3 地下水道にて

 しばらく石畳の街並みを駆け抜けて、気づけば地下水道の鉄格子てつごうしが眼前にある。薄汚れて微かな異臭すら漂う区画である。風のような救世主は束の間こちらを気遣う素振りを見せたが、何も告げず格子の中に吸い込まれて行った。腕を引かれ、エレナも後を追う格好になる。


 地下水が滴る岩壁に背中を預け、二人は荒い息を吐いた。エレナは呼吸が落ち着くのも待たず、助っ人の様子を観察する。


 暗色の外套に頭部まですっぽりと覆われているのだが、背格好から推察するに男のようだ。彼はエレナの視線に気づき、不届き者から奪い返した本日の稼ぎが入った袋と、いつから持っていたのか、エレナが所有しているうち最も太い笛を差し出した。おそらく、変質者三人を殴ったのはこの笛だろう。いつの間に麻袋から抜き取られていたのだろうか。


 男は先ほどの勇姿など嘘のように、やや気が引けたような様子で、エレナの肩に掛かった袋に笛を差し込んだ。少し頼りなさすら感じられる所作に、エレナは既視感を覚えた。その感覚の正体は、直後に判明する。


「ごめん。大切な商売道具を武器に……」


 彼の声が耳朶を震わせた瞬間、呼吸が止まった。


 まさか、そんなはずはないのに。これは都合の良い夢で、もしかしたらとうに、先ほどの男らに命を奪われてしまった結果見た幻覚なのではないか。


 しかし男が外套のフードを上げた時、エレナの目に映ったのは紛れもなく、何年も待ち焦がれていた者の姿であった。


「……ヴァン……?」


 茫然と呟いたエレナに、彼は振る舞いに困ったように眉を下げ、小さく頷いた。


「うん」


 エレナは信じきれずに思わず腕を伸ばし、彼の頬に触れる。温かい。血の通った頬だった。


「本当に? どうしてここに?」

「さっき君が言ってたんじゃないか。ヴィットベルグ広場に行くって」

「……」

「アリアに聞いたんだ、広場の場所を。本当は君が仕事を終えるまで、噴水の裏で静かに待っていようと思ったんだけど、変な奴らが」

「ヴァン!」


 どんな言葉も耳には入らなかった。エレナはヴァンの胸に飛び込んで、その背中に腕を回して強くしがみ付く。驚きに息を吞んだ気配がしたものの、それに対する配慮を見せる余裕もなかった。


「本当にヴァンなの? どこもおかしなところはない? 動きづらいとか、頭が回らないとか」


 驚きが一巡したらしく、ヴァンは小さく笑ってエレナの背中を撫でる。その感触にこの上ない幸福を感じた。意図せず涙が溢れ出す。


「どこも、何ともないよ。一晩ゆっくり寝ただけみたいだ」

「そんなこと」


 あるはずがない、と言いかけたのだが、エレナ自身、剣の神の力で一命を取り留めた後、数か月の眠りについたことがあった。その時も、ただぐっすり眠っただけかのようで、むしろ思考が明瞭だったことを思い出し、口を閉ざす。代わりに少し身体を離し、彼の瞳を覗き込んだ。


 深い藍色は、最後に会った時のまま。やはりこちらが、彼本来の色なのだろう。長い睫毛も柔和な顔立ちも、何一つ間違いなくヴァンのものだった。


「本当にあなたなのね」

「そうだよ」

「もう二年も眠っていたのよ。覚えている?」

「二年、というのは実感がないけれど、君の言葉は聞こえていた。どこか遠い場所に沈んでいく僕を引き留めてくれるのはいつも、君の声だった。あ、そうだ」


 ヴァンは徐に、二人の足元に投げ出された麻袋を指差した。


「そっちの、高い音が出る笛が好きだ」


 何の脈絡もない言葉に聞こえ、エレナは首を傾ける。それから思い出した。街に向かう前、どの笛が好きか教えて欲しいと告げたのだ。


「あ、そうなの。そうしたら次からは……。待って。『全部聞こえていた』?」


 エレナは硬直する。全部と言うのは本当に全部なのだろうか。日々の愚痴や失敗談、弱音も、胸に秘めていたヴァンへの思いも全て。


 薄暗がりの中、ヴァンの口元が揶揄からかうような笑みに弧を描いたのを見た。彼らしくない表情だとは思ったが、そんな違和感を気に留めるほどの余裕はなかった。


「全部。本当に全部だ。イッダと喧嘩したり、手荒れに悩んだり、料理を失敗したり。それに君は、僕さえいれば他にはなにも」

「わあああ! それは幻聴!」


 大きな声で主張してみたのだが、その動揺が答えのようなものだった。ヴァンはくつくつと笑ってから、エレナの片頬を手のひらで柔らかく包んだ。


 誘導されて顔を上げれば、藍色の瞳と視線が重なる。熱を帯びたような眼差しに心臓が跳ね上る。しばし見つめ合い、やがてどちらからともなく自然に瞳が近づいて、鼻先が触れ合うところで瞼を下ろし……。そこでぴたりとヴァンの身体が硬直した。突然のことにエレナは目を開けて、瞬きをする。


「ヴァン?」

「おい、勝手なことしないでくれよ!」


 突然の叱責に、エレナは石になる。


「勝手?」


「いや、君に言ったんじゃ……。だから引っ込んでいてくれ……」

「いや、引かない! お前に任せていたらずっと進展しないじゃねえかよ。ここは俺がびしっと」

「そういうのはいらないから! クロの下心だろそんなもの」

「何だと? 俺はお前を心配して」


「ねえ、どうしたの?」


 一人芝居のような会話の応酬がぴたりと止む。己の口から出た声だったが、そこに含まれた怒気には自分でも驚いた。ヴァンが「クロ」と口にして、全て理解したのだ。クロとは確か、ヴァンの身体に同居する剣の神の愛称。となれば今や二人は全てを共有していて、先ほどのことも下心を抱いた剣の神が。


「あなた、剣の神? それともヴァン?」


「もちろんヴァンだ」

「いや、騙されちゃだめだ」

「黙ってろ! 甲斐性なし」


 エレナは頭を抱える。二年振りにヴァンが目覚めた。そのことは何にも優る幸福をもたらした。けれどこれはこれで、悩みの種が増えた状況でもある。


「……剣の神は喋れないってアリアが言っていたけど」


「昔はそうだったんだ。だけど目覚めたらなぜか」

「俺とこいつの精神は一回融合したんだよ。多分その後遺症だろ」


 頭痛がしてきた。エレナは思わず呻いてから、ヴァンだか剣の神だか分らぬ男から一歩距離を置いた。それから目を見開き、言い放つ。


「ヴァンの身体から出て行ってよ!」


「そんな無茶言うなよ。あ、じゃあむしろ姫様の身体に」

「それはだめだ」

「じゃあどうすりゃいいんだよ。元々の依り代は粉々だし、他に俺を受け入れられる器なんてない」


「剣の粉の中にでも入ったらいいじゃない」


「なんだとこのじゃじゃ馬娘」


 ひとしきり言い合って、一同は息を吐く。傍から見れば狂気じみた様子だっただろう。一人二役の演劇練習にでも見えたかもしれない。状況が落ち着いた頃にはもう、とうに陽が沈んでいた。


「……エレナ、なんだかんだで遅くなっちゃったね。今夜はもう街に滞在して行こうか。帰るまでに野犬にでも襲われたら大変だ」


 温厚な口調だったのでヴァンだろうとは思ったが、エレナは用心深く彼の表情を観察する。「どうしたの」と言うような目で問われ、エレナは小さく溜息を吐いた。


「そうね、あなたの言う通りだわ。でも部屋は別にしましょう」


 何やら悲し気に目を細めたようだったので、紛れもなく彼はヴァンだったのだろう。

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