第6話 現世が遠くなって行く
◆ 孤独で退屈な冥界、秋月の日常。
俺は退屈しきっていた。冥界は死人がぞろぞろ歩いているとばかりに思っていたが、誰にも会わなかった。時折、下界では体験したことがない鋭い陽光が突き抜けることがあっても、瞬時に反転して漆黒の暗闇が広がる。
喋る相手はなく、飲まず食わず、眠らず、排泄や性行為もなく、生前の行いを後悔するか、懐かしむか、悲嘆に暮れるか、絶望するか、思考を停止するか、それとも何も考えずに退屈な時間が過ぎ去るのを待つしかなかった。だから俺は雪子の傍にいたのだが、時間の感覚は徐々に失われて行った。
桜が散って蛍が乱舞する季節に入った頃、雪子はすんなり就職が決まった。
英文学の本戸助教授、政治学の大谷助教授、経済学の難波田教授と山岡教授の推薦状をもらって、読売新聞社東京本社に1発入社が決定した。
4通の推薦状なんてあり得ない特例だ! さすがは俺の教え子だと嬉しく思ったが、自分の不甲斐なさと情けなさが恥ずかしかった。
おめでとう! 立派な企業に入れたねと淋しさを隠して喜んだが、心配はあった。
まさか若死するとは知らなかった俺は、雪子に苦労をかけるとは思ってなかった。俺は医者として働くから、雪子は家庭を守って子供を育て、仕事に就きたければ許そうと考えていたが、我身と母親を養うために雪子が働く境遇になろうとは……
あの世間知らずがやって行けるだろうか、体が弱くて、いつも疲れた眠いと俺に甘えたアイツは倒れないだろうか… 冥界に身を置いても心配と不安は尽きなかった。
一方、雪子を早く茶道師範にしたい高嶋の指導は鬼気迫るものがあった。雪子は涙ひとつ見せず心を静かに保ち、頭を垂れていた。
高嶋は茶事指導の傍ら、茶道の文献を繙(ひもと)き歴史や有職故実を教え、禅の真髄を講じ、一挙手一投足に至るまで厳しく教え込んだ。横に控えた秀明斎が思わず眼を伏せる修練が続いた。
高嶋の指導を眺めていたが、俺だってあれほど厳しくなかった、手加減したぞ。そんなに雪子を虐めるな、クソババア! 怒ったこともあったが、雪子の行く末を心配してくださるからだと、何も力になれない無責任な己を恥じて口を閉じた。
連日遅くまで茶の指導が続き、大学から一緒に戻った星野は夕飯の手伝いをし、遅くなったときは母屋に泊まった。秀明斎から雪子と星野は血縁がないと聞かされた高嶋は驚いたが、星野の気持ちを大切にして知らないふりを続けていた。
雪子は、秋月が恋しくてたまらない寝苦しい夜は水ごりして体を冷まし、お休みなさいと眼を伏せた。指をくわえて見ているだけの秋月が最も切ない哀れな夜が重なった。
冥界では時間の感覚が完全に消滅する。あれからどれだけ経ったのだろう。
東京に進学させたこと、入籍を拒んだことを秋月に詫びて、雪子の母親は亡くなった。体調を心配して山川が訪れたとき、既に事切れていた。枕元には秋月家の紋が染められた留袖が置かれていた。
病院の霊安室で母親と対面した雪子は親不孝を詫び、骨壷を抱いて東京に戻って行った。中日新聞社名古屋本社に就職していた星野は、休暇をとって寄り添っていた。
俺は下界の過ぎゆく時間を眺めていた。
雪子は健気にやっている。入社当時はお局サマにかなりいびられたが、手首や喉元に残る傷跡の理由を福岡支社から伝えられた上司や同僚は、箝口令を敷いて雪子を中傷やいびりから守った。
雪子は、社会見学でやって来る小学生を案内し、新聞が社会に果たす役割や製造工程を伝えた。雪子に憧れた小学生からはファンレターが届き、子供たちに返事を書いた。休日ともなると小学生が離れを訪れることがあり、縁側に正座させて茶を振る舞った。
俺は雪子の日常を見ていて、嬉しい反面、淋しかった。縁側に座らせられ、ぎこちない手付きで茶碗を回している小学生を見る度に、あれが俺たちの子だったらと思い、まだ未練を膨らましている自分を持て余していた。
雪子は背一杯生きている。時々空を見上げては涙眼で俺を呼ぶ。雪子、僕はここにいるよ。ちゃんとキミを見ているよ。俺の声は届いているのだろうか、切なかった。
◆ 雪子の相手は古谷なのか?
ある休日、古谷が訪ねて来た。独りになった雪子を気遣い、榊原記念病院の受診カードを渡した。
冥界に身を置いても、雪子の後ろで背後霊のように控えていた俺は、
「ほう、古谷か、久しぶりだな。オマエを指導する約束を守れずに悪かった。榊原か、キツイだろうが頑張って欲しい。少し痩せたようだ、無理するな」
古谷は秋月の声が届いたのか、雪子の頭上を見つめ、会釈して微笑んだ。
古谷は、ポケットから俺が贈ったハート型のタイピンを出して、あの時のことを話した。雪子は驚いて、
「そうなんですか。私のお腹のダイヤは古谷さんが唆したんですね。やっとわかりました。なぜ、勝手にこんなことをしたんですかと蒼一さんを責めたら、ちょっと困った感じでシドロモドロでしたもの」
「すみません。僕が軽率でした」
「いいえ、蒼一さんが残してくれたもの、それは愛された幸せとこのダイヤです。私の宝物です。蒼一さんを唆してくれてありがとうございます」
雪子は涙を振り切り、薬指の wedding ring を見つめて微笑んだ。
「ところで君の兄さんはどうしてますか、元気ですか?」
「お兄ちゃんは中日新聞社に入って名古屋勤務です。でも、1カ月に1度は顔を見せてくれます。元気にしてますよ」
「彼は結婚してないのか?」
「だって、まだペイペイですもの」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
古谷は星野の気持ちを知っていた。気づいていないのは目の前にいるこの人だけらしい。この人は鈍いうえにいつも騒動を起こすと、秋月さんが嘆いていた。
そう言えば、水球部のチンレツ騒動は傑作だった。緑猷館高校の在校生から卒業生まで噂はあっという間に広がり、ドジな女子高生だと大笑いしたことを思い出した。
水球部のチンレツ騒動とは、水球を見学していた高校生の雪子が熱中症になり部室で休んでいたときに起きた。雪子はうっかり眠ってしまい、目覚めたときに、心配して取り囲んだ全裸の水球部員のずらりと並んだ股間が視界に入り、驚いて2回も気絶した事件だ。
秋月さんが山ほど癇癪を起こしながら、この鈍い人を育て上げたのが眼に見えるようでおかしかった。
「ああ、そうだ。代稽古が出来る免状を近々授かることになりました。その折に内輪で茶会を開きます。もし、お時間があったら来ていただけますか」
「ぜひ、伺わせていただきましょう。ここに連絡してください」
「わっ、古谷さん、第1心臓外科チームですか! 凄いです!! 立派になられたんですね。あの~ 和田くんのこと知ってます? 私、文通してるんですよ。彼も頑張ってますよ、すごく優秀らしいです。とっても嬉しいです!」
古谷は知っていた。悲しみのどん底で喘いでいたこの人から心配され励まされて、和田は自分の甘えに気づき、見違えるように勉強しているようだ。女の力って凄いなあと呆れたことを思い出した。なんと言ってもこの人は和田のマドンナだ。この人の励ましで和田がコロっと変わったことも聞いていた。
秋月病院もこの人の力でずいぶん変わったようだ。つくづく不思議な人だと思った。秋月さんがあんなに愛したのも、そういうことかと納得した。
「西崎さん、ひとつ教えてくれないか」
「はい、どんなことでしょうか」
「今でも秋月さんを愛しているのか」
「そうです。蒼一さん以外の人は考えられません。これまで一番たくさん話した人です。私が月だったら、蒼一さんは太陽です。大きさや輝きが私と全く違う人でした。忘れられません」
「そうだろうなあ、秋月さんの代わりになれる人はいないからなあ。だが、君と秋月さんをよく知っている人ならどうだろう?」
「はあ? 誰でしょう」
「うーん、わからないか。西崎さんがオールドミスになるのは残念と思っただけだ」
古谷は口を噤んだ。この人が太陽で秋月さんが月だったかも知れない。ふと、そんな気がした。
おい、古谷、余計なことを言うな。雪子の心を揺らすな。しかし、雪子がオールドミスか、行かず後家か…… だが雪子をまだ解放したくない、他の男に渡したくなかった。
◆ 亡魂が泣いたお披露目の茶会。
吉日を選んで、雪子に代稽古が許されたお披露目の茶会が内輪で開かれた。
星野涼と古谷潤のほか、福岡から星野院長夫妻と山川婦長が出席した。雪子は三つ撫子の紋を染め抜いた黒留袖に初めて袖を通し、亭主を務めた。
正客は星野院長で、妻の友恵に渡り、最後が秀明斎だった。星野院長は雪子の留袖姿を見て、雪子さんはまだ秋月院長を愛している、そう思った。
濃茶の次に薄茶を星野院長の前に置いた。ゴクリと喉を鳴らして飲み干し、
「母さん、雪子さんのお茶は実に美味い。きっとお前にもわかるよ」と目を細めて妻に微笑んだ。
蒼一さんから「母さん」と一度でいいから呼ばれたかった、雪子は俯いた。
頭上から見つめていた俺は、秋月家の紋が染め抜かれた留袖姿に驚いた。京子先生とマサオ先生の結婚式に出席するために誂えたものだが、初めて見た。それは、ありふれた吉祥文様ではなく、幼い唐子が唐獅子に乗って興じているものだった。留袖姿の雪子を山川がそっと涙を拭って見つめていた。
俺に見せたくてこれを着たんだね、今でも俺の妻で秋月院長夫人だと…… 死人を泣かせてどうするんだ。俺は雪子が愛おしくて、どうしようもなかった。
茶会がお開きになって、
「お父さん、ここは素晴らしい所ですね。何だか普通とは違うような気がします」
「母さんもそう思うか、そうだね、雪子さんにぴったりだ」
院長夫妻はこの離れと庭に何か普通と違うものを感じて、木々を渡り抜ける風のささやき、風を受けた軽やかな花の揺らぎ、鹿威しにぴくっと首を竦める小鳥たち、世間とは別世界のような空間に見とれていた。
秀明斎の提案で、客人は離れに泊まることになって静かな宴が始まった。
星野友恵と山川はすぐ打ち解け、星野院長は古谷に榊原記念病院での研修について尋ね、アドバイスしていた。
星野は台所で料理を作っている雪子に、
「これはオレが持っていく。そっちはどうだ、落とし蓋を取ろうか?」
絶妙なコンビネーションで気遣っていた。
7年前、西崎さんに話しかけようとしたら「オレの妹に何か用か」と遮った星野を思い出した。秋月さんはこの名コンビに相当悩まされたのだろうと、古谷は苦笑いした。
涙を堪えて次々に料理を作っているこの一途な人を愛してみたい、そう思った自分を古谷は慌てて戒めた。
雪子の旨い料理が復活し、院長夫妻は美味しい美味しいと口に運びながら、ほっと安堵した。『魚政』からご祝儀で江戸前のお造りを差し入れにいただき、静かながらも和気藹々で内輪の宴は過ぎて行った。古谷は星野の相手をしながら、どんな男だろうと品定めしていた。
明け方、夜明け間近の庭が見たくなり、古谷は外へ出た。星野が巣箱を見上げているのに出会った。
「おはよう、星野くん。ちょっと聞きたいことがあるがいいか?」
「はい、何でしょう。僕に答えられることであれば……」
警戒して語尾を濁した。
「星野くんは西崎さんを心配しているようだが、この先どうするつもりか?」
「はい? 7年前に秋月さんからユッコを預かりました。そして秋月さんが亡くなってからは、ユッコの身が立つようにすることが僕の責任だと思いました。やっとユッコは一人前になってくれました」
「それで、星野くんは西崎さんと結婚する気があるのか?」
「えっ、答えなくてはいけませんか。本当にアイツを幸せに出来るのだろうか、秋月さんでも出来なかったと悩んでいます。それに、ユッコの心は僕ではありません。秋月さんです。秋月さんを忘れろとは言えませんが、二番目でいいから気にしてくれないかなと思います」
「そうか、君の気持ちはわかった。西崎さんと交際してもいいか? 異存はないか?」
「いや、反対です、反対します」
「冗談だ。忘れてくれ。しかし今でも彼女の心は秋月さんのものだ。君の気持ちに気づいてないのはあの人だけだ。とんでもなく鈍感な人だ。星野くん、せいぜい秋月さんと話し合ってくれ」
あけぼの色に輝く空を見上げて、古谷は笑っていた。
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