4話 物語の終焉は……そして

1 何もない世界と食卓の風景

「ねえヴァン、聞いてくれる?」


 光と闇の境もなく、無でも有でもない。混沌ですらない世界に沈みゆくこの身を繋ぎ止めるのは、いつも彼女の声だった。時に楽し気に、時に不貞腐れて、彼女は、ひたすらに思いのたけを吐露するのである。

 

「ヴァン、この寝台、寝心地が良いでしょう? 長い船旅お疲れ様。北に来てね、やっと家が見つかったのよ。ここは……そうね、とっても静かな場所。私達が北に眺めていた大山脈は、ずっと南にあるの。不思議よね。それと小川が側を流れていてね、小魚が尾を振るのが見えるくらい澄んでいる。お隣さんは結構遠くてあんまり会ったことがないけど、とても穏やかな人たちだったわ。仲良くなれるかしら。ちょっと心配」

「聞いてよ! イッダって本当に可愛げがないわね。ゼトとは大違い。私がちょっと失敗するだけで、『生活力がなさ過ぎて、人間の底辺だ』なんて言うのよ。私が作る料理がね、少し……ほんの少しだけ、味がおかしいの。でも、今まで作ったことがなかったんだもの。仕方ないじゃない。ヴァンもそう思うでしょう?」

「ねえ、知ってる? この国にはね、王がいないのよ。議会が一番強いんだって。どうやって方針を纏めるのかしら。考えてみたけど全然わからないの。アリアも知らないって。ううん、多分興味がないだけね」

「手が痛い。冷たい水でお皿を洗ったりお洗濯をするのは本当に大変なのね。指ががさがさになっちゃった。出血していることに気づかなかったから、この前洗濯物に血がついてしまったわ。そうしたらイッダがね、『どいつもこいつも本当に使えない大人だ』って。でもね、その後洗濯を代わってくれようとしたのよ。意外とあの子、優しくて可愛いところがあるみたい」


 それは他愛もない言葉の数々。だが、己の身体の輪郭すら陽炎のように曖昧にぼやけてしまうヴァンにとっては、彼女の声だけが世界に天地をもたらしてくれる道しるべであった。

 エレナの言葉が耳朶を震わせる度、およそ塵になってしまったかのようなヴァンの全てが、一つ一つと元通りに積み上がり、形を取り戻していくかのようだった。


「冬って寒いのね。知らなかった。王宮の中は季節に関係なく暖かかった。本当に甘やかされて、大切にしてもらっていたんだなって気づいたわ。それなのに私は」

「サシャにも雪が降っているかしら。皆はどうしているのかな。星の宮も岩の宮も、私が引っ掻き回してしまったから……」


 彼女が郷愁に駆られていることを知れば、胸に重苦しい物がのしかかる。完全なる中庸な存在であったこの身に、他者に憐憫を抱くほどの精神が宿ったようだった。


「あなたの黒い剣の欠片、もう一度鍛造し直そうとしているの。アリアがね、残りの欠片の場所に心当たりがあるって。剣の神の依り代が戻ったら、もしかしたらヴァンも戻って来れるかな」

「本当に綺麗なままの姿よね。もう一年が過ぎようとするのに、眠ったままあの日と何も変わらない。多分私もこうだったのね。ほら、あなたに焼かれた後、何か月も眠り続けたそうなの。……あの時のことは一生恨むから。本当に怖かったのよ。でも今は……ヴァンがずっとこのままだったらと思うと、もっと怖い」


 ――ごめん。

 その三文字は唇から滑り出ることはなかったが、明瞭な形を得てこの身に響き渡る。言葉というものを、取り戻したようだった。


「いつになったら起きてくれるの。もう子供の頃みたいに我が儘を言って困らせたりしないわ。今までのことも全部謝るし、お詫びに何でもお願いを聞いてあげる。だから早く帰って来てね」


 ――君の我が儘なんてどれも可愛いものだった。いつでも僕を振り回してくれていい。

 相変らず唇は微動だにしない。


「この前鏡を見てびっくりしたの。一気におばさんになったみたい。サシャにいた時には、皆に毎日手入れをしてもらっていたし、危険なものには触れることなんてなかった。大事に大事に真綿に包まれていたのね。あなたに早く目覚めてほしいけど、この姿を見られるのは恥ずかしいわ。笑って許してくれる?」

「今年も冬が近づいているわ。私の手もね、毎年皮がむけてちょっとずつ強くなったみたい。でも前みたいな滑らかさはもうないの。こんな手であなたに触れたら、痛いかな。本当は、少しでも綺麗でいたかった。だってヴァンは何も変わらないのだもの。ずるいわ」


 ――見えないけれど、君は綺麗なはずだ。綺麗じゃなくても別に気にはしないけど。

 彼女の手がヴァンの手を包む。何かが弾けるように、身体が形成されて、エレナの温もりを感じた。その手は彼女の言葉通り、ざらついて荒れていたのだが、以前と何ら違わない、華奢で愛おしいものだった。

 ――ほら、君はやっぱり何も変わらない。


「ねえ、あなたと話したい。もう二年も経ったのよ。いつまでも待っているけど、このままじゃおばあちゃんになってしまうわ。それでもいいの?」

「気づいたの。もっとずっと前から、ヴァンが私の全てだった。あなたがいれば、他には何もいらない。だからお願い。お願い……」


 鼻を啜る音が、部屋に響くのがわかった。彼女の涙を拭いたい。指先は動かない。だがはっきりと、そこに己の手があることが分かる。どうやって動かしていたのか、その記憶の断片を、少しずつ取り戻していく……。



「はあ、もう。スープ以外は作るなって言っただろ」


 イッダが心底呆れたように言う。エレナは顔を顰めたが、彼の発言には何ら理不尽な点はないので、返す言葉もない。しかしこうも真っ向から貶されれば、素直に謝罪を口にするのも癪である。エレナはただ黙って、薄味のスープを嚥下した。


 やや脚が歪んで斜め気味のテーブルの上に、異様に黒い目玉焼きが四つ。本日の食事当番はエレナ。食卓を囲むのは、エレナとアリア、イッダとゼトである。


 あの日アリアの里で、かつてヴァンであったを刺した後。ヴァンの身体は再び眠りについた。ちょうどエレナが処刑場で劫火の中より生還したのと同じ方法で、剣の神が己の依り代となる肉体を保持したのだろうというのが、アリアの見立てであった。


 だが、剣の神自身はヴァンの精神と融合し、もはや純粋な神ではない。エレナは数か月で目覚めたものの、中途半端な神力によって身体を保っているヴァンがいつ意識を取り戻すのか予測すら立たなかった。


 南方には居場所がないエレナであったが、サシャ王宮を謀略の渦に落としたイッダと弟のゼト、そしてアリアも同じような境遇である。四人は眠りにつくヴァンを連れ、海路で山脈の遥か北、アリアの一族の故郷へと向かった。


 あれから二年が過ぎ、ゼトが少し反抗をするようになり、イッダの声が少年らしく低く変わり始めている。アリアは相変らず感情の薄い頬をしているが、時々小さく笑うようになった。エレナは家事や園芸を覚え、かなりの頻度で失敗をしてイッダに怒られる。ちょうど今のように。


「どうやって食べろってつもりでこれを食卓に上げたの?」

「焦げていないところをほじくって食べてよ。だって、捨ててしまったら食材が可哀そうじゃない」

「うわ、行儀悪い! 元お姫様の言葉とは思えない」


 この少年が聖サシャ王宮で行った謀略については、それぞれの事情を鑑みて、過去のこととして水に流すとしても、両者共に気が強いイッダとエレナの相性は、良好とは言い難かった。


 それでも共同生活を送る理由はきっと、ここにヴァンがいるからだ。アリアは剣守けんもりの職務のため、ヴァンに付き従う必要がある。イッダとゼトはまだ子供で自立生活ができないし、ヴァンに懐いていたようなので、彼のその後が心配なようだった。


「意外と食べられますよ」


 束の間睨み合う二人だったが、アリアが平坦な声音で言ったので視線が逸れる。アリアはフォークで目玉焼き……のようなものをほじり口に運んでいた。


「コッコとケッコが苦しみ産み落とした卵です。感謝の気持ちでいただかないといけません」


 半自給自足の生活である。エレナ達が飼育している二羽の雌鶏の名を挙げられてしまえば、その可愛らしい仕草や柔らかな羽毛の感触が蘇り、なにやら食欲が減退する。だがアリアは、ほんの僅かさえも気にならないようだった。


「お兄ちゃん、コッコとケッコのためにも、ちゃんと食べないとだめだよ」


 まだ幼いゼトもその辺りの感性はまだ育っていないと見え、アリアの言葉にいたく感嘆した様子で目玉焼きを突いていた。


 アリアとゼトは時折ずれた発言をするのだが、そういった場面では唯一、常識人を自負するイッダとエレナの間に仲間意識が芽生える。二人は視線を交わしてから、黙って食事を続けるのであった。


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