2 生活の方法

 野犬に襲われては大変なので、鶏たちは夜間は小屋に入れている。朝食後、扉を解放し、簡易柵の中で遊ばせてやるのが日課だった。


「ごめんね、あなたたちの卵、半分以上炭にしちゃったの」


 しゃがみ込んで雌鶏と視線を合わせる。人の言葉が分かるわけではあるまいが、砂をついばみながら、よたよたとした足取りで歩く鶏達は、エレナの足を遠慮なく踏みつけ、乗り越えて行った。


 イッダには悪びれずに言葉を返したが、決して裕福ではない生活の中、鶏卵四つをだめにしてしまったのは、大きな痛手である。鶏は一日に一個しか卵を産まない。それに時々休業日もあるらしく、四人全員が玉子料理にありつけるのは、数日に一回なのだ。


 正直この二年間、己の生活力のなさには辟易していた。イッダのような幼い子供ですら火の番が出来て水汲みも洗濯も慣れたものなのに、エレナはどれ一つとっても満足にできない。それどころか見様見真似で試してみては大失敗をする。今でこそ料理以外はなんとか様になってきたものの、結局エレナがこの家の穀潰しであることは明白である。


「来るべきではなかったのかしら」


 思わず口から滑り出た言葉は、誰にも聞かせたことのない弱音だった。コッコの黒々とした瞳がエレナを覗き込む。続いて、邪魔な飼い主の足の小指と地面の境目辺りをしきりについばんだ。餌になるようなものでもあったのだろうか。エレナが足をずらしてやると、コッコは勢いづいて砂を連打した。


「また街に笛を吹きに行こうかな。そのくらいしか役に立てないし」


 思えば王宮にいた頃も、エレナの唯一の特技と言えば神笛しんてきだった。あの祭具自体はまさか持ち出すことなどできなかったが、木の根を加工して簡易の笛を作ってみたところ、思いの外良い音が出たのである。それを持って街角で奏でれば、心ばかりとはいえ貨幣を得ることができた。何より、家でイッダの侮蔑的な視線に晒されているよりも、よっぽど心が明るくなるのだ。


 よし、決めた。今日は街に行こう。エレナは鶏の番をゼトに頼み、室内に戻り野性味のある笛を数本麻袋に入れて抱える。手製の楽器なので出せる音域が狭いため、時折持ち替えて曲を奏でるのがエレナの芸風だった。


 慌ただしく準備を済ませ、街へ繰り出そうとして、エレナはふと、階段横の小部屋の前で立ち止まった。ヴァンの眠る部屋である。笛を奏でるのは久し振りだったので、試し吹きをしておきたいが聴衆がいないのはなんだか寂しい。ヴァンであれば、下手な演奏であってもきっと笑わないでいてくれるだろう。


 扉を開ければいつもの通り、窓から差し込む木漏れ日を浴びて、穏やかな表情で横たわるヴァンがいる。微かな鼓動はあるものの、呼吸の間隔が著しく長い。


 半分死んでいるかのような姿は何度見ても慣れず、不安に押しつぶされそうになる。それでも毎日彼に会いに来てしまうのは、希望が失われていないことを確かめるためでもあった。その身体に腐敗の気配などなく、小さな鼓動が胸を揺らすことに、エレナはいつも安堵する。


 この日も彼の手首に触れて、微かな脈を測ってから、枕元に椅子を引き寄せて腰掛けた。麻袋の中から中くらいの太さの笛を取り出し、唇を添える。息を大きく吸い込み、腹に力を入れて細く吐き出す。笛は、ぼんやりとした輪郭の中音域を奏でる。


 まさか神事に使う曲を演奏するわけにはいかないので、室内に満ちるのは手習い歌。そういえばヴァンと出会ったばかりの頃も、こうした簡単な旋律ばかりを練習していたはずだ。


 ヴァンが眠りについてもう二年以上が経っている。もしかしたら、ずっとこのまま目を覚まさないのかもしれない。もう二度と、彼の声を聞くことができないのだろうか。そう思うと、一条の光も届かぬ深淵に突き落とされたかのような絶望を覚える。 


 エレナは一曲終えてから、小さく鼻を啜った。どうにも涙脆くなってしまい、近頃はヴァンの姿を眺めることすら辛い日もある。だが、感傷に浸っていても何も変わらないのだ。エレナは気合を入れるために大きく深呼吸をして、袋に笛を戻した。それから意図して口角を上げ、ヴァンの前髪を軽く掻き分ける。


「どうだった? たまにはこんな娯楽も良いでしょう。そうだ。今度は同じ曲を別の笛で吹いてあげる。どちらの方が良かったか、教えてくれる? あなたが好きだと言ってくれた笛を持って、街に行くわ……」


 答えはない。当然のことだ。もう落胆すらしなかった。


「じゃあ、また後でね」


 エレナが腰を上げた時、不意に扉を叩く音がした。


「エレナ、入っても?」


 低めの女声。アリアだ。


「ええ、もちろん」


 答えれば、扉が細く開いて、アリアが入室する。いつもながら彫刻のような無表情だが、エレナが外套を羽織り、笛を詰め込んだ麻袋を肩から掛けていることを目にし、微かに首を傾けたようだった。


「どこかへ行くのですか」

「ええ、街まで。おひねりでも貰えるかなと思って。ヴィットベルグ広場、だったかしら。あの噴水があるところ。結構人通りが多くて稼げるのよ」

「稼げる、ですか」


 アリアは何かを言わんとして口を開きかけたが、珍しく口ごもり、改めて言い直した。


「あの辺りは治安が良いとは言い難い場所です。お気をつけて」

「ありがとう。アリアは……剣の手入れ?」

「はい。そろそろ埃が積もっている頃合いだと思ったので」


 剣とは言うが、正確にはその破片であり、元々は剣の神の依り代となっていた神具である。剣守のアリアにとってこれを修復することは責務であるし、エレナとしても、剣が完成した暁にはヴァンに何等かの変化が訪れるのではないかと淡い期待を寄せている。その欠片たちは、ヴァンの側から離さないようにしていた。なぜなら、ヴァンの流血を止め傷を塞いだのがこの黒い破片であったからだ。聖なる剣は未だ、元の姿を取り戻してはいないが、神力は時の流れと共に戻りつつあるはず。


「じゃあよろしくね」


 エレナはもう一度鼻を啜ってから、部屋を後にし、街へと向かった。



 首尾は上々だ。投げ銭入れにしていた帽子には、想定以上の貨幣が投げ入れられていた。日中から始めた演奏であったが、すでに陽が傾きだしていて、斜めに差し込む光が、噴水に佇む聖女像を朱色に染めていた。


 どこからか夕食のスープを煮込む香りが漂い始める。家族が待つ家に帰るため、別れを告げ合う子供らの声が耳に心地よい。


 この通りは夜になれば、繁華街らしい華美な明かりで満たされる。サシャやオウレアスよりもずっと照明技術が進んでいるらしく、夜とは思えないほどの眩しい光が、酒場や劇場から漏れ出るのである。


 夜が更けても人通りは多いので、稼ごうと思えばもっと収入は見込めるのだろうが、あいにくエレナたちの家は郊外の川原に位置する。そろそろ帰路につかねば。


 手早く片づけをして、投げ銭を一纏めにして外套の内側に仕舞おうとしたのだが。不意に、その腕を掴む無粋者があった。


 視線を上げれば、何やらにやついた表情の三人組の男である。エレナは不快感を露わに目を細める。


「何か?」


 強い口調が虚勢にでも聞こえたのだろうか、男らは顔を見合わせ、低い声でせせら嗤う。その呼気に含まれた酒の臭いに、エレナはいっそう顔を顰める。


「用がないのなら失礼します」

「まあ待て待て」


 振り払おうとしても強く掴まれた腕は微動だにしないし、別の男が進路を塞いでしまうので、どうにも身動きが取れない。それでもエレナは怯えなどしなかった。


「急いでいるの」

「どうして?」

「家に帰らないと」

「つれないなあ。ほら、大盛況だったんだろ。もう一稼ぎしていこうぜ」


 エレナの手から貨幣の入った包みを奪い、上下に振って重みを確かめてから、鼻の下を伸ばした表情で顔面を近づけて来る。酒臭い。彼らはエレナを極貧の家の娘か何かだと思い、侮っているに違いない。無理もないだろう。擦り切れた外套を纏い、商売道具は歪な木の根である。


 ならず者に絡まれない程度に真っ当な稼ぎの方法を検討せねば。山脈南方の風土記でも出版するか、我が事ながら波瀾万丈の半生を誰かに戯曲にでもしてもらおうか。もしくは。


「今夜は俺達と楽しもう。金は弾むからさ」


 何をどう考えても、その選択肢はないと思えた。下卑た笑い声を耳にして、いよいよ不快感に堪え切れず、敵の急所を蹴り上げようかと本気で思案した時。一陣の風が吹いた。


「目を瞑って」


 時が止まったのかと思った。不意に割り込んだ言葉と同時に、鮮やかな軌跡が男らの頭を順々に殴り付け、一瞬で三人が昏倒する。目を閉じる時間などなかった。何が起きたのか理解が及ばぬうちに、知らぬ誰かに手を取られ、エレナはその場を離脱していた。

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