言ったとおりだ。団を移るだけでガドルは反対する。イリーナが軍をやめるといったら、許しはしないだろう。その原因がにあるとは、全く思いもしないで。

 イリーナは執務室の扉を閉め、廊下の天井を仰ぐ。

 ──ガドルから離れたら、この胸のもやもやは消えるのだろうか?

 少なくとも気は紛れるだろう。

 不意に、セドリックの甘い笑顔がイリーナの脳裏に浮かぶ。

 悔しいが、セドリックの思惑に乗るしかない。イリーナは大きくため息をついた。


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