第4話 死人・秋月の苦悩は続く
◆ 秋月はいつも雪子に寄り添っていた。
秋月から愛され過ぎていた雪子を案じ、古谷は手紙を書いた。
…………………………………
西崎雪子 様
西崎さん、少しは元気になったかい?
あの離れで君は秋月さんと暮らしているだろうと勝手に想像している。あそこは不思議な場所だ。神仏を信じない僕でもあの不可思議さはよくわかる。結界が及ばないエリアだろう。
いきなりだが提案したい。君は福岡に戻って教師になる気持ちはないだろうか。緑猷館高校に社会科教諭のアキがある。もし良かったら紹介したい。
次に僕のことを書く。
僕は秋月さんのような心臓外科医になりたいと思っている。秋月さんの指導を受けることに決めていたが、東京の榊原記念病院に行くことにした。僕が一人前になることが秋月さんの鎮魂になると考えた。そして、秋月病院に戻ろうと思っている。しかし僕はあっさりと前言を翻す弱さを持っている。あまり信用しないでくれ。
ああ、そうだ、君の噂を聞いた。秋月さんが残してくれた金を受け取らなかったそうだね。秋月さんは変わった人だったが、君の方がもっと変わっているかも知れないと笑ってしまった。秋月さんはあの不機嫌な顔で多分「僕の言うことを何ひとつ聞いてくれない」と嘆いただろうが、すぐ許しただろう。
君を東京に行かせたくないと、このセリフを幾度も吐いて嘆いた秋月さんを思い出した。君の決断を応援したい。5歳の弟さんのことも耳にした。正直言って、驚いた。秋月さんが生きていれば、惜しみなく援助したことだろう。
気がかりなのは秋月さんと君だ。僕は秋月さんほど一人の女性をあんなに愛したことがないから、こんなことを言う資格はないが、君が秋月さんにすがって生きる限り、君のもとを離れないだろう。君に会った途端に無愛想な表情を瞬時に崩すのを何度も見た。秋月さんが背負っていた苦悩と孤独と重圧を抱きとめていたのは君だった。見事だった、そう思っている。
秋月さんが早逝したことは本当に悔しい、神仏を恨んだ。それは君の気持と同じだと思う。だが、秋月さんはいない。その現実を早く受け止めて欲しい。
秋月さんもずっと君と一緒にいたいだろうが、少しづつ解放してくれないか。秋月さんを修羅の世界に陥れないで欲しい。辛い気持はよくわかるが、カミソリ秋月を救えるのは君だけだ。お願いする。
最後に付言させて欲しい。和田が心配だ。憧れていた君の凄惨な包帯姿を見てから暗い表情だったが、最近は学内で見かけない。下宿先を訪ねたが会えなかった。
人間の生死、運命や人を愛することなど、出口がない難問で悩んでいたら厄介だ。少し元気になって気が向いたら、ハガキでも出してくれないか。先輩として和田の心情が忍びない。ここに住所を書く。
長い手紙になって悪かった。もし福岡に戻って来る気があれば出来るだけのことをさせて欲しい。榊原記念病院は渋谷にある。元気になった君とそのうちに会えればと願う。それでは秋月夫人、秋月さんによろしく言ってくれ。
古谷 潤
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山川や星野院長、チームスタッフ、ナースからも手紙が届いた。俺は天井からそれを眺めながら、
「雪子はいいなあ、心配して手紙をくれる人がこんなにいるなんて、羨ましいなあ」
「何を言ってるんです。いっぱい心配かけたのは蒼一さんでしょ。だけど死んじゃったから、みんなは手紙を出せないだけです。我儘言っちゃだめですよ」
「そうか、僕に手紙を出しても届かないからなあ……」
淋しく秋月は笑った。
古谷は榊原に行くのか。雪子と同じ眼をしていて、必ず最後までやり通す人だと高嶋先生が言ったが、アイツを鍛えてみたかった。一端の心臓外科医になれるだろう。ふーん、東京に来るのか。まてよ、アイツか。雪子の結婚相手は?
俺は雪子の周りの男を全て疑っていた。
俺は離れが気に入って去り難く、雪子と移動する以外はそこにいた。
雪子が大学に行っている時間に秀明斎とよく話をした。いつも俺は縁側に寝転んで本を読んでいたが、秀明斎の笑顔で起き上がり、秀明斎のふくよかな茶を楽しんだ。本当に旨かった!
「ここで読書三昧して暮らしたい」、そう言っていた秋月の言葉を思い出し、秀明斎は庭の梢を眺めた。現世の時間とは違う、ゆったりと拘りのない時間が流れていた。
「秋月先生、高嶋からお許し願いたいことがあります」
雪子の左手が動くようになったら、一日も早く茶道の修道者として修練させ、茶名・紋許を与えて助教授にさせたいので、秋月先生の許しを得たいと伝えた。
雪子に食べていける道筋を付けてやろうと考えた高嶋の厚情に、俺は頭を下げて涙した。
秋月の涙につられた秀明斎は、生身の秋月先生と雪子さんとお子たちをこの離れに迎えたかったと思い、人の世の儚さと惨さに落涙した。
◆ 秋月の姿はおぼろに霞んできた。
「蒼一さん、どうしました? 元気ないです」
雪子の膝枕で横になっていた俺は、死人に元気がないと心配する雪子が可愛くて仕方がないが、日を追うごとに自由にならない自分の体に悩んでいた。
雪子を抱きしめたときに雪子の質感は十分に感じられるが、受け止める俺は薄っぺらな紙のような存在で、雪子が俺を突き抜けてしまうのを感じた。俺は死人だから肉体はなく、質量を持つ物体ではないことは承知しているが、俺はペラペラのパラフィン紙かプレパラートか? 雪子の眼の前から消えて行くことに恐怖を感じた。
星野に雪子とのSexを見せつけたとき、手足は動きペニスは充実感を保ち、絶頂感も得られた。だが、今の俺は重さを全く感じられない。そのためか雪子から呼ばれると重力と無関係に素早い瞬間移動が可能だ。
最初はそれが面白くて、高嶋邸を取り巻く木々の梢のてっぺんから下を見たり、巣箱を覗いた。小さな巣箱にさえ入り込めた。やがて俺は少しずつわかって来た。
肉体とは、肉や臓器、諸器官や血管が集積していればこそ肉体だが、軀となって焼却されたら、それらは失われて白骨となる。白骨と霊魂とはまったく違うことに気づいた。白骨は霊魂の抜け殻で、脱ぎ捨てられたパンツみたいなものだとわかった。
最近の俺は雪子の眼にはどう映っているのだろうか。少し前までは全身が見えたようだ。俺の服を脱がすとき、雪子は恥ずかしそうに視線を泳がしたからだ。
俺は湧き上がる欲情と興奮に身震いし、恍惚感に満たされた。それはイマジネーションの遊びかも知れないが、幸せだった。
俺は死人だが雪子を独占できる。アイツが大学で何を学び、何を話し、何をしているのか頭上から眺めていた。雪子に興味がある男もわかる。不埒な妄想を抱いて雪子に近づいた男を階段から突き落としてやった。生前の秋月蒼一が癇癪を起こした、どうにも入れなかった世界は消滅した。
しかし、そう良いことばかりは続かなかった。雪子を抱いても質感がわからなくなって来た。ああ、俺はもっと辛い状況へ落ちるのか? 自分が死んだことをやっと受け入れたばかりの俺は、最大の癇癪を爆発させて、どうにでもなれ! いつまでも雪子の傍にいて、泣いたり笑ったり、抱きたい! 死人になっても現世の不合理を呪った。
「ただいまー! 蒼一さん、戻りました。どこでしょう?」
秋月はいなかった。蒼一さん、どうしたんだろう? どこへ行ったの? 部屋中を見渡していたときに秀明斎が、
「秋月先生のことでお話があります。雪子さんを心配なさって、四十九日を過ぎてもここでお過ごしです。それではいけません。先生は亡くなられたのです。先生にもご都合があるようです。あちらの世界に帰してあげましょう。いつまでも人間界にいてはいけません。亡くなった方は現世に虚ろな魂を置くだけでもそれなりの力を必要とします」
「秀明斎先生、最近の蒼一さんはぼんやり霞んで見えるときがあります。声は心で聴くのでしっかりわかりますが、蒼一さんは病気になったのか、疲れているのかなと心配していました。蒼一さんは無理してたんでしょうか? 私のために」
「そうかも知れません。雪子さん、そろそろご自分で歩いて行きしましょう」
雪子と大学から戻って来た星野は縁側で秀明斎の話を聞いていた。近頃はコロンの匂いが漂っても秋月の姿が見えないことがあった。あの実体がないSexの示威行為を見せつける力さえも失せたのか、この世に未練を残して死ぬと本人も辛いんだなあと同情した。
「雪子さんはおわかりでしょう。秋月先生は既に胸から下は消えています。私の亡くなった妻がそうでした。私は妻の死をずっと拒否していたので、妻は傍にいました。そして、姿がだんだん見えなくなり、最後は小さな光の塊になって消え去りました。雪子さん、近々、秋月先生の鎮魂の茶会をしてお別れしましょう。いいですね」
雪子は秀明斎の言葉をずっと考えていた。
部屋のど真ん中に布団を敷いてバタンと大の字に寝るのが好きだった雪子は、秋月を待って右側を空けて眠る癖がついていた。真夜中に眼が覚めても隣に蒼一さんがいない、愛する人がいない、抱きしめてくれる人が、愛してくれる人がいない、蒼一さんは本当にお星様になって私の前から消えていったの? 淋しくて辛かった。
雪子は秋月の霊魂といつまでも一緒にいられるものと信じていた。卒業して仕事に就いても、家で帰りを待っている、そう願っていた。見たこと聞いたことをたくさん話そうと思っていた。
「蒼一さん、どうしたんです? 何だか本当に元気がないみたい。怒ってますか?」
死人に怒っているかとは、相変わらず面白い子だなあと思ったが、次第に影も形もなくなって空気と同化していく自分に絶望していた。実体はなくても俺はずっと雪子と暮らしたいと思っていた。
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