終 約束をもう一度
※
翌朝、二人……いや、クロを含めた二人と一柱は急ぎ足で小川の側の家に帰宅する。
後から聞いた話によれば、ヴァンが長い眠りから目覚めた場面にはアリアが居合わせたらしい。彼女は突如として活動を始めたヴァンを見て微かに目を見張り、短く言ったという。
「おはようございます」
なんとも彼女らしい言葉である。そのままヴァンは真っ直ぐヴィットベルグ広場に向かってしまったため、イッダとゼトとは一切の言葉を交わしていなかったそうだ。一晩明けての帰宅後、ぞんざいに扱われていたと知ったイッダの不機嫌が最高潮に達していたことは言うまでもない。イッダとヴァンの和解には、数日を要した。
その後も、何気ないけれど穏やかな日常は続く。
ヴァンはと言えば一人、物思いに沈むことが多くなった。聞けば、剣の神の精神と同化して、邪神の如くなりふり構わず力を振るっていた時の記憶が残っているらしい。彼は、その手で殺めた命を思い、自責の念に駆られていたのだ。
「僕は生きていて良いのだろうか」
不意に気弱なことを言い始めるので、エレナは躊躇なく叱責を飛ばす。
「ふざけないで。あなたが戻ることを私たちがどれほど待ち焦がれていたと思うの? 亡くなった人たちは不憫だけど……あなたを利用しようとした悪人でもあるのよ。そんな人のために、ヴァンが思い悩む必要はない」
ヴァンは腑に落ちないようだったが、エレナは構わず言い募る。
「
そこまで言えばやっと、ヴァンは陰湿な思考を塗り替えたらしい。どちらにせよ、例えば彼が自害を考えたとしても、剣の神がそれを阻止するだろうと思えたが。
その剣の神は、相変わらずヴァンの中に居候をしている。黒い神剣が元の姿を取り戻せば、彼は出て行くのかもしれないが、かねてより進めていた修復は、遅々として進まない。その間、進展のないヴァンとエレナの関係に剣の神はぶつくさと文句を垂れていたのだが、冗談ではない。あの神が同居しているうちは、一歩たりとも先に進むことはないと断言できる。
街に所用がある時には、ヴァンとエレナは決まって街の地下水道に寄った。じめじめとしていて決して心地よい場所ではないのだが、どこか王宮の秘密基地を思い出すからだった。
エレナは地下水道の歩道に腰掛けて、麻袋から歪な木の笛を取り出す。最も細く、高音が出る笛だ。
「今日は何を吹いて欲しい?」
エレナが問えば、ヴァンはいつも柔らかく微笑んで、何等かの要望をくれた。
この日は夏。水辺はひんやりとして涼しいが、灼熱の下で動き回った後なので、汗はなかなか引かない。
「そうだな、音階?」
エレナは眉根を寄せる。
「え、どうして?」
「どうしてって……君が初めて吹いてくれたやつだから。ほら、王宮の秘密基地で。あの日もこんな、汗ばむ陽気だったね」
エレナは束の間口をつぐんでから、呆れ交じりに笑った。
「あなたって、そういう感性に長けているのか長けていないのか、よく分からないわね。でも良いわ」
エレナはさらりと簡単な音階を吹き終えて、ヴァンの様子を観察した。彼は相変らずどこか掴みどころがないのだが、何やら嬉しげだったので、もう何でも良いやと思った。つられてこちらの頬も緩んだ。
「じゃあ、もう一つ懐かしいことをしましょう」
ふと思いつき、エレナは右手を差し出す。何も言わずとも、ヴァンは理解したようだった。どちらともなく小指を絡め、軽く上下に振る。
「何を約束しようか?」
「そうね……それじゃあ」
エレナはやや思案してから、ヴァンの耳に唇を寄せる。小さな囁きが、吸い込まれて行く。
「これからはずっと……」
あの日。王宮地下水道側の小さな秘密基地で出会った日から、もう十年以上が経った。毎日磨き上げられていた銀色の神笛は、茶色く、ささくれ立った素朴な手作り笛に持ち替えた。精緻な縫製のドレスも、くすみ一つない純白の貫頭衣も脱ぎ捨てて、この身に纏うのは綻びた古着である。
これからは、この異国の地で生きていく。固く握り合った手を離すことはなく幸福に満ち足りて。ひょっとすると、周囲が困惑するほどの大喧嘩をすることがあるかもしれないけれど、どんな日常でさえ、それら全てが一枚の布のように、複雑に絡み合って未来を織り上げていく。
その未来を形作るのは、今この時を共有する仲間であり、未だ出会わぬ愛おしい人々であり、二人を育てこの場所へと導いた、すでに道分たれし恩人達である。
物語は終わり、再び始まったばかりだ。
4 物語の終焉は……そして 終
簒奪王と星の姫(本編・外伝) 完
簒奪王と星の姫 平本りこ @hiraruko
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