3 クローゼットの中には

 いくつかの休憩室を覗いたが、オスカーは見つからなかった。後日判明したことによると兄は、休憩室ではなく庭園の片隅で逢引きを楽しんでいたらしい。ワルターたちの捜索は見当違いであり、そのことが父の怒りに油を注いだことは言うまでもない。一方のワルターはこの日、予想だにしなかった事件と出くわすことになる。


 休憩室の扉を一つ一つ叩き、時にはあからさまに迷惑そうな視線を浴びせられながら回廊を進む中、ワルターはとある空室に差しかかった。ノックへの返答はない。誰もいないのだろうと思ったが、念のため扉を薄く開く。するとどうしたことか、無人であるはずの室内から、何か硬質で小さな物が転がるような音がした。やや逡巡してから、声を掛ける。


「どなたかいらっしゃるのですか」


 この段階では兄が実はどこにいるのかを知らないため、オスカーが隠れている可能性もあるかと考え、室内に足を踏み入れる。耳をそばだてれば、微かに息を吞むような音が鼓膜を震わせた。間違いない。この部屋には誰かがいる。それがオスカーかはわからぬが。


 部屋の中ほどまで進むが、隠れた人物は名乗りを上げる気がないようだ。銀灰色の絨毯の上を行ったり来たりしてから、ワルターは机の下や窓の外を覗いて見る。己の行動が不意に滑稽に感じられ、人の気配は気のせいだと結論付けようとした時、爪先が何かを蹴った。


 からころと音を立て、それは部屋の隅のクローゼットにぶつかって停止する。拾い上げてみれば、女性用の指輪だった。小ぶりだが上質な紅玉が埋め込まれた、精緻な意匠。意図せず蹴り飛ばした音で気づいたが、先ほど入室した際に転がっていたのはこの指輪だろう。


 ワルターは顔を上げて、眼前のクローゼットを見上げる。指輪が落ちていた軌道から推測するに、もしかしたらこのクローゼットの中から転がり出たのだろうか。指輪ならば、本来は宝石入れに入っているはずだろう。とすれば、この中には何が……。


 ワルターは意を決して、クローゼットの戸を引く。すると同時に、中から飛び出した俊敏な生き物によって背中を押され、からのクローゼット内に放り込まれてしまった。慌てて振り向き、閉じかけの両開き戸の間に右手を滑り込ませる。そして。


「痛っ!」


 容赦なく外側から押し付けられた扉が閉まろうとするのだが、ワルターの人差し指が挟まって、閉じ切らない。その間断続的に指に激痛が走り、ワルターは無様にも呻いた。


「ま、待ってくれ。折れる!」


 指一本分の隙間から、涙に滲む視界で外を見れば、回廊から差し込む薄明りに照らされて、赤金色がちらついた。


「僕は兄を探しに来ただけだ! 誰だか知らないが、ひとまず指を……」

「え……?」


 困惑気な女性の声がしたと思ったら、両開きの戸を押す力が緩み、ワルターは外へと転げ落ちるような格好になる。扉を押していた人物が小動物のような素早さで脇に避けたので、ワルターはそのまま絨毯の上に転がった。運動はさほど得意ではないのと、右指の激痛に苦しんでいたため、満足に受け身も取れず、したたかに腹を打ち付けた。穴があったら入りたい程の醜態である。


 だが、女性はそんなことは気にもせず、動揺した様子でワルターの脇に膝を突いた。ドレスの裾が汚れててしまいそうで申し訳ないと、場違いにも心配をしてしまうが、相手の方こそ気遣わし気に眉を下げていた。


「エルダス卿……ワルター様! 大丈夫ですか。本当に申し訳ございません。かと思って」


 痛む右手を抱え、脂汗を流しながら顔を上げれば、どこかで見た顔だ。何度か瞬きをして、思い出す。先ほど紹介された、アナの従妹。確か名前は。


「リアラ嬢? どうしてこんなところに」


 言って、ワルターは口を閉ざす。そういえば先ほど別れる前に、「怖い」のだと不穏なことを言ってはいなかったか。案の定、リアラは小さく肩を震わせているようだった。


「もしかして、誰かから逃げていたのかい」


 リアラは束の間、虚を突かれたような表情になり、それから小さく頷いた。


「はい。恥ずかしながら」

「それは失礼した。そうとも知らず、不躾に」


 ややずれた発言をしてしまったような気がするが、リアラは気に留めなかったようだ。驚きから回復したらしい彼女は、首を振って促した。


「いいえ。そのようなことは良いのです! 早く医務室へ行きましょう」


 脈打ち痛む右人差し指に視線を向けると、それは赤紫色に変色しつつあり、傷を意識してしまえば痛みは倍ほどに増幅したようにさえ感じられた。



「では、その令息から逃げていたと、そういうことか」


 包帯と添え木で指の治療を受け、痛み止めの薬湯を飲み干したワルターは、広間のバルコニーで欄干に腕を預けながら、リアラの話に耳を傾けていた。ひとしきり謝罪を口にしたリアラだったが、ワルターが笑って受け入れてやればやっと、身体を縮こまらせるのをやめて、彼女自身のことを語り始めた。庭園から、乾いた秋風が吹き上がる。


「はい。私ごときが、このようなことを申し上げるのをどうかご容赦ください。ですがあの人は……苦手なのです。それに、今年は初めての豊穣祭ですし……おおやけの場で男性と踊るのも……」


 リアラが言うことによると彼女は今、とある令息に追い回されているらしく、どうしても彼と踊りたくない彼女は、一人逃げ回っていたのである。動きにくい夜会用の衣装で歩き続けるのに疲れ、いっそのこと隠れてしまうことを考え付いたリアラは、空き休憩室のクローゼットの中に身を潜めていたそうだ。残念ながら、全く関係のないワルターに見つかってしまったのだが。


 だが、せっかくの宴の夜、一人で板に囲まれて息を殺しているのも哀れだろう。彼女は幼馴染の従妹でもある。ワルターにとっては、身内のようなものだ。


「せっかくだから、あなたも楽しんだ方が良い。初めての豊穣祭だと言っていたね。例の男の目が怖いのなら、僕と一緒にいればいい。そのうちアナ嬢とも合流できるだろうし」

「ですが、ご迷惑をおかけするわけには」

「いいや、このくらいしか役に立たないからね」


 何のことだろうかと、リアラは首を傾けたようだった。ワルターは曖昧に首を振る。


 普段は煩わしさの象徴のようなレイザ公爵の子息という立場だが、このような場面では役に立つ。相手はレイザ公爵の名に気が引けて、無体な真似は控えるだろうからだ。だがそれを口にするのも格好つかない。


 クローゼットに挟まった挙句、床に大転倒をしたワルターはすでに、彼女の目には情けない男にしか映らないだろう。このに及んで、家名を持ち出すなど無様の極みだった。


 不意に、広間から漏れ出る室内楽の曲調が変わり、優雅な三拍子が流れる。初めての豊穣祭が、嫌な思い出で塗りつぶされるのは良くない。少しでも楽しんでもらおうではないか。そのためにはまず、身体を動かして緊張を解くのが良いだろう。


 ワルターは小さく咳払いをして取り繕い、包帯巻の手を差し出した。


「よろしければご一曲いかがですか、リアラ嬢」


 リアラは目を丸くしてこちらを見つめる。滑らかな頬にみるみる赤みが差した。大衆の注目を浴びるのが恥ずかしいのだろうかと思ったが、いつまでも誰とも踊らないわけにはいかないだろう。その点、従姉の幼馴染であるワルターは適任だと思われた。


 リアラの赤金色の瞳を覗き込む。広間の熱気に当てられたのか潤んではいたが、拒絶の色はないように見えた。代わりに浮かんだのは、謙虚な配慮だった。


「でも、私のせいでお怪我を」

「であればなおのこと。こんな手ではあなた以外誰も踊ってくれないだろうから」


 笑って言ってみれば、リアラは少し躊躇して、細い指を控えめな所作で包帯の上に添えた。あいにく怪我のため、しっかりと握り返すことはできなかったのだが、リアラの表情がいくらか明るくなったので、ワルターは安堵した。


「さあ、宴はこれからが本番だ」


 二人は滑るように広間に躍り出た。

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