終 全ては岩の神の導きのまま


「懐かしいな、初めてのダンスとは思えないほど流麗だった」

「それは陛下がお上手だからですよ」

「随分おだて上手になった。よければ……」


 数年振りに踊ろうか。口を突いて出かけた言葉を危ういところで飲み込んだ。


 今やこの身は岩の王サレアス。親密な様子をいたずらに周囲に晒すのは、彼女にとっても良くないことだと思えた。彼女は独身だったが、例えば婚約者に対し、悪印象を与えてしまっては申し訳ない。……そういえば、リアラはどこの家に嫁ぐのだったか。


「リアラ嬢、失礼だが……その……」


 どのような言葉を選んでも不躾な質問になってしまいそうだ。珍しく口ごもったワルターの意図を察したリアラは、自嘲気味に微笑んだ。


「お気になさらず。私はこのまま実家で過ごすことになりそうです」

「どうして」


 リアラはやや気弱なところこそあるが、気立ての良い女性だった。地位も申し分ない。求婚者がないということは考えにくい。思わず飛び出した問いかけを受け、リアラは斜め下、自身の爪先辺りを見下ろしている。


「心に決めた方がいらっしゃるのです。とても頼りになって驚くほどお優しいのですけれど、どこか抜けているところもあって、それがまた可愛らしくて。あいにく、私などには手が届かない方です。ですがこの心はとうに、お渡ししてしまいました」


 俯くリアラの頬には、いつかのように朱が差していた。当然だが、あの日よりも大人びて、はっとするほど美しい横顔だった。ワルターは何やら形容し難い感情が胸に湧き起こるのを感じた。


「そうか。相手の男は幸せ者だ」


 リアラはおもむろに顔を上げる。真っすぐな視線同士が重なり、束の間時が止まったかのような錯覚を覚えた。それはワルターにとって初めての経験だったかもしれない。その感情の意味を理解するよりも先に、リアラは口元に手を当てて、小さく笑い声を立てた。


「どうして笑うんだい」

「いいえ、何でもありません。……陛下、様々なことがあり、ご心労はいかほどかと拝察いたします。『己を滅し、国を保て』を御身を以って体現されていることは、私どもにとって、とても頼もしく感じられることです。けれど」


 リアラは柔らかく微笑んだ。


「そればかりではお寂しいでしょう。私は、陛下がお命じになるのなら、己を滅し国に尽くします。ですが、国の平穏が保たれた暁には、個人の幸せを追い求めることも悪ではないと思うのです。このようなことを申し上げる立場にはないと存じておりますが、陛下。あなた様も、必要以上にご自分を押しつぶす必要はありません。昨年のことも……」


 廷臣が昨年のこと、と濁すのは、ほとんどの場合、永遠の星の姫セレイリに関する取り決めのことだった。正直、エレナを王宮から逃がしたのは、間違いではなかったと思っている。共に過ごした情が湧いていた分、別れに何の感慨も覚えなかったとは言わないが、別に後生悩み苦しむほどの離別ではないと思った。


 あれは、この地が異国の神に焼かれる可能性を排除するために必要な選択だった。それなのに、この決定をあたかもエレナをおもんぱかった結果であるかのように彼女に告げたのは、ワルターの狡猾さの賜物だった。結果的に利害が一致したので、ことが円満に進んだだけである。


 時折、己の冷酷さに失望を覚えることもある。例えばエレナが岩の宮に留まりたいと言ったなら……その場合、ワルターはどのような決断をしただろうか。国のため、残酷にも彼女を王宮から追い出しただろうか。それとも、共に歩む道を選んだだろうか。答えはおそらく前者だろうと思った。


「僕は冷淡な人間だ。きっと、せっかく手にした幸福ですら、有事の際には投げ捨ててしまうだろう」

「だから最初から、幸せを求めないとおっしゃるのですね」


 その的を得た言葉が、胸を刺し貫く。リアラは全てを見透かすような目でこちらを見据えた。


「ご自身の意のままに好きなことをして暮らすことや誰かを本気で愛することは、陛下がお考えになるほど、足枷になどなりはしません。この通り、私は報われない思いを胸に生きていますが、むしろ自由に過ごしています。一人気ままに年老いて、時々甥や姪を無条件に可愛がるのです。とても幸せですよ。だから陛下」


 リアラの微笑みは、薄紅に色付いた満開の花のようだった。


「陛下もいつか、ご自分の心をかえりみて差し上げてくださいね」



「お話されていたのは、ウェドラー伯爵令嬢ですか」


 上質な音楽と、色とりどりの煌めきの洪水に呑まれたような広間に戻ると、イアンが滑るように歩み寄る。さすがは律儀な護衛騎士。離れていてもワルターの姿を注視していたのだろうか。


「ああ。旧知の仲でね」

「どんなお話を?」


 個人的な話に口を挟むのはイアンらしくないと怪訝に思ったが、豊穣祭で心が浮ついているのだろう。この男はむしろ、もっと気を緩めていいと常日頃感じていたので、ワルターは咎めるでもなく苦笑交じりに答えた。


「お説教をされたよ」

「お説教ですか」

「己を顧みろと。彼女はそうしているらしい。心に決めた男がいるのだと」

「それで何とお答えになったのですか?」

「相手の男は幸せだ、と言ったよ。その通りだろう」


 それきりイアンは口を閉ざし、何やら信じられないものを見るかのような視線を寄越した。普段の彼であれば主君には決して見せないだろう呆れを込めた表情に、ワルターは首を傾ける。


「イアン、酒でも飲み過ぎたのかい」

「いいえ。飲酒などいたしません」


 それにしては様子がおかしく思えたのだが、全ては豊穣祭の魔法だろうか。


 『己を滅し、国を保て』。その言葉は幼少の頃よりワルターの胸に深く刻まれて、今更どう足掻いてもその呪縛からは抜け出せそうもない。だが、いつか。北方オウレアスとのいざこざが一段落をして、宮廷や神殿の内輪揉めが収まった頃には、己を顧みてやってもいいのかもしれない。豊穣祭の宵、そう思えたのも、岩の神サレアの導きだろうか。


 ワルターは席に着き、眼下の喧噪を見回した。酒に飲まれかけて顔中を真っ赤にした男女が、たわいもない話に談笑している。広間は清潔で明るく、葡萄酒もパンも果物も、不足するものなど何一つない。着実に、この国は平穏へと向かっている。




3話 己を滅し国を保て 終

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